George Foreman
中学中退
フォアマン家には、父と母、そして7人の子供がいた。
ジョージ・フォアマンには4人の兄姉と2人の弟がいたが自分だけ父親が違った。
彼は母親と浮気相手の間に生まれた子供だった。
父親(実父ではなく育ての親)のJ.D.フォアマンは、ジョージを自分の子供のように、むしろ他の子供よりも特別に可愛がった。
母親と喧嘩するときも決してジョージのことを武器にしなかった。
しかし何もなかったフリをすることはできなかった。
鉄道会社で働いていたが給料を家に入れず、すべて酒と道楽に使った。
母親は、コックの仕事を2つ掛け持ちし週7日働いたが、家は貧しかった。
ジョージ・フォアマンはプライドが高く、常に心に怒りを充満させ、なにかあれば誰彼なしにすぐに暴力をふるった。
学校へ朝いくフリをして、親が仕事に出た後、窓から家に入ってベッドで寝た。
そして授業が終わる頃に学校にいき、友達と帰ってくるフリをした。
単位が取れず留年し、年下の同級生と小学校を卒業した。
中学ではアメリカンフットボールと出会った。
高い理想と目標を持った指導者の下で、厳しい練習に耐えレギュラーとなった。
しかしある日、タバコをくわえているところを喫煙を嫌っていた指導者にみつかってしまう。
信頼を裏切ってしまったという自己嫌悪に陥った彼は、その後、練習にも学校にも行かなくなってしまう。
こうして中学校を卒業できないまま義務教育を終えた。
犯罪者
これが最初の犯罪だった。
悪事はすぐにエスカレートし、ある夜、仲間2人と公園を1人歩く男を襲い、財布を奪って逃げた。
2人が男を押さえつけ、1人が財布を盗み、後で山分けにした。
これは13歳から15歳まで2年間続いた。
この頃のフォアマンは、他人のお金を奪うことはそんなに悪いことだとは思わなかった。
186㎝84㎏の巨体でタックルし押さえつけ財布を奪った。
またケンカも絶対に負けなかった。
「いまなんていった?」
「別に」
「いいや、聞こえたぞ」
ガツーン!
「貴様何みてる」
ガツーン!
何かと言いがかりをつけては殴り倒した。
自分の行く手を阻むものは誰一人許さなかった。
5番区の乱暴者の中でもその腕力は抜きん出ていた。
みんなの怯えた目をみてフォアマンはふんぞりかえった。
中学を中退した後、いくつか仕事に就いたが、飲酒が原因による無断欠勤などで長続きしなかった。
未来に何の光もみえなかった。
職業部隊(Job Corps)
ジョンソンは南部出身(ケネディが撃たれたテキサス州出身のため、暗殺の黒幕説もある)だったが、南部の黒人に対する人種隔離に対し憤りを感じ、ケネディの志を継ぎ「公民権法」を成立させようとした。
また貧困問題や失業問題のために10億ドルを拠出。
キャッチフレーズは「Great Society(偉大な社会)」だった。
1964年7月2日、「公民権法」成立。
1964年8月、南ベトナムを軍事援助していたアメリカの駆逐艦が攻撃を受ける。
(トンキン湾事件)」が起こる。
ジョンソン大統領は南ベトナムを全面支援することを表明。
アメリカはベトナムへの軍事攻撃を強めていった。
1965年、1億300万ドル。
1966年、60億ドル。
1967年、200億ドル。
ベトナムの戦費はアメリカを圧迫し、アメリカ国内、そして世界中で反戦運動が活発化。
支持率が落ち込んだジョンソン大統領は次回の大統領選に出馬しない意向を示し、ベトナムは和平への道へと進んでいく。
これはトレーニングセンターに入り、一般教育と職業訓練を受け、1日に3度の食事、月30ドルの小遣い、月々50ドルが積み立てられ、2年のコース終了時に全額渡されるというもの。
16歳のフォアマンは、初めてヒューストンを出て、オレゴン州の郊外にあるフォート・ヴァニー・トレーニングセンターに入った。
センターは、隊員に品位ある態度と自己修練を求めたが、フォアマンは、気に入らない者がいればすぐさま殴り、自分をなめるとどうなるか教えた。
初日、ドクはいきなりフォアマンをリングに上げ、スパーリングをさせた。
相手は、モヤシのように痩せた男でフォアマンは1発で倒せると思った。
しかしフットワークを踏むモヤシ男にパンチは1発も当たらず、空振りして転ぶこともあった。
一気に間合いを詰めようと突っ込んでいくと、ジャブを鼻にもらって倒された。
フォアマンは恥ずかしくてもうボクシングジムには行かなかった。
しかしその後、センター内で警察沙汰になるような大きな暴力事件を起こした。
ついに除隊かと覚悟していたとき、ドクがかばってくれたおかげで、センターは「最後のチャンス」として除隊は見送った。
