【北の湖敏満】不敵な面構えで「憎らしいほど強い」と言われた優勝24回を誇る昭和の大横綱
2021年3月13日 更新

【北の湖敏満】不敵な面構えで「憎らしいほど強い」と言われた優勝24回を誇る昭和の大横綱

大きくせり出した太鼓腹、人を寄せつけない厳しさを感じさせる眼差し、口をへの字に結んだ仏頂面――「憎らしいほど強い」とまで言われた北の湖敏満。彼の風貌を言葉で簡潔に表すとそんな感じでしょうか。 北の湖は1970年代中盤から1980年代前半に大活躍した力士で、歴代5位となる24回の幕内優勝回数を誇る大横綱です。今回はこの北の湖について紹介します。

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抜きんでた強さでスピード出世を遂げる

北の湖敏満は北海道で生まれて育ちましたが、中学生のときには親元を離れ、東京墨田区の三保ケ関部屋に入門して力士生活を始めます。柔道、野球、スキーなどでならした持前の優れた運動神経は相撲でも活かされ、どんどん勝ち、すさまじい勢いで番付を上げていき、15歳9ヶ月で幕下昇進、17歳11ヶ月で十両昇進、18歳7ヶ月で幕内昇進という異例のスピード出世を果たしました。
幕内力士になってからも順調に番付を上げ、関脇になると2場所連続の殊勲賞を上げ、あっという間に大関となり、大関2場所目で優勝し、続く場所でも準優勝を遂げ、1974年に21歳2ヶ月という若さで横綱に昇進しました。このスピード出世は今もなお破られていない偉大な記録なのです。
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全盛期は1年6場所のうち5回も優勝した

横綱・北の湖は1974年1月の初優勝から数えて、24回の幕内優勝を果たしました。北の湖が最も強かったのが1978年で、この1年の通算成績は83勝7敗、5回の幕内優勝を飾りました。
北の湖の取り口は、立ち合いでは手をつかず立ち、大きなお腹で相手にぶつかり、相手を弾いてから組手を取り始めるというスタイルでした。典型的な四つ相撲力士であり、まわしを取ってから、じっくり自分の型を作り、有利な態勢になってからの寄り、投げ、吊りなどで相手を崩すというのが北の湖の勝ちパターンでした。だから北の湖の取り組みは比較的長時間で、手に汗を握るという展開が多かったのです。
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スター力士の敵役として君臨し続ける

土俵上の北の湖はいつもムスッとした表情をしており、どこかふてぶてしさを感じさせる雰囲気がありました。それでいて最後は自分の有利な形に持ち込み、勝利を奪っていくため、「憎らしいほど強い」、「憎まれっ子世にはばかる」などと言われ、北の湖が負けると会場は大喝采となりました。
力士としては細身で、かつ甘いマスクをもつ輪島、貴ノ花(平成の横綱・貴ノ花=花田光司の父)、若乃花、千代の富士といった当時の人気力士たちに立ちはだかる憎い敵役としての存在感を北の湖は発揮し、この構図が相撲人気を押し上げていきました。
中でも北の湖の最大のライバルは輪島でした。輪島が全盛期を過ごした1974~1977年は、この二人で賜杯を分け合ったことから、輪湖時代と呼ばれました。千秋楽でどちらかが勝った方が優勝という取り組みが7度もあり、この二人の対決は異様な盛り上がりを見せたものでした。

輪島vs北の湖 (昭和51年七月場所)

引退後は北の湖部屋を創設、日本相撲協会理事長にも就任する

北の湖が憎らしいほど強かったのは1974年から1981年の8年間でした。1982年に入ってから次第に優勝戦線から遠ざかるようになっていくと逆に熱心に応援する人が増えるようになってきました。1984年五月場所で奮起し、24回目の優勝を飾りましたが、1985年初場所で2連敗をして3日目の取組前に引退を表明しました。
引退後、その実績により日本相撲協会から一代年寄を襲名し、一代年寄の権限を活かす形で自分の四股名を冠した北の湖部屋を創設し、後進の指導に当たりました。
引退後、北の湖は日本相撲協会に所属し、協会内でも審判部副部長、理事、事業部長といった重要なポストを歴任し、そして2002年には日本相撲協会の理事長に就任しました。日本相撲協会のトップとなった北の湖ですが、力士の大麻使用問題(2008年)や八百長問題(2011年)などの不祥事の度に矢面に立たされ、非常にストレスフルな環境の中、日本相撲協会理事長という重責を担い続けました。

そんな不祥事が続く相撲協会にあっても激務の理事長職をこなし続けた北の湖ですが、このときすでに罹患していた大腸がんが増悪し、2015年11月20日、多臓器不全により、理事長在職中に62歳の若さで死去しました。

九州場所ファンに別れ 北の湖理事長、昭和の大横綱惜しむ声

病身を押し、矢面に立たされ続けながらも命尽きるまで自分の役割を全うし、自分が生きてきた相撲界を守ろうとした北の湖。仏頂面でいつも不機嫌そうに見える容姿はさておき、その生き様は誠実で周囲からの人望も厚かったことがうかがえます。
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