中村俊輔のサッカーノート2 伝家の宝刀、必殺のフリーキックで赤い悪魔、マンU撃破!!!
2020年9月25日 更新

中村俊輔のサッカーノート2 伝家の宝刀、必殺のフリーキックで赤い悪魔、マンU撃破!!!

フィリップ・トルシエ監督に選ばれずワールドカップ日韓大会に出場できなかった悔しさをバネに海外挑戦を開始。イタリアとイギリスでチームの中心選手となり活躍。ウエイン・ルーニーやクリスチアーノ・ロナウドを配したマンチェスターユナイテッドをフリーキックで撃破した。

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「サンドニの悪夢」フィリップトルシエ監督の俊輔外し

J.League 2000 Season MVP Shunsuke Nakamura(Yokohama F Marinos) Movie

2000年5月、横浜F・マリノスがJリーグ1stステージ優勝。
9月、シドニーオリンピックBest8。
10月、アジアカップ優勝(全6試合中、5試合出場5アシスト)
12月2日、9日、ホーム&アウェイで行われた「Jリーグチャンピオンシップ、1stステージ王者:横浜F・マリノス vs 2ndステージ王者:鹿島アントラーズ」では負けたものの、22歳の中村俊輔は、最年少でJリーグMVPを獲得した。
そして2001年、サッカーノートに書いた目標は

短期目標
「代表でレギュラーでい続ける」
「Jリーグで1番の選手になる」
中期目標
「海外でプレー」
「ワールドカップでグラウンドに立つ、活躍する」
長期目標
「ビッグクラブでやる」

「自己表現する」
「瞬発力をつける」
「何が自分に足りないかいつも考える」
「レベルの高いところでけなされる方を選ぶ」
「自分に負けない」
「ライバルには絶対に負けない」
「300m 50~55秒 5セット」
「縄跳び」
「スクワット(ハードルジャンプ)、ダッシュ、瞬発力」
「足首チューブ」

だった。
毎年、長期目標に書いていた「海外でプレー」が中期目標に変わった。
横浜F・マリノスは主力が他チームへ移り、23歳の中村俊輔はトップ下(フォワードの後ろのポジション)で攻撃の中心となるだけでなくチームの中心にもなった。
しかし主力が抜けたのに同じようなサッカーをしようとした横浜F・マリノスは開幕から負けが多く、中村俊輔も股関節に痛みを抱え調子が上がらなかった。
 (2220712)

3月、ワールドカップフランス大会の決勝戦が行われたサンドニ競技場で、日本代表 vs フランス代表の親善試合が行われ、中村俊輔は前半のみ出場。
雨のサンドニ競技場で、ジダン、アンリ、プティ、ビエラ、デサイーらベストメンバーがそろったフランス代表に、日本代表は0対5で敗れた。
世界のトップとの差が明らかになったショックは大きく、
「サンドニの悪夢」
といわれた。
4月25日、スペイン戦で中村俊輔は日本代表メンバーから外された。
急に4日間、休みがとれたので、高校の同級生と温泉にいった。
4日間もサッカーボールに触れなかったのは初めてだった。
5月、日本代表がワールドカップの前哨戦ともいえるコンフェデレーションズカップに挑んでいたとき、中村俊輔は川崎市の病院の無菌室にいた。
春頃から痛み出したヘルニアの具合も相当悪かったが、5月に入ると原因不明の発熱が続いた。
発疹も出てきたので病院に行くと
「大人のはしか」
といわれ、そのまま入院となった。
やがて無菌室からは出られたが安静にしていなければならなかった。
大広間のテレビで日本代表戦をやっていたが
「絶対みるもんか」
と思い病室に戻った。
しかし
「逃げてはいけない」
と思い直し病室のテレビに100円玉を入れた。
結局、2ヵ月間、サッカーに戻れなかった。
その間
「何か変えなければ」
と強迫観念にかられ、車を買い替えたり引っ越したり、寺で座禅にチャレンジしたこともあった。
7月、復帰。
10月、ヤマザキナビスコカップ決勝で、横浜F・マリノスはジュビロ磐田に勝って優勝
2001年シーズンは、

Jリーグ24試合3得点
Jカップ6試合2得点

だった。
翌2002年は、ワールドカップ日韓大会が控えていたが、2001年、中村俊輔は日本代表で1試合しか出ていなかった。
フィリップ・トルシエ監督はは、1999年のシドニーオリンピック予選では中田英寿に代わって中村俊輔を司令塔に抜擢し、2000年のオリンピック本番でも中村俊輔を起用したが、2001年は「サンドニの悪夢」といわれたフランス戦の前半のみ。
それ以降は、たとえ召集してもベンチのまま試合に出場させなかった。

