平均寿命25歳
Street Fight dancing ghetto boys in Brooklyn, New York -
via youtu.be
鳩
幼少のタイソンは
大きな近眼鏡をつけた内向的な性格の少年だった
タイソンは動物好きで屋上に自分で小屋を作って鳩を飼っていた
幼いタイソンはその中で静かに過ごすことをこよなく愛する感受性の強い少年だった
近所の不良少年達は彼を嘲笑し虐めた
そしてタイソンが大事にしていた鳩を虐殺した
マイク・タイソンは怒りで我を忘れ
年上の不良グループの少年たちを殴り倒した
彼の拳は瞬く間に悪童達をKOした
そしてタイソンは自分自身の中に潜む強さに気付いた
この出来事以降
一変して悪の道へ転落しストリートファイターとなる
生活は荒み
9歳から12歳の間に51回も逮捕された
そして13歳のとき
タイソンは傷害事件を起こし
ニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監された
ここでも並外れたパワーで3人の教官を次々とKO
両手に手錠をかけられてエルムウッド・コテージの監房に入れられる
ここでタイソンの運命が決定づけられる
ボクシングとの出会いである
監房でカウンセラーをしていたボビー・スチュワートは
1974年に全米ゴールデン・グローブ大会のライト・ヘビー級で優勝した事のあるアマチュアの名選手であった
それを知ったタイソンは彼に会うなり頭を下げた
「オレにボクシングを教えてくれ」
スチュワートの条件は唯一つだった
「真面目に勉強するなら教えてやろう」
スチュワートは
ボクシングを始めたばかりのタイソンの稀にみる非凡な才能に驚き友人に電話をした
その電話の相手がカス・ダマトその人だった
大きな近眼鏡をつけた内向的な性格の少年だった
タイソンは動物好きで屋上に自分で小屋を作って鳩を飼っていた
幼いタイソンはその中で静かに過ごすことをこよなく愛する感受性の強い少年だった
近所の不良少年達は彼を嘲笑し虐めた
そしてタイソンが大事にしていた鳩を虐殺した
マイク・タイソンは怒りで我を忘れ
年上の不良グループの少年たちを殴り倒した
彼の拳は瞬く間に悪童達をKOした
そしてタイソンは自分自身の中に潜む強さに気付いた
この出来事以降
一変して悪の道へ転落しストリートファイターとなる
生活は荒み
9歳から12歳の間に51回も逮捕された
そして13歳のとき
タイソンは傷害事件を起こし
ニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監された
ここでも並外れたパワーで3人の教官を次々とKO
両手に手錠をかけられてエルムウッド・コテージの監房に入れられる
ここでタイソンの運命が決定づけられる
ボクシングとの出会いである
監房でカウンセラーをしていたボビー・スチュワートは
1974年に全米ゴールデン・グローブ大会のライト・ヘビー級で優勝した事のあるアマチュアの名選手であった
それを知ったタイソンは彼に会うなり頭を下げた
「オレにボクシングを教えてくれ」
スチュワートの条件は唯一つだった
「真面目に勉強するなら教えてやろう」
スチュワートは
ボクシングを始めたばかりのタイソンの稀にみる非凡な才能に驚き友人に電話をした
その電話の相手がカス・ダマトその人だった
via jp.pinterest.com
via youtu.be
Cus D'Amato(カス・ダマト)
カス・ダマトは
ニューヨーク市ブロンクス区サウスブロンクス、
アイルランドやイタリアからの移民が多く住んでいた地区で育った
幼少の頃、ボクシングと出会い惚れ込んだ
そして街で喧嘩を繰り返すストリートボーイだった
12歳のとき
高校生と喧嘩をして
顔面を凶器で殴られ片目の視力を失った
22歳で
マンハッタン14丁目、ユニオン・スクウェアの近くにあるグラマシー・ジムで
若いボクサーのコーチを始めたとき
すでに白髪、片目、色盲だった
グラマシー・ジムは
ロッキー・グラジアノ、フロイド・パターソン、ホセ・トーレスなど名チャンピオンを多く生んだジムである
カス・ダマトはやがて独立し
自身のボクリング理論で
フロイド・パターソン(ヘビー級)、ホセ・トレス(ライト・ヘビー級)という2人の世界チャンピオンを育て上げた
またダマトが育てセコンドについたボクサーは
誰一人として
試合が原因で死亡したり
パンチドランカーなどの後遺症にはならなかった
ダマトはボクシングのトレーナーでありマネージャーだったが、
なにより良き教育者、ボクサーにとっては人生の師だった
71歳のダマトは
トライオン少年院の南80kmのキャッツキルの警察署の上に小さなジムを持っていた
ダマトはタイソンのスパーリングをみていった
「マイク
もし君がここで私の言う事を素直に聞けば
君は世界チャンピオンになれる」
数週間後、ダマトが保証人となってタイソンはそのもとに引き取られた
「今に欺かれるに決まっている」
それまで白人とつき合ったことがないタイソンは警戒していた
こうしてマイク・タイソン、カス・ダマト、
そしてカス門下生でトレーナー、ケビン・ルーニー による「3人4脚」が始まった
ニューヨーク市ブロンクス区サウスブロンクス、
アイルランドやイタリアからの移民が多く住んでいた地区で育った
幼少の頃、ボクシングと出会い惚れ込んだ
そして街で喧嘩を繰り返すストリートボーイだった
12歳のとき
高校生と喧嘩をして
顔面を凶器で殴られ片目の視力を失った
22歳で
マンハッタン14丁目、ユニオン・スクウェアの近くにあるグラマシー・ジムで
若いボクサーのコーチを始めたとき
すでに白髪、片目、色盲だった
グラマシー・ジムは