「なんでもやります。
絶対サボりません。」
そういってフォアマンはドクにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
そしてヘトヘトになるまで練習した。
数週間後に行われた試合で海軍に所属する相手を、1RでKOした。
勝ったとき、大声でわめきリングを跳びはねた。
これまでこんなに誇らしく嬉しかったことは1度もなかった。
この勝利を境にジョージ・フォアマンは変わった。
急に目の前が明るくなった。
その後も試合で勝ち続けた。
ゴングと同時にラッシュし力いっぱい殴りつけ、あらゆる角度からパンチを浴びせてダメージを与えるか、KOパンチをヒットさせ、勝負は1Rでついた。
プロボクサーになる気がなかった。
多くの友人はベトナムへ送られていたが、フォアマンはドクの口利きで徴兵を免れた。
職業部隊で身につけた技術を活かせそうな会社に書類を送り採用通知を待った。
そして友人の家で、センターにはなく2年間飲まなかった酒を飲んだ。
そして女の子を口説き始めた。
するとその女の子のボーイフレンドと兄がきた。
「俺の彼女だぞ」
フォアマンは兄弟まとめて殴った。
そして告訴された。
「ジョージ、道は1つしかないわ」
母親は示談金を支払い、ドク・ブルーダスに電話した。
「うちの息子を何とかしてください
ここから連れ出してください」
こうしてフォアマンは、職業部隊のトレーニングセンターに住み込みで働き、ジムではドクにビシビシしごかれた。
19歳のジョージ・フォアマンの目標は、1968年に開催sれるメキシコオリンピックの金メダル。
高い目標を持ち、小学生から続けてきたタバコと酒を断つことに成功した。
オリンピックでアメリカ国旗を振る
Black Power Salute
1年前、モハメド・アリがベトナム戦争への徴兵を拒否しタイトルを剥奪された。
何人かのアメリカ代表も、オリンピックで反戦の意志を示した。
バスケットボールアメリカ代表のカリーム・アブドゥル=ジャバーも代表入りをボイコットした。
トミー・スミスは200mを19秒83の世界記録で走り優勝。
同じくアメリカ代表のジョン・カーロスは3位に入った。
トミー・スミス、ピーター・ノーマン(オーストラリア)、ジョン・カーロスはメダル授与のため表彰台に向かった。
2人のアメリカ人選手は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履いてメダルを受け取った。
スミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首に纏い、カーロスはクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するためロザリオを身につけていた。
オーストラリア代表のノーマンも2人に同調し、3人共、OPHR(Olympic Project for Human Rights、人権を求めるオリンピックプロジェクト)のバッチを着用した。
後にスミスは
「もし私が勝利しただけなら私はアメリカ黒人ではなくひとりのアメリカ人であるのです。
しかしもし仮に私が何か悪いことをすればたちまち皆は私をニグロであるといい放つでしょう。
私たちは黒人であり黒人であることに誇りを持っている。
アメリカ黒人は(将来)私たちが今夜したことが何だったのかを理解することになるでしょう。」
と語った。
IOC(国際オリンピック委員会)会長:アベリー・ブランデージは、トミー・スミスとジョン・カーロスをアメリカ・ナショナルチームから除名。
オリンピック村から追放を命じた。
アメリカオリンピック委員会はこれを1度は拒否したものの、命令を受け入れ、スミスとカーロスは出場停止となり、オリンピックから追放された。
彼らは帰国後、非難・中傷され、家族にも脅迫文が何通も届き、長い間スポーツ界から追放された。
しかしスミスは陸上競技を続けると共に黒人の権利獲得への運動を続けた。
アメリカンフットボールチームに入団した後、大学の体育学助教授に着任。
1995年のバルセロナ世界室内陸上選手権ではアメリカナショナルチーム補助コーチに就任した。
カーロスも陸上競技を続け、オリンピック翌年に男子100mの世界記録に並ぶ記録を打ち立てた。
1970年にはアメリカンフットボールチームに入団したが、膝の怪我で1年で退団。
1977年には妻が自殺。
不遇の時を過ごした。
1985年からはパームスプリングスの学校で陸上のコーチに就任し、現在に至る。