どうしても巨人が好きで仕方がなかった元木大介。
2016年11月25日 更新

どうしても巨人が好きで仕方がなかった元木大介。

福岡ダイエーのドラフト1位指名を蹴って1年間のハワイ留学を選んだ元木大介、当時は印象に残りました。1年後に指名される保証もないのにと。巨人が好きで巨人で現役を終えた元木、いまではタレントとして活躍。そんな元木の経歴を振り返ります。

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元木大介

ユーティリティープレイヤーとして活躍

ユーティリティープレイヤーとして活躍

元木 大介(1971年12月30日 - )は、大阪府豊中市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
小学6年生の頃、当時巨人の監督だった王貞治と対面し、一緒に記念撮影をした際、「プロ野球に入るなら巨人に来いよ」と激励された事に感激して以来巨人ファンに転向

高校時代はスラッガー

南海ファン⇒巨人ファンに

南海ファン⇒巨人ファンに

幼少時代は南海ホークスファン。南海OBによって運営されていた少年野球チーム・ジュニアホークスにも入っていた。
小学6年生の頃、当時巨人の監督だった王貞治と対面し、一緒に記念撮影をした際、「プロ野球に入るなら巨人に来いよ」と激励された事に感激して以来巨人ファンに転向。
豊中市立第十二中学校時代、バッティング練習中にあまりに打球を飛ばすので学校が近所への迷惑も考え高いネットを張った。「元木ネット」と言われている。

上宮高校で甲子園に3回出場。1989年の夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど注目された。
高校通算24本塁打。甲子園通算6本塁打は清原和博に次いで歴代2位タイ(桑田真澄と同数)の記録。

端正なマスク、スターと言われた外見とは裏腹に、あまりに唐突な発言の連発でチームの人気者となり、キャプテンに選ばれた。殺到するファンを避けるどころか、気さくな笑顔で手を振って応じるなど、それまでの人気選手の立ち振る舞いとは一線を画していた。別の高校に進学した先輩にもきちんと挨拶に行く等、礼儀正しい選手だった。

3年時の夏は大フィーバーで、大阪大会や甲子園練習には女性ファンが殺到。開会式当日、出場校は球場の外で待機することになっているが、混乱を避けるために上宮だけ隔離されるという異例の措置も取られた。

福岡ダイエーのドラフト1位指名を辞退

巨人からの指名を希望して1年間のハワイ留学

巨人からの指名を希望して1年間のハワイ留学

ドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するが、巨人は大森剛を1位指名。福岡ダイエーホークスから野茂英雄の外れ1位で指名されるがこれを断り、1年間ハワイに野球留学する。

実際にはハワイの環境では本格的な野球練習は出来ず、大学・社会人に進むと次回ドラフト指名まで年数がかかるためそれを避ける行動だったといわれる。

巨人での活躍

めでたく巨人に入団~巨人で引退

めでたく巨人に入団~巨人で引退

1990年のドラフト会議で巨人より1位指名を受けて入団する。1992年から1軍で出場。バッテリーを除く全てのポジションを守れるユーティリティープレイヤーとして活躍。
オールスターゲームでは、初出場の98年は遊撃手、翌99年は三塁手のファン投票で選ばれるも、98年は代打のみ、99年は二塁手で試合に出場。

2000年9月24日東京ドームでの中日ドラゴンズ戦で「2番・左翼手」として先発出場し、8回まで被安打5・無四球無失点と、好投を続けていた前田幸長からライト前ヒットで出塁、2番手エディ・ギャラードから江藤智が同点満塁弾、二岡智宏がサヨナラホームランを放ち、巨人が4年ぶりにリーグ優勝を決定する口火を切った。

2003年以降は度重なる故障に悩まされ、2005年は堀内恒夫監督のチーム若返りの方針により後半戦は戦力構想から外れて2軍生活を送ることとなり、活躍の場を失った。その年の9月に戦力外通告を受ける。

オリックスや楽天などから入団の誘いがあったものの、浪人してまで巨人入団を1年待った経緯もあり、「ジャイアンツが好きだから、入団したときからこのチームでいらないと言われたら辞めようと決めていた」と33歳の若さで現役を引退。
高校時代は 甲子園通算6本塁打を記録したスラッガーだったが、プロ入り後はつなぎ役に徹していた。また1998年には得点圏打率1位に輝くなど勝負強かった。

守備では内野ならどこでもこなす他、外野手としても出場した。三塁手としての出場が一番多かったが、インタビューの質問で「どのポジションを守りたい?」という問に入団から主にセカンドを守っており、仁志敏久の台頭以降はセカンドを守る機会が激減したこともあり、本人はセカンドで勝負したかったとインタビューで発言していた。

【プロ野球】くせ者・元木大介の名場面【珍プレー集】 - YouTube

現役時代、大石恵と浮名を流したことも

引退後はタレントとして活躍

タレント兼実業家

タレント兼実業家

2005年シーズンオフから日本テレビ系列のTHE・サンデーのスポーツコーナーにレギュラー出演、2006年よりTBSラジオ野球解説者、スポーツ報知評論家となった。30代半ばの時期は若いこともあり、中継の際は必ず年上・年下問わず「XX選手」と言うようにしていた。

バラエティタレントとしても活躍する傍ら、2010年9月に仲御徒町、2012年9月には広尾にラーメン店「元福」をオープンしたものの両店舗ともに閉店。2013年6月から足立に本店を構えたが2014年暮れに閉店。

清原の子分と呼ばれる

清原を崇拝

清原を崇拝

清原和博とは親交が深く、巨人時代から報道機関には清原の子分と書かれることが度々あった。
清原は「広沢さんと元木がいなかったら自分はどうなっていたか」と語り、元木は親分と慕う仲である。ただし、プライベートの付き合いは少なく、巨人時代は年に2回ほど食事をする程度。

清原が引退後も清原と一緒に多くの番組にゲスト出演していて清原のことを語ることが多く、クイズ番組などでは清原のサポート役に回ったことも。

奥さんは大神いずみ

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