必要とされなかったファンタジスタ

 (2220723)

2002年、サッカーノートに書いた目標は

短期目標
「肉体改造、フィジカルアップ」
「代表の数少ない試合で必ずいいプレー」
「結果を出し必要と思わせる選手になる」
「セリAでいいプレーをする」
「レッジーナで1番の選手、中心になる」
「10得点とる」
中期目標
「いいクラブに移籍する」
「セリエAの中でもトップクラスの選手になる」
長期目標
「人から尊敬され愛されるプレーヤーになる」

だった。
2002年、ワールドカップイヤーの2月、東京、渋谷の東急東横店壁面の巨大広告に日本代表オフィシャル・ユニフォームを着た中村俊輔が起用された。
しかしフィリップ・トルシエは
「ナカムラの名前スタメン候補に入っていない」
「ナカムラはフィジカルが弱い」
「このままだと彼は自宅のテレビでワールドカップを観戦することになる」
「ナカムラはマスコミが作ったムービースターだ」
「ナカムラは15番目の選手」
などとトゲのあるコメントを発した。
中村俊輔はいった。
「フィジカルの差を創造力やテクニックで埋めて勝負するのがサッカーだと思う」
そして最後まであきらめなかった。
3月、日本代表 vs ウクライナ戦で中村俊輔は後半から出場。
その夜、フィリップ・トルシエ監督は
「俊輔はワールドカップメンバーに選ばないから、その旨を本人に伝えてくれ」
と日本サッカー協会強化推進本部、加藤彰恒部長に告げた。
直後、加藤彰恒は中村俊輔を宿舎ホテルのロビーに呼んだ。
「トルシエ監督はもう呼ばないといっている。
ワールドカップメンバーに選ばれないことになりそうだけど、まだ若いし将来があるから頑張ってくれ」
中村俊輔は下を向いて
「はい」
と短く答えて部屋に戻った。
それでもわずかな可能性を信じ続けた。
日本代表としてポーランド遠征に参加。
4月、日本代表 vs コスタリカ戦に出場。
日本代表 vs スロバキア戦に出場。
5月、日本代表 vs ホンジュラス戦、前半26分、0対1の場面でペナルティエリア右側からフリーキックを決めて1対1。
前半41分、右コーナーキックを直接ゴールに決め、2得点。
3月のウクライナ戦、4月のコスタリカ戦、スロバキア戦、そして5月のホンジュラス戦と
「選手としてやるべきことはやった」
 (2220912)

5月16日、日本代表はノルウェー遠征からパリ経由で成田に戻り、翌日はワールドカップメンバーの発表日だった。
パリのシャルル・ドゴール空港でフィリップ・トルシエ監督は加藤彰恒部長を呼び
「俺は成田行きの飛行機には乗らない」
と告げた。
加藤彰恒部はすぐに日本にいた木之元興三副本部長に電話を入れた。
「俊輔のことだろう。
逃げたいのならいいよ。
俺が発表するから」
中村俊輔の代表入りは有力とみられていた。
日本代表のユニフォームの広告塔にも起用されていたし、国内屈指の実力者だった。
「これは明日の発表まで絶対に明かすな」
そう前置きして、フィリップ・トルシエ監督はパリの空港ラウンジで、23人の名前をしゃべり出した。
加藤彰恒はあわててメモ帳を取り出した。
そしてフィリップ・トルシエ監督は通訳のフローラン・ダバディと共に空港を離れていった。
5月17日15時30分、ワールドカップのメンバー発表が生中継で始まった。
中村俊輔は自宅のテレビでそれをみた。
木之元興三がゴールキーパー、ディフェンダー、ミッドフィルダー、フォワードの順でリストを読み上げた。
高原直泰、名波浩、そして中村俊輔が選外となった。
特に中村俊輔はサプライズ選外だったが、34歳の中山雅史と31歳の秋田豊がサプライズ選出された。
(終わった)
中村俊輔は服を着替え始めた。
横浜F・マリノスのクラブハウスで記者会見が行われる。
するとチーム広報から電話がかかってきた。
「嫌だったら出なくていい」
「行きますよ」
クラブハウスには100人以上の報道陣が集まっていて
「悔しいと思ったら、また強くなれる」
「やっぱり衝撃を受けた。
試合ではよくやった。
原因はそれ以外にあると思う」
と涙をこらえながら話した。
初の自国開催のワールドカップということもあって日本中が注目していた中で、中村俊輔の落選劇は大きなニュースとなった。
「会見で僕は残念そうに肩を落としていたと思うけど、内心はトルシエ監督から解放されたという気持ちと脱力感でいっぱいだった。
悲しいという気持ちはそれほどでもなかった」
中村俊輔はトルシエ監督に対して恨み言は一切いわなかったが、1度だけ、2ページにわたってサッカーノートに不満をぶちまけた。

