吉川晃司 プロフィール
出生名 吉川 晃司
生誕 1965年8月18日(53歳)
出身地 広島県安芸郡府中町
学歴 修道高等学校中退
ジャンル J-POP、ロック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1984年 -
事務所 渡辺プロダクション→セブンスエンタープライズ→アクセルミュージックエンターテイメント
生誕 1965年8月18日(53歳)
出身地 広島県安芸郡府中町
学歴 修道高等学校中退
ジャンル J-POP、ロック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1984年 -
事務所 渡辺プロダクション→セブンスエンタープライズ→アクセルミュージックエンターテイメント
生い立ち
2年連続高校MVPの吉川晃司さん。さすがのカッコよさですね。#吉川晃司 #水球 #広島 #修道 #日体 pic.twitter.com/hBOkc9B46P
— UNITED・ウォーターポロクラブ™️ (@united_wpc) May 31, 2016
吉川さんの元の実家は原爆投下まで、現在の広島市中心部、原爆ドームと元安川を挟んで真向かいにある当時、中国地方指折りの繁華街だった「中島地区」そうです。
中国地方指折りの繁華街「中島地区」で料亭、吉川旅館を祖母が営んでいたが、戦況の悪化に伴いこれを船本家に売って旅館を譲り、原爆投下1か月前に疎開し難を逃れたそうです。
府中町立府中小学校出身。修道中学校を経て修道高等学校2年時に中退。
広島修道中学校時代から水球の選手となり、修道高校時代にはU-20日本代表に選出された水球選手で最年少日本代表としてイタリア・エジプト遠征にも参加されたそうです。
因みに、修道高等学校って「偏差値:70」で東大合格者数でいうと県内2、3番手の位置だそうです。う~ん偏差値40の私からしたら想像がつかない・・・
中国地方指折りの繁華街「中島地区」で料亭、吉川旅館を祖母が営んでいたが、戦況の悪化に伴いこれを船本家に売って旅館を譲り、原爆投下1か月前に疎開し難を逃れたそうです。
府中町立府中小学校出身。修道中学校を経て修道高等学校2年時に中退。
広島修道中学校時代から水球の選手となり、修道高校時代にはU-20日本代表に選出された水球選手で最年少日本代表としてイタリア・エジプト遠征にも参加されたそうです。
因みに、修道高等学校って「偏差値:70」で東大合格者数でいうと県内2、3番手の位置だそうです。う~ん偏差値40の私からしたら想像がつかない・・・
渡辺プロへ直談判!
渡辺プロの歴史
— SORA♬ (@nagis211) March 6, 2018
渡辺晋
森進一 布施明 沢田研二 pic.twitter.com/v9O9iWAo8v
吉川さんは音楽の世界でビッグスターになるには「まずはスカウトされること」と考え、渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」などと自ら手紙を書き送りつけたそうです。
渡辺プロの関係者が、高松の松本明子さんを見に行った帰りに、本当に会いに来てくれて、その後の数度のオーディションを経てナベプロ入りを果たしたというから凄いです。
ただ吉川さんだけが東京に呼ばれたと思っていたら、そういう人が他にも沢山いて、すぐにデビューさせてもらえず、当初はスクールメイツと練習をしていたそうです。
しかしいつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし、社長室に直談判したところ渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなったとか。
渡辺プロの関係者が、高松の松本明子さんを見に行った帰りに、本当に会いに来てくれて、その後の数度のオーディションを経てナベプロ入りを果たしたというから凄いです。
ただ吉川さんだけが東京に呼ばれたと思っていたら、そういう人が他にも沢山いて、すぐにデビューさせてもらえず、当初はスクールメイツと練習をしていたそうです。
しかしいつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし、社長室に直談判したところ渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなったとか。
プロデビュー
吉川晃司「モニカ」
via www.youtube.com
ミドル世代なら誰しも歌った、踊った!「モニカ」で歌手デビュー(1984年2月1日)。
この曲は、同年2月11日公開の主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあり大ヒットしました。
その後も立て続けにヒットシングルをリリースし、1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。
1985年の始めに、デビュー1年目では史上2人目( 1人目は原田真二)の日本武道館公演を行っています。
この曲は、同年2月11日公開の主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあり大ヒットしました。
その後も立て続けにヒットシングルをリリースし、1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。
1985年の始めに、デビュー1年目では史上2人目( 1人目は原田真二)の日本武道館公演を行っています。
過激パフォーマンスでトラブルも・・・
デビュー間もない頃に行われた学園祭コンサートで、体育館にある緞帳(どんちょう)にぶら下がり、緞帳をビリビリに破いてしまったことがある。
その弁済金は1,000万円。
紅白歌合戦でもヤラかしてます。
①白組なのに真赤な衣装。
②シャンパンを撒き散らしながら登場。(さらに観客に向けて吹き出す)
③撮影中のカメラに衝突。
④ギターに火をつけ、ステージに叩きつけて破壊。
⑤次の歌順(河合奈保子)のが流れてもステージ上に居残り。
当然ながらNHKを激怒させ、吉川さんは出禁処分を受けてします。
ステージ以外でも自宅で知人と殴り合いになり、鼻骨および肋骨を骨折させる傷害容疑で、示談は成立していたが書類送検された。(原因は、酒に酔った知人が吉川さん所有の尾崎豊の形見のギターを蹴った事による)
その弁済金は1,000万円。
紅白歌合戦でもヤラかしてます。
①白組なのに真赤な衣装。
②シャンパンを撒き散らしながら登場。(さらに観客に向けて吹き出す)
③撮影中のカメラに衝突。
④ギターに火をつけ、ステージに叩きつけて破壊。
⑤次の歌順(河合奈保子)のが流れてもステージ上に居残り。
当然ながらNHKを激怒させ、吉川さんは出禁処分を受けてします。
ステージ以外でも自宅で知人と殴り合いになり、鼻骨および肋骨を骨折させる傷害容疑で、示談は成立していたが書類送検された。(原因は、酒に酔った知人が吉川さん所有の尾崎豊の形見のギターを蹴った事による)
吉川晃司-にくまれそうなNEW FACE(紅白歌合戦1985.12.31)
via www.youtube.com
伝説のユニット「COMPLEX」
via item.mercari.com
1988年に元BOØWYの布袋寅泰とユニット「COMPLEX」を結成し、翌1989年4月にシングル「BE MY BABY」(トヨタ・セラのCM曲)をリリース。
COMPLEXは『BE MY BABY』を含め2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースした(いずれもオリコンチャート1位を記録)後、1990年11月8日の東京ドームのライブをもって活動を停止。
因みに、音楽性の違いから、最後は飲み屋でのつかみ合いの喧嘩に発展して活動停止に至ったそうです。
当時の音楽雑誌のインタビューで「COMPLEXさえ組まなければ、少なくとも友人を失う事はなかった」とコメントしている。
しかし、東日本大震災復興支援ライブを同じく東京ドーム2DAYSとして行い、21年ぶりに復活。待ちかねたファン約10万人が詰め掛けました。
COMPLEXは『BE MY BABY』を含め2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースした(いずれもオリコンチャート1位を記録)後、1990年11月8日の東京ドームのライブをもって活動を停止。
因みに、音楽性の違いから、最後は飲み屋でのつかみ合いの喧嘩に発展して活動停止に至ったそうです。
当時の音楽雑誌のインタビューで「COMPLEXさえ組まなければ、少なくとも友人を失う事はなかった」とコメントしている。
しかし、東日本大震災復興支援ライブを同じく東京ドーム2DAYSとして行い、21年ぶりに復活。待ちかねたファン約10万人が詰め掛けました。