ロッキー・グラジアノ、フロイド・パターソン、ホセ・トーレスなど名チャンピオンを多く生んだジムである
カス・ダマトはやがて独立し
自身のボクリング理論で
フロイド・パターソン(ヘビー級)、ホセ・トレス(ライト・ヘビー級)という2人の世界チャンピオンを育て上げた
またダマトが育てセコンドについたボクサーは
誰一人として
試合が原因で死亡したり
パンチドランカーなどの後遺症にはならなかった
ダマトはボクシングのトレーナーでありマネージャーだったが、
なにより良き教育者、ボクサーにとっては人生の師だった
71歳のダマトは
トライオン少年院の南80kmのキャッツキルの警察署の上に小さなジムを持っていた
ダマトはタイソンのスパーリングをみていった
「マイク
もし君がここで私の言う事を素直に聞けば
君は世界チャンピオンになれる」
数週間後、ダマトが保証人となってタイソンはそのもとに引き取られた
「今に欺かれるに決まっている」
それまで白人とつき合ったことがないタイソンは警戒していた
こうしてマイク・タイソン、カス・ダマト、
そしてカス門下生でトレーナー、ケビン・ルーニー による「3人4脚」が始まった
MIKE TYSON and CUS D'AMATO
via youtu.be
Never Say Can't!!
1981年、カスは法律上のタイソンの保護者となり親子の関係を確立させた
この頃になるとタイソンもカスをかけがえのない大切な人と思うようになった
昼は練習、夜は古今東西のボクシングの映像をみながら
闘う技術や心について語り合った
またカスはタイソンにボクシング以外の事、例えば人生や人間についても語った
「Never Say Can't!!(できないと言うな!!)」
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは
肉体のメカニズムではなく精神力である」
「物を欲しがり過ぎてはいけない
堕落はそこから始まるのだ
車が欲しいと思う、洒落た家にピアノも欲しいと思う、
思ったが最後、したくない事までやり始める事になる
たかが物の為にだ」
「ボクシングでは人間性と創意が問われる
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」
「勇者と臆病者には、大きな違いはない
両者とも同じ様に倒されるのを恐れている
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者
恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ
英雄は逃げたりしない
最後までやり遂げようとする自制心を持っている
つまり、最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ」
「子供にパンチの打ち方や避け方を教えるのは容易いことだ
誰にだって出来ることだ
勝ち負けは頭で決まる
力でも、スピードでも、体力でもない」
「恐怖心というのは人生の一番の友人であると同時に敵でもある
ちょうど火のようなものだ
火は上手に扱えば、冬には身を暖めてくれるし
腹が空いた時には料理を手助けしてくれる
暗闇では明かりともなりエネルギーになる
だが、一旦コントロールを失うと火傷をするし死んでしまうかもしれない
もし、恐怖心をコントロールできれば芝生にやって来る鹿のように用心深くなることができる」
「私は全てのボクサーに同様のスタイルで教える
多くのトレーナーはこれに異論を唱えるが、私は基本原理は同じであるべきだと思う
違いはボクサーの受け取り方によってその後に生じるものだ」
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ
打たれなければ試合に勝つからだ」
「私の仕事は、才能の火花を探してきて火をともしてやることだ
それが小さな炎になり始めたら燃料を補給してやる
そしてそれを、小さな炎が猛り狂う大きな火になるまで続けてやり、さらに火に薪をくべれば、火は赤々と燃え上がるのだ」
「ボクシングでは人間性と創意が問われる
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」
この頃になるとタイソンもカスをかけがえのない大切な人と思うようになった
昼は練習、夜は古今東西のボクシングの映像をみながら
闘う技術や心について語り合った
またカスはタイソンにボクシング以外の事、例えば人生や人間についても語った
「Never Say Can't!!(できないと言うな!!)」
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは
肉体のメカニズムではなく精神力である」
「物を欲しがり過ぎてはいけない
堕落はそこから始まるのだ
車が欲しいと思う、洒落た家にピアノも欲しいと思う、
思ったが最後、したくない事までやり始める事になる
たかが物の為にだ」
「ボクシングでは人間性と創意が問われる
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」
「勇者と臆病者には、大きな違いはない
両者とも同じ様に倒されるのを恐れている
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者
恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ
英雄は逃げたりしない
最後までやり遂げようとする自制心を持っている
つまり、最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ」
