琴櫻
四股名 | 琴櫻傑將 |
生年月日 | 1940年11月26日 |
没年月日 | 2007年8月14日 |
新入幕 | 1963年3月場所 |
横綱昇進 | 1973年3月場所 |
引退 | 1974年5月場所 |
琴櫻は、22歳で新入幕を果たし、約4年半後の1967年11月場所、26歳で大関に昇進します。ところが、ここからが長かった・・・。勝ち越しを続け、時々優勝はするものの、横綱昇進に見合う成績はあげられないままでした。
大関4年目の1971年、年齢は30代に入り、2度の途中休場でカド番を迎えます。このまま大関止まりかと思われた矢先、1972年11月場所に14勝1敗で2年半ぶりの優勝。次の場所も、14勝1敗で連続優勝を果たします。勝率の低さや年齢が不安視されましたが、ここ2場所の成績や相撲の内容が評価され、ついに横綱に推挙されました。
横綱昇進は1973年3月場所で、当時32歳。同学年の大鵬はすでに引退した後で、"遅咲きの桜" と言われました。横綱になって最初の頃は順調に二桁勝利を挙げ、3場所目には優勝を果たします。しかし、その後は体力の衰えを隠しきれず、持病の左膝も回復が見込めなくなり、横綱在位わずか8場所で引退しました。
大関4年目の1971年、年齢は30代に入り、2度の途中休場でカド番を迎えます。このまま大関止まりかと思われた矢先、1972年11月場所に14勝1敗で2年半ぶりの優勝。次の場所も、14勝1敗で連続優勝を果たします。勝率の低さや年齢が不安視されましたが、ここ2場所の成績や相撲の内容が評価され、ついに横綱に推挙されました。
横綱昇進は1973年3月場所で、当時32歳。同学年の大鵬はすでに引退した後で、"遅咲きの桜" と言われました。横綱になって最初の頃は順調に二桁勝利を挙げ、3場所目には優勝を果たします。しかし、その後は体力の衰えを隠しきれず、持病の左膝も回復が見込めなくなり、横綱在位わずか8場所で引退しました。
北の富士vs琴櫻 (昭和48年七月場所・優勝決定戦)
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三重ノ海
四股名 | 三重ノ海剛司 |
生年月日 | 1948年2月4日 |
新入幕 | 1969年9月場所 |
横綱昇進 | 1979年9月場所 |
引退 | 1980年11月場所 |
三重ノ海は、1969年9月場所、21歳で新入幕を果たしますが、その後は大関の壁に阻まれます。翌年は小結、関脇と順調に昇進するものの、陥落。1972年には4場所連続で関脇を務めますが、結局陥落。1974年には、前頭10枚目まで落ちてしまいます。しかし、ここから巻き返し、1975年に4場所連続で関脇を務め、最後に初優勝。1976年1月場所、27歳で大関昇進を勝ち取りました。新入幕から6年かかっての大関昇進です。
大関昇進後は、いきなり関脇に陥落しますが、すぐに大関に復帰。以後は、安定して勝ち星を挙げます。ただ、なかなか横綱昇進の話にはならず、年齢も30歳を超え、綱取りは困難と見られていました。ところが、1979年になると一変。毎場所二桁勝利で優勝に絡む活躍を見せ、ついに横綱に推挙されます。新入幕が1969年9月場所(21歳)、横綱昇進が1979年9月場所(31歳)。新入幕からぴったり10年での横綱昇進でした。
横綱になった当初は、2場所連続優勝を決めるなど好調でしたが、年齢による体力の衰えや古傷の左肘の悪化などで休みがちになります。1980年11月場所は初日から2連敗し、3日目に現役引退を表明。横綱在位はわずか8場所でした。
大関昇進後は、いきなり関脇に陥落しますが、すぐに大関に復帰。以後は、安定して勝ち星を挙げます。ただ、なかなか横綱昇進の話にはならず、年齢も30歳を超え、綱取りは困難と見られていました。ところが、1979年になると一変。毎場所二桁勝利で優勝に絡む活躍を見せ、ついに横綱に推挙されます。新入幕が1969年9月場所(21歳)、横綱昇進が1979年9月場所(31歳)。新入幕からぴったり10年での横綱昇進でした。
横綱になった当初は、2場所連続優勝を決めるなど好調でしたが、年齢による体力の衰えや古傷の左肘の悪化などで休みがちになります。1980年11月場所は初日から2連敗し、3日目に現役引退を表明。横綱在位はわずか8場所でした。
三重ノ海vs若乃花 (昭和55年一月場所)
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双羽黒
四股名 | 双羽黒光司 |
生年月日 | 1963年8月12日 |
没年月日 | 2019年2月10日 |
新入幕 | 1984年9月場所 |
横綱昇進 | 1986年9月場所 |
引退 | 1988年1月場所 |
双羽黒は、昭和38年生まれの力士 "花のサンパチ組" の一人で、横綱昇進前の四股名は本名の北尾でした。1984年9月場所、21歳で新入幕を果たします。怪我で3日だけ休場した以外は、ずっと勝ち越しを続け、順調に昇進。1985年7月場所では、前頭筆頭の番付で全横綱・全大関に勝利します。優勝次点で、殊勲賞、技能賞も受賞。翌1986年1月場所、22歳で大関昇進を決めます。
大関でも常に二桁勝利を続け、当時最強の横綱、千代の富士とも好勝負を繰り広げます。1986年5月場所では、千秋楽結びの一番で千代の富士と優勝決戦。翌場所は千代の富士を破り、12勝3敗で同点決勝。いずれも優勝は逃しますが、優勝争いに絡む好成績と将来性が評価され、1986年9月場所、23歳で横綱昇進を果たしました。
