プロ入りも異端であった落合博満
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落合は甲子園のスターではなく、大学野球のスターでもありません。それどころか高校では半ば幽霊部員、大学は中退しています。
社会人を経てのプロ入りは25歳という遅さ。
プロ入りまでのエピソードにも異端さが感じられる落合のプロ入り前を振り返ります。
社会人を経てのプロ入りは25歳という遅さ。
プロ入りまでのエピソードにも異端さが感じられる落合のプロ入り前を振り返ります。
体罰をも良しとする体育会系の風習が嫌いで甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。が予想に反して先輩による理不尽なしごきに耐えかねて野球部を退部。
投打とも実力は抜きん出ていたので、試合になると部員の説得で復帰をしていたというエピソードもあります。
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1972年、東洋大学に進学。しかし、先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰った。
秋田に帰ってボウリング場でのアルバイトをきっかけにプロボウラーを目指すようになります。しかしスピード違反の罰金を支払ったところ受験料が払えずに断念しています。
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1974年、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現し、1978年にアマチュア野球全日本代表に選出された(森繁和も選ばれている)。
それでも昼間は仕事、夕方から野球の練習というスケジュール。
1978年のドラフト会議でパシフィック・リーグのロッテに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった。
プロ入り前のエピソードを振り返っても、落合が野球に打ち込んで努力してプロを目指したという感想が沸いてきません。
才能は人一倍、野球は好きだったのでしょうが風土に合わなければやめてしまうというドライさも見えます。それはプロ入り後のエピソードにも見えてくる特徴でもあります。
才能は人一倍、野球は好きだったのでしょうが風土に合わなければやめてしまうというドライさも見えます。それはプロ入り後のエピソードにも見えてくる特徴でもあります。
史上最年少の三冠王
1982年、史上最年少(28歳で開幕を迎えたシーズン)で三冠王に輝く。しかし数字的には突出したものではなかった(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)。
豊田泰光氏はこの成績に対して三冠王の資格無しと評しましたが、落合は取ったこともない人間に言われたくないと意に介しませんでした。
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1985年、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王
1986年、シーズン中盤までブーマー・ウェルズや秋山幸二らと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。
日本人史上初の1億円プレーヤー
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1986年、監督の稲尾氏が退任、ミスターオリオンズの有藤氏に要請することが決定的でした。その際のロッテの対応を落合は「野球人」で語っています。
有藤氏に要請する際の条件の一つとして、落合のトレードがあったというのです。球団の要請なのか、有籐氏の要請なのかは読み取れませんでしたが、ミスターオリオンズという名誉のために落合がトレードに出されるというのは異様な事態です。
有藤氏に要請する際の条件の一つとして、落合のトレードがあったというのです。球団の要請なのか、有籐氏の要請なのかは読み取れませんでしたが、ミスターオリオンズという名誉のために落合がトレードに出されるというのは異様な事態です。
トレードになることを知った私は、 この年のオフに行われた日米野球の移動日である11月4日に、 福岡市内で開かれた『落合博満を励ます会』の席上で記者たちに思いのたけをぶちまけた。 稲尾さんがいないなら、自分もロッテにいる理由はない。
牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂という4選手との1対4の交換トレードで中日に移籍。日本人初の年俸1億円プレーヤーとなりました。
30代後半になってもバッティング技術は衰えることは無く、チームを引っ張っていました。