そして
「こんなことでイライラしているのは時間の無駄」
と悟り、切り替えた。

2002 ワールドカップ 日韓 ドキュメント

6月4日、中村俊輔は韓国へ向かった。
2日後に行われるフランス vs ウルグアイを生観戦するのが主な目的だった。
いつもならフランスチームのフォーメーションなどをサッカーノートに書くはずだが、中村俊輔はサッカーノートを持っていかなかった。
「日本でワールドカップをみて応援する気持ちにはなれなかった。
サッカーからしばらく離れないというのが本音だった」
選手としてではなくファンとして楽しむため、そして息抜きのための韓国。
とにかくアノことを思い出すようなことはしたくなかった。
落選した理由にについては自分の中で整理はついていた。
整理がついていたからこそこれ以上触れたくなかった。
同日、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs ベルギー戦が行われた。
後半12分、ベルギーのマルク・ヴィルモッツがオーバーヘッドシュートを決め先制。
2分後、小野伸二が送ったロングボールに鈴木隆行が相手DFと競り合いながら追いつき、つま先で流し込んで同点。
8分後、稲本潤一が中盤でパスカット。
そのまま持ち上がって逆転ゴールを決めた。
後半30分、日本はオフサイドトラップの崩れから失点。
2対2の引き分けで終わった。
中村俊輔はベルギー戦をテレビで観戦。
泊まっていた韓国のロッテホテルの便せんに試合の記録と自分の課題をたくさん書いた。
あえてサッカーノートを持たずにきた旅だったが、無意識のうちに紙を探して書いていた。
この便せんは封筒に入れて持ち帰りサッカーノートに挟んだ。
6月9日、横浜国際総合競技場でワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs ロシア戦が行われた。
前半は0対0.
後半6分、稲本潤一がゴール。
後半15分、ペナルティエリアにドリブルで迫る稲本潤一にロシアが確信的ファウル。
中田英寿はフリーキックを外した。
後半27分、
「守るために入ってもらうんじゃない。
相手の裏を狙ってほしい」
フィリップ・トルシエに耳打ちされた中山雅史がピッチに入った。
そしてロシアディフェンダーに激しくプレスをかけコーナーキックを獲得。
後半46分、後方からのスライディングタックルで中山雅史に警告。
直後、レフリーのホイッスルが試合終了。
日本代表のワールドカップ初勝利が決まった。
「ナカヤマはこのチームのシンボルだ。
誰もが彼に畏敬の念を抱いていた。
ピッチに立てば仲間たちの闘争心を掻き立て、練習でもいいムードをつくってチームをいい方向へ導いてくれた。
彼が他の選手に与えた影響は計り知れないほど大きい。
ナカヤマは不可欠な存在だと認識させられた」
(フィリップ・トルシエ)
6月14日、大阪の長居スタジアムで、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs チュニジア戦が行われた。
後半30分、右サイドから市川大祐がセンタリング。
中田英寿がダイビングヘッド。
ボールはゴールキーパーの股間を抜け、日本代表のH組1位での決勝トーナメント進出が決まった。
6月18日、ワールドカップ日韓大会決勝トーナメント1回戦で、グループH1位の日本はグループC2位のトルコと対戦。
前半12分、日本のバックパスの連係ミスからトルコにコーナーキックが与えられ、ウミト・ダヴァラがヘッディングシュートを決めた。
そのまま0対1で試合は終わった。

イタリア挑戦

 (2220928)

 (2220931)

2002年7月、イタリア・セリアA、レッジーナのパスクアレ・フォーティー会長が来日。
横浜で一晩中会議が行われ、中村俊輔の移籍が決まった。
(ペルージャ(イタリア)、プレシア(イタリア)、サンドリア(イタリア)、レアルマドリード(スペイン)、アトレチコマドリード(スペイン)なども獲得を考えていた)
最初はレンタル移籍(一時的に他のクラブに貸し出され、期間が過ぎると元のクラブに戻る)だが、活躍次第で完全移籍もありというオプション付きの契約だった。
3週間後、日本代表が史上初の決勝トーナメント進出を果たしたワールドカップが終わった直後、中村俊輔は、成田空港から20時間かけてイタリア半島の1番南、レッジョ・カラブリアという海辺の町まで移動した。
レッジーナでの背番号は「10」だった。
「東洋のバッジョがやってきた」
イタリアのマスコミは大きく報道した。
イタリアは「カルッチョ(サッカー)の国」と呼ばれ、セリアAは「世界最強のリーグ」といわれ、サッカー選手のステータスや存在価値は高く大きかった。
イタリアのプロサッカーリーグは、8月~5月の間、20クラブがホーム&アウェイの2回戦総当たり形式で行われる。
レッジーナは、中村俊輔が来る前、2002年夏にセリエBからセリアAに昇格していた。
日本人選手のセリアA入りは、三浦知良(ジェノア)、中田英寿(ペルージャ)、名波浩(ベネチア)に続き4人目。
ワールドカップに出られなかったことについて何も語らず沈黙を貫く中村俊輔に、はるばる日本から来た記者やイタリアの記者が話を聞こうとしたが無理だった。
サッカーノートには
「自分で自分の道を開く」
と書かれてあった。
過去など1円の価値もなかった。
逆に友人や仲間は気遣っているのか連絡が来なかったので中村俊輔から電話をした。
 (2220917)

