1987年、球団フロントと対立し出場停止に。
開幕2日前、地元のテレビ局主催のファン参加による「カープ激励の夕べ」が予定されていた。
地元開幕戦がナイターになるため、夜間も練習したいと前から話していた高橋は球団フロント幹部の一人、上土井球団部長に抗議した。
それを聞いた松田元オーナー代行が「そんなに嫌なら出なくていい!」と激怒。
高橋は番記者に「このチームは勝つつもりがあるのか、優勝したいのか」と強い口調で言い残し球場を出て行った。
球団は造反行為を重く見て、2週間の謹慎を命じ、1軍登録を抹消。
2軍戦の出場も認めず、球団施設での練習さえ許さなかった。
3年連続全試合出場が絶望となった広島一の人気選手への厳しい処分にファンからの抗議電話が殺到し、練習だけは施設利用を許可したが、その間にもトレードだ、最悪引退だなどさまざまな憶測が流れた。
4月26日、広島でのヤクルト2回戦で「1番・遊撃」で復帰。
いきなり右前打を放つなど2安打。慶彦ここにあり、といったところをファンにアピールし、終わってみれば打率2割8分1厘を残し、盗塁も28個を記録した。
しかし、以前から歯に衣着せぬ物言いで誤解を招くこともあった高橋は、この造反がきっかけでトレード要員に名前が挙がるオフが続くようになった。
現役引退後、コーチ・監督として広島カープへの復帰を望むファンの声が多いが、本人は「広島に(コーチとして)復帰したい気持ちがあるが(松田元)オーナーと喧嘩をしたので無理でしょう」と語っている。
1989年、ロッテへ電撃トレード
1989年、高橋は打率が2割6分7厘に落ち、自慢の足も衰え盗塁は13個止まりで終わった。
さらに入団した同ポジションの野村謙二郎の台頭もあって、1899年のオフ、高沢秀昭・水上善雄との大型トレードで、白武佳久・杉本征使と共にロッテ・オリオンズへ移籍した。
さらに入団した同ポジションの野村謙二郎の台頭もあって、1899年のオフ、高沢秀昭・水上善雄との大型トレードで、白武佳久・杉本征使と共にロッテ・オリオンズへ移籍した。
ロッテ~阪神では大きな活躍をできず現役生活を終えた。
ロッテでは金田正一監督の下、遊撃手より外野手として期待されマイク・ディアズらと中軸を組んでいた。
しかし、既に全盛を過ぎており思うような成績を挙げることができなかった。
1990年オフに遠山奬志とのトレードで阪神タイガースへ移籍。
しかし成績は前年よりも悪化し、1992年には久慈照嘉の入団により出場の機会が激減、その年限りで現役引退した。
しかし、既に全盛を過ぎており思うような成績を挙げることができなかった。
1990年オフに遠山奬志とのトレードで阪神タイガースへ移籍。
しかし成績は前年よりも悪化し、1992年には久慈照嘉の入団により出場の機会が激減、その年限りで現役引退した。
現役引退後の高橋慶彦
引退後はアール・エフ・ラジオ日本解説者を経て、1995年から1996年まで福岡ダイエーホークスの一軍打撃・走塁コーチ、1997年は二軍守備・走塁兼打撃コーチを務めた。
選手の起用法を巡ってバッテリーコーチの達川光男と対立、広島時代から折り合いがよくなかったが選手が目を丸くするほどの揉み合いし、達川は体調不良を理由に1年で退任した。
村松有人や浜名千広ら、後のホークスを支える若手を育成した。
ダイエー退団後は、1999年から2001年までは九州朝日放送(KBC)[5]・2002年から2003年頃まではCS系テレビの解説者を務める傍ら、2000年から2003年までスポーツニッポン(福岡)野球評論家を務めた。その一方、フジテレビの番組『奇跡体験!アンビリバボー』にて、ガーナでの野球の普及活動に力を注いだ。
2004年、シーズン途中に千葉ロッテマリーンズの一・二軍巡回コーチへ招聘された。
2005年より正式に一軍走塁コーチとなり、自身と同じスイッチヒッターの遊撃手である西岡剛を一人前に育てるなど、チームの日本一に貢献した。
一軍打撃コーチ(2008年 - 2009年)を経て、2010年より二軍監督を務め、同年にイースタン・リーグ優勝(4年ぶり8度目)及びファーム選手権優勝(二軍日本一)に導く。
2012年は一軍ヘッドコーチを務めたが、10月15日付で球団から退団を通知される。
2012年、福島県郡山市の宅建業者、ウェルズホームに入社し、広報部長を務める。