「子供にパンチの打ち方や避け方を教えるのは容易いことだ
誰にだって出来ることだ
勝ち負けは頭で決まる
力でも、スピードでも、体力でもない」
「恐怖心というのは人生の一番の友人であると同時に敵でもある
ちょうど火のようなものだ
火は上手に扱えば、冬には身を暖めてくれるし
腹が空いた時には料理を手助けしてくれる
暗闇では明かりともなりエネルギーになる
だが、一旦コントロールを失うと火傷をするし死んでしまうかもしれない
もし、恐怖心をコントロールできれば芝生にやって来る鹿のように用心深くなることができる」
「私は全てのボクサーに同様のスタイルで教える
多くのトレーナーはこれに異論を唱えるが、私は基本原理は同じであるべきだと思う
違いはボクサーの受け取り方によってその後に生じるものだ」
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ
打たれなければ試合に勝つからだ」
「私の仕事は、才能の火花を探してきて火をともしてやることだ
それが小さな炎になり始めたら燃料を補給してやる
そしてそれを、小さな炎が猛り狂う大きな火になるまで続けてやり、さらに火に薪をくべれば、火は赤々と燃え上がるのだ」
「ボクシングでは人間性と創意が問われる
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」
MIKE TYSON TRAINING
via youtu.be
マイク・タイソンのトレーニング
マイク・タイソンのトレーニングは週7日
5:00
起床
ストレッチ
約5kmのロードワーク
ジャンプエクササイズ10回
ダッシュ10本
6:00
エクササイズを終え
シャワーを浴び
再び寝る
10:00
起床
食事
(オートミール)
12:00
リングで練習
スパーリング10R
14:00
食事
(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
15:00
リングで練習
ミット打ち、ヘビーバッグ
エアロバイク60分
17:00
腹筋200回
ディップス25~40回
腕立て伏せ50回
シュラッグ30kg/50回
を10set
ブリッジ10分
19:00
食事
(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
20:00
エアロバイク30分
21:00
TVを観て就寝
1987年に
マイク・タイソンはフランク・ブルノの試合を観戦するため会場を訪れた
そのときのインタビューで上記のトレーニング内容を話した
その際、リポーターがいった
「ブルノはボディビルダーの様なトレーニングをしているよ」
タイソンは答えた
「ウエイトより床運動や自然なエクササイズの方が良い
自分のパンチ力は、ヘビーサンドバッグを殴って作り上げたものだ
ウエイトトレーニングなんてチーズケーキを殴ってトレーニングする様なものさ」
カス・ダマトは13歳のタイソンに非常に重いサンドバッグを叩かせた
そして徐々にサンドバッグを 重くなっていき
18、19歳の頃には大の大人が叩いてもビクともしないような重いサンドバッグになっていた
タイソンは13歳の時、
腹筋は50回もできず
腕立て伏せも13回しか出来なかった
しかし20歳になると
腹筋2000回、
腕立て伏せは500回を毎日こなすようになっていた
マイク・タイソンがウエイトトレーニングを本格的に始めたのは
1991年に刑務所に服役された間のことで
全盛期といわれる1988年まで偉業はウエイトトレーニング無しで達成されたことになる
5:00
起床
ストレッチ
約5kmのロードワーク
ジャンプエクササイズ10回
ダッシュ10本
6:00
エクササイズを終え
シャワーを浴び
再び寝る
10:00
起床
食事
(オートミール)
12:00
リングで練習
スパーリング10R
14:00
食事
(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
15:00
リングで練習
ミット打ち、ヘビーバッグ
エアロバイク60分
17:00
腹筋200回
ディップス25~40回
腕立て伏せ50回
シュラッグ30kg/50回
を10set
ブリッジ10分
19:00
食事
(ステーキ、パスタ、フルーツジュース)
20:00
エアロバイク30分
21:00
TVを観て就寝
1987年に
マイク・タイソンはフランク・ブルノの試合を観戦するため会場を訪れた
そのときのインタビューで上記のトレーニング内容を話した
その際、リポーターがいった
「ブルノはボディビルダーの様なトレーニングをしているよ」
タイソンは答えた
「ウエイトより床運動や自然なエクササイズの方が良い
自分のパンチ力は、ヘビーサンドバッグを殴って作り上げたものだ
ウエイトトレーニングなんてチーズケーキを殴ってトレーニングする様なものさ」
カス・ダマトは13歳のタイソンに非常に重いサンドバッグを叩かせた
そして徐々にサンドバッグを 重くなっていき
18、19歳の頃には大の大人が叩いてもビクともしないような重いサンドバッグになっていた
タイソンは13歳の時、
腹筋は50回もできず
腕立て伏せも13回しか出来なかった
しかし20歳になると
腹筋2000回、
腕立て伏せは500回を毎日こなすようになっていた
マイク・タイソンがウエイトトレーニングを本格的に始めたのは
1991年に刑務所に服役された間のことで
全盛期といわれる1988年まで偉業はウエイトトレーニング無しで達成されたことになる
Mike Tyson Training
via youtu.be
14歳でアマチュアデビュー
