ホンダのF1の歴史
ホンダのF1参戦の歴史は、シャーシ、エンジン含め全て自社製造しフルワークス体制でチームとして参戦した第1期、既存チームにエンジンを供給するという「エンジンサプライヤー」の形をとった第2期、当初エンジンのみを供給し、後にフルワークス体制のホンダF1チームに移行した第3期、エンジンとエネルギー回生システム(ERS)をパッケージしたパワーユニットのサプライヤーとなる第4期に分かれる。
エンジンサプライヤーの形をとった第2期を振り返る
via www.blogcdn.com
1980年代の日本国内のF1ブームでは、当時人気を博したドライバー、アイルトン・セナと蜜月関係を結び、「F1のホンダ」として大いに知名度を高めた。
【アイルトン・セナ】”音速の貴公子”史上最速のF1ドライバー | Middle Edge(ミドルエッジ)
「”音速の貴公子”アイルトン・セナ」。80年代から90年代前半のF1を象徴する存在でした。彼を見てF1に憧れを抱いたものです。
1988年にホンダエンジンを搭載したマクラーレンが16戦15勝するなど、その当時ホンダのエンジンが最も高性能であり、コンストラクターは6年連続、ドライバーは5年連続でホンダエンジン搭載車が獲得したことから、ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えないとまで言われた。
via www.honda.co.jp
現実的にはHondaのV6ターボエンジン「RA168E」の性能に負うところが大きかったと言える。
McLaren Honda MP4/4 (1988 late) @ Twin Ring Motegi , 11 July 2012 - YouTube
via www.youtube.com
88年はターボF1時代がついに終わりを告げる年でもあった。
88年はターボF1時代がついに終わりを告げる年でもあった。翌年からは3.5リッターNAエンジンへと変更されることが決まっていたからだ。77年に登場した1.5リッターターボエンジンは80年代末にその頂点に達し、1400馬力を超える恐るべきパワーを発生させていた。86年には予選時のターボブーストが無限大にセットされ、ブースト圧は実に7バール超まで達するほどになっていたのだ。この強烈なエンジンは予選のわずか1回のアタックラップでブローしてしまうほどであった。またこの強烈なパワーを路面に伝えるため、マシンは異常な性格を持たねばならなかった。この際限ないパワーウォーズはF1マシンをモンスター化させ、少々危険とも言えるような状況を生み出してしまっていた。
これを危惧したFIA(国際自動車連盟)は87年にブースト圧を4バールに制限。そして89年からの3.5リッターNA化を発表。つまりターボエンジンの命は88年までと宣言されてしまったのだ。ターボ最終年となった88年はさらにターボエンジンに厳しく、ブースト圧は2.5バール、それまで195リットルだった燃料制限も150リットルにまで引き下げられたのだ。ターボは空気を無理矢理圧縮して燃焼させるため、パワーは上がるものの消費燃料も多い。45リットルもの削減はターボエンジンに引導を渡したのと同じことだった。しかしHondaはこれを逆手に取り、研究開発の進んでいた低燃費ハイパフォーマンス技術を駆使し、不可能と言われたターボ締め出しレギュレーションを味方に引き入れ、競走相手のいないスーパーエンジンで他を圧倒したのだ。
via www.honda.co.jp
Hondaのテクノロジーを駆使してスーパーエンジンを作り上げたとは言え、88年レギュレーションによって前年よりもエンジンパワーははるかに落ち、さらにレース燃料消費量がギリギリの苦しさであることには変わりなかった。従って燃料セーブのためにもエアロダイナミクス効率の向上、ドラッグの軽減は絶対条件。マクラーレンはこのMP4/4によって遅ればせながら新しいエアロ時代への第一歩を踏み出したのだ。
via www.honda.co.jp
鈴鹿ファン感謝デー「マクラーレン・ホンダ MP4/4、MP4/5、MP4/6同時走行」 - YouTube
via www.youtube.com
20 件