最期まで息子への“愛”を貫いた。11月28日、81歳で亡くなった俳優、菅原文太さん。家族葬は30日に福岡県・太宰府天満宮で営まれ、そこで荼毘に付された。なぜ太宰府で…。そこには今は亡き長男、加織(かおる)さん(享年31)への思いが秘められていた。
11月初旬まで元気な姿を見せていたが、その体は病に冒されていた。2007年にぼうこうがんを発症。関係者によるとこのとき、親交のあった医師の鎌田實氏(66)に「おしっこ袋をぶら下げて生き延びても、それは菅原文太じゃない」と相談。手術を拒否し、ぼうこう温存療法を選択したという。一時は“完治”したと思えるほど回復した。
しかし、12年末に肝臓への転移が判明。2カ月ほど前には「余命半年」と告知されていたという。11月13日には都内の病院に入院、わずか16日の闘病生活だった。
「朝(あした)に道を聞かば、夕に死すとも可なり」。妻でマネジャーの文子さんは、夫の最期を「論語 里仁(りじん)篇」の言葉で表した。「人として道を悟れば、すぐに死んでも悔いはない」との意味で、文太さんの生きざまをとらえている。
一方、文太さんには取り戻したくても、取り戻せないものがあった。
01年に踏切事故で亡くなった長男の加織さん。その死に文太さんはうちひしがれた。文太さんと親しい関係者は「当時、加織さんは私事で悩んでおり、文太さんもただの事故死としては受け取れなかったようだ」と明かす。「文太さんは当時住んでいた岐阜・清見村(現高山市)に2人の孫娘を引き取ったほどだった」(前出関係者)
加織さんは福岡・太宰府天満宮そばの霊園に眠っている。“学問の神様”菅原道真をまつった太宰府天満宮は、同じ「菅原」姓のよしみで同宮の神徒会に入会し、納骨堂と墓所の土地も購入していたゆかりからだ。
数カ月に一度は加織さんのもとを訪れ、“息子との時間”を過ごしていた文太さん。その時が来たら「加織さんの眠るところで」と周囲には告げていたという。
願い通り、都内の病院で息を引き取ると、遺体は福岡に運ばれた。太宰府天満宮祖霊殿で30日に家族葬を終え、1日に荼毘に付された。まっすぐに生きた人生だった。