マイク・タイソンは14歳でアマチュアデビューした
そして全米ジュニア・オリンピックで全試合KOで優勝
15歳になると
余りにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労した
そこで当時の世界ヘビー級チャンピオン:ラリー・ホームズのスパーリングパートナーを雇った
そのスパーリングパートナーから15歳のタイソンに出された雇用条件は
タイソンは20オンスの大きなグローブを着用し
スパーリングパートナーは通常の14オンスのグローブを着用というものだった
週給1000ドルという賃金は
カス・ダマトの後援者でありマイク・タイソンの未来に期待したビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した
そして全米ジュニア・オリンピックで全試合KOで優勝
15歳になると
余りにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労した
そこで当時の世界ヘビー級チャンピオン:ラリー・ホームズのスパーリングパートナーを雇った
そのスパーリングパートナーから15歳のタイソンに出された雇用条件は
タイソンは20オンスの大きなグローブを着用し
スパーリングパートナーは通常の14オンスのグローブを着用というものだった
週給1000ドルという賃金は
カス・ダマトの後援者でありマイク・タイソンの未来に期待したビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した
via www.downvids.net
Junior Olympics 8 Second KO
via youtu.be
ロサンゼルスオリンピック
そしてロサンゼルスオリンピック(1984年)の金メダルを狙った
しかしアメリカ国内の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながらも判定負け
オリンピック参加は叶わなかった
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイントであり
そのためにダメージやダウンよりポイントを奪い合うポイントゲームになりやすい
タイソンの常にノックアウトを狙う荒々しいファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった
タイソンに勝ちロスオリンピックに進んだヘンリー・ティルマンは金メダルを獲得した
2人は後にプロのリングで再戦することになる
タイソンのアマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗
(この記録外にUSアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っている)
しかしアメリカ国内の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながらも判定負け
オリンピック参加は叶わなかった
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイントであり
そのためにダメージやダウンよりポイントを奪い合うポイントゲームになりやすい
タイソンの常にノックアウトを狙う荒々しいファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった
タイソンに勝ちロスオリンピックに進んだヘンリー・ティルマンは金メダルを獲得した
2人は後にプロのリングで再戦することになる
タイソンのアマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗
(この記録外にUSアマチュアボクシング連盟の管理下にない非公式の試合も多く戦っている)
via www.nybooks.com
マイク・タイソンはアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区ベッドフォード・スタイベサントに生まれた
母ローナは暴力的な事が嫌いな心優しき人だった
父は未だに行方知れずという母子家庭だった
幼いころ家はイーストニューヨークブルックリン区内、そしてブルックリン区近隣のフォート・グリース等を転々とした
7歳のとき
ブルックリン地区ブローンズビルのアンヴォイ通りにある集合住宅の2階へ引越す
ここはアメリカ合衆国最悪のゲットーと呼ばれていた
ゲットー(Ghetto)とは専用居住区のことで
ニューヨークのこの地区には
ヒスパニック、アジア、黒人のゲットーがあった
アメリカは移民の国であり
アメリカ人とは
アメリカに生まれることではなくてアメリカ人になることなのである
しかしこの中で黒人は
自らの意志でこの国の土を踏まなかった人たちの子孫だった
その背負っている背景は依然として重い
60~70年代にかけて
アメリカ国内で「公民権運動」
そして「黒人の、黒人による、黒人のための・・・」というブラックパワー運動が起こった
80年代には
自らのルーツ(アフリカ)、アイデンティティに根差しすヒップホップやラップミュージックのブームが起こった
ゲットー、特に黒人ゲットーでは
失業、貧困、福祉への依存、勤労意欲の喪失、ホームレス化、犯罪の増加、ドラッグ、家庭の崩壊、未成年者の死亡、スクールドロップアウト、高い喫煙率、刑務所収容者の多さなどアメリカ社会が持つ問題が蔓延していた
ブルックリン在住の作家:デニス・ハミルによると
80年代のこの地域の黒人男性の平均寿命は25歳だという