シーズン初戦まで3ヵ月ほどあったが、レッジーナの練習は厳しかった。
日本ではケガをしないように、スネ当てをすることや、練習ではあまり激しくいかないように指導される。
しかしイタリアではスネ当てをしない選手が多く、練習でも本気モードでガチガチにやり合った。
とくに上半身はガンガンぶつけた。
中村俊輔も練習でチームメイトにファウル気味に、ボールを奪うというより体ごと寄せる感じで止めにこられた。
練習中のミニゲームでもケンカが起こるのは当たり前。
怒って練習場から出ていく選手も出た。
こうして1つのチーム内でいろいろな国の人間が熾烈なポジション争いを繰り広げた。
「ガチガチやり合わないと対等にやっていけない。
よい子や紳士では海外の激しい競争に生き抜けないと思います」
中村俊輔も練習中からガツガツやった。
当初は練習でもなかなかパスが回ってこなかったが、ボールをもらったときは、ミスをしないように安易な横パスなど選択せず、個の力でインパクトのあるプレーを意識し、実力を認めさせ、信頼を勝ち取った。
練習環境はマリノスのときは専門のスタッフがいたが、用具を自分で準備。
ロッカールームは、木の長いすが1つだけ。
シャワーは天井に1本のパイプが通り、蛇口をひねると1mおきに空いた穴から水が出た。
「うまくなるためにここに来ているんだ。
厳しい環境だと覚悟して来たんだ。
腐っている暇はない」
苦労はサッカー以外でもあった。
まず言葉。
中村俊輔は、イタリア語を勉強し、グラウンド以外でも辞書を持ち歩き、わからないときはすぐに調べた。
サッカーはコミュニケーションがとれないとできないということもあったが、日常生活でも言葉がわからないとすごくストレスがたまった。
夜、テレビをみてもわからないので、入浴剤などお風呂に凝った。
食事の苦労もあった。
町には日本食レストランはなかったので、2軒の中国料理店と1軒のイタリアンレストランを3~4日でローテーションした。
こうして24歳で海を渡った日本屈指のテクニシャンは着実に変貌を遂げた。
 (2220919)

2002年9月15日、ペルージャ戦でイタリアデビュー。
伝統的にイタリアは守備の強いサッカーで、攻撃はパスをつなぐより後ろからロングボールを大きく蹴って前線に放り込んだ。
これまで後ろから細かくパスをつないで相手を崩していくサッカーをしてきた中村俊輔だったが、ボールは頭の上を飛んでいくことが多かった。
またイタリアのサッカーは、連携プレーより個人の力と技術でなんとかするというスタイルだった。
フィジカルが強い分、かんたんなプレーをミスなく速く強くプレーする。
パスを出した後のダッシュ、ドリブルし初めのスピードは速かった。
試合後のサッカーノートには
「力強さが足りない」
と書かれた。
イタリアのサッカーは強く、激しかった。
それはモロに中村俊輔の弱点だった。
また中村俊輔のスルーパスに対して、ロングパスに慣れたチームメイトの反応はスムーズではなかった。
「頭上をボールが飛んでいく中で、どう自分のプレーを表現していくか」
10月5日、直接フリーキックで初ゴール。
デビューから4ヵ月で5ゴールを決め、不動のレギュラーとなった。
ブレッシア戦では、ロベルト・バッジョと対決。
バッジョは、激しいプレーだけではなくテクニックと創造性でテンポよくプレーした。
ブレッシアのすべてのボールがバッジョを経由し、バッジョにボールが入った瞬間、周囲が一斉に動いた。
「バッジョのプレーをみて、自分がプレーしやすいように周りを動かす。
そのためにはどうしたらいのかを考え始めた」
そういう中村俊輔は25mのフリーキックを決めて2対2で試合を終わらせた。
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