2013年1月7日から3月7日まで東京スポーツ紙上で『赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』(月曜日 - 木曜日発売分)を連載していた。
2013年には映画『ダイヤモンド(製作:オールインエンタテインメント、監督:本間利幸)に主演した。
同年9月22日に日本テレビで放送された番組『有吉反省会』に出演した際「映画の主役に抜擢されたが、その演技がひどすぎる」と反省した。
選手の起用法を巡ってバッテリーコーチの達川光男と対立、広島時代から折り合いがよくなかったが選手が目を丸くするほどの揉み合いし、達川は体調不良を理由に1年で退任した。
村松有人や浜名千広ら、後のホークスを支える若手を育成した。
ダイエー退団後は、1999年から2001年までは九州朝日放送(KBC)[5]・2002年から2003年頃まではCS系テレビの解説者を務める傍ら、2000年から2003年までスポーツニッポン(福岡)野球評論家を務めた。その一方、フジテレビの番組『奇跡体験!アンビリバボー』にて、ガーナでの野球の普及活動に力を注いだ。
2004年、シーズン途中に千葉ロッテマリーンズの一・二軍巡回コーチへ招聘された。
2005年より正式に一軍走塁コーチとなり、自身と同じスイッチヒッターの遊撃手である西岡剛を一人前に育てるなど、チームの日本一に貢献した。
一軍打撃コーチ(2008年 - 2009年)を経て、2010年より二軍監督を務め、同年にイースタン・リーグ優勝(4年ぶり8度目)及びファーム選手権優勝(二軍日本一)に導く。
2012年は一軍ヘッドコーチを務めたが、10月15日付で球団から退団を通知される。
2012年、福島県郡山市の宅建業者、ウェルズホームに入社し、広報部長を務める。
2013年1月7日から3月7日まで東京スポーツ紙上で『赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』(月曜日 - 木曜日発売分)を連載していた。
2013年には映画『ダイヤモンド(製作:オールインエンタテインメント、監督:本間利幸)に主演した。
同年9月22日に日本テレビで放送された番組『有吉反省会』に出演した際「映画の主役に抜擢されたが、その演技がひどすぎる」と反省した。
映画『ダイヤモンド』予告編 - YouTube
広島東洋カープの黄金時代を支えた高橋慶彦を筆頭に、元木大介、パンチ佐藤、松永浩美などの元プロ野球選手が出演する異色の任侠(にんきょう)作品。草野球チームを率いる昔かたぎのヤクザが、悪辣(あくらつ)な手口で地元商店街の再開発を進める企業とその裏に潜む新興暴力団に立ち向かう。
via www.youtube.com
また、2014年からテレビ新広島(TSS)・中国放送(RCC)などで野球解説者としての活動を再開したが(本数契約)、社業などのスケジュールの都合からTSSでの初回出演予定は金石昭人に変更となった。また、その他では広島ホームテレビ(HOME)等在広局の番組にも時々出演していた。
2015年10月15日に2016年からオリックス・バファローズの一軍打撃コーチに就任することが発表された。
2015年10月15日に2016年からオリックス・バファローズの一軍打撃コーチに就任することが発表された。
高橋慶彦が経営している『Dining慶彦』
独特な表現のTwitterで注目されている
12月8日広島で私の店がオオプンします。よろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/6Gkrf74f62
— 高橋慶彦 (@yoshihiko_2) November 20, 2014
オープンをオオプン!
「ー」が入力できない?
「ー」が入力できない?
ステイキと洋食の店です
— 高橋慶彦 (@yoshihiko_2) November 20, 2014
ステーキをステイキ!
やはり「ー」が入力できないのか??
やはり「ー」が入力できないのか??
初ホツピー pic.twitter.com/D46S5IraUU
— 高橋慶彦 (@yoshihiko_2) November 5, 2014
「ー」があった!
でも、ツがデカい!
でも、ツがデカい!
この愛らしいツイートに反響が続々…
高橋慶彦さんはホントシブい。オオプンとステイキ表記が特に。ステヰキだったらもっと良かった>RT
— ことぶき (@galacticaclash) November 20, 2014