横綱昇進後も好成績で、優勝争いには絡むものの、結局一度も優勝できずに終わります。横綱在位中に、親方との衝突や女将さんを突き飛ばした事件があり、部屋を脱走。この不祥事により、親方が廃業届を提出し、破門同然の廃業となります。横綱在位はわずか8場所で、不祥事での引退は極めて異例です。
廃業後は、1990年に新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。本名の北尾光司で活躍しました。
大関でも常に二桁勝利を続け、当時最強の横綱、千代の富士とも好勝負を繰り広げます。1986年5月場所では、千秋楽結びの一番で千代の富士と優勝決戦。翌場所は千代の富士を破り、12勝3敗で同点決勝。いずれも優勝は逃しますが、優勝争いに絡む好成績と将来性が評価され、1986年9月場所、23歳で横綱昇進を果たしました。
横綱昇進後も好成績で、優勝争いには絡むものの、結局一度も優勝できずに終わります。横綱在位中に、親方との衝突や女将さんを突き飛ばした事件があり、部屋を脱走。この不祥事により、親方が廃業届を提出し、破門同然の廃業となります。横綱在位はわずか8場所で、不祥事での引退は極めて異例です。
廃業後は、1990年に新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。本名の北尾光司で活躍しました。
北尾vs保志 (昭和60年十一月場所)
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旭富士
四股名 | 旭富士正也 |
生年月日 | 1960年7月6日 |
新入幕 | 1983年3月場所 |
横綱昇進 | 1990年9月場所 |
引退 | 1992年1月場所 |
旭富士は、22歳で新入幕を果たし、約4年半後の1987年11月場所、27歳で大関に昇進します。大関では安定して勝ち星を挙げ、2場所目の1988年1月場所、14勝1敗で初優勝。その後はここぞというところで綱取りのチャンスを逃しますが、関脇時代から14場所連続で二桁勝利を挙げ、1988年は年間73勝で最多勝を記録しました。
1989年も絶好調で、1月場所は14勝1敗で優勝同点、3月場所は13勝2敗で優勝次点、5月場所は13勝2敗で優勝同点と、優勝は逃すものの連続3場所で40勝5敗と横綱昇進の基準をクリアします。ところが、双羽黒の不祥事により、昇進基準が厳格化。不運にも横綱昇進は見送られてしまいます。
旭富士はそのショックで暴飲暴食に走り、持病の膵臓炎も悪化。成績も連続二桁勝利が途絶え、綱取りは白紙になります。しかし、1990年5月場所、7月場所いずれも14勝1敗で連続優勝を決め、1990年9月場所、30歳で横綱昇進を果たしました。
1990年はその後も二桁勝利を続け、再びの年間最多勝。1991年5月場所には4度目の幕内優勝を果たします。しかし、その後は持病の再発で思うように相撲ができず、1992年1月場所、31歳で引退しました。横綱在位はわずか9場所ですが、昇進基準の厳格化がなければ、もっと早くに横綱になっていたことでしょう。
1989年も絶好調で、1月場所は14勝1敗で優勝同点、3月場所は13勝2敗で優勝次点、5月場所は13勝2敗で優勝同点と、優勝は逃すものの連続3場所で40勝5敗と横綱昇進の基準をクリアします。ところが、双羽黒の不祥事により、昇進基準が厳格化。不運にも横綱昇進は見送られてしまいます。
旭富士はそのショックで暴飲暴食に走り、持病の膵臓炎も悪化。成績も連続二桁勝利が途絶え、綱取りは白紙になります。しかし、1990年5月場所、7月場所いずれも14勝1敗で連続優勝を決め、1990年9月場所、30歳で横綱昇進を果たしました。
1990年はその後も二桁勝利を続け、再びの年間最多勝。1991年5月場所には4度目の幕内優勝を果たします。しかし、その後は持病の再発で思うように相撲ができず、1992年1月場所、31歳で引退しました。横綱在位はわずか9場所ですが、昇進基準の厳格化がなければ、もっと早くに横綱になっていたことでしょう。
千代の富士vs旭富士 (平成2年七月場所)
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玉の海
四股名 | 玉の海正洋 |
生年月日 | 1944年2月5日 |
没年月日 | 1971年10月11日 |
新入幕 | 1964年3月場所 |
横綱昇進 | 1970年3月場所 |
引退 | 1971年9月場所 |
玉の海は、1964年3月場所、20歳で新入幕を果たします。当時の四股名は、玉乃島。その後も順調に勝ち星を挙げ、1966年11月場所に22歳で大関に昇進します。終生のライバル "北の富士" に追従するかのように、新入幕も、大関昇進も北の富士の1場所遅れでした。
大関初年度は、勝ち越しは連続するものの二桁には届かず。しかし、1968年には全場所で二桁勝利を挙げ、5月場所には初優勝を果たします。転機が訪れたのは一年後。1969年9月場所に優勝、11月場所は北の富士が優勝、1970年1月場所は北の富士との優勝決定戦に敗れ優勝次点と、この3場所の内容が評価され、玉の海、北の富士、二人揃って横綱に推挙されました。1970年3月場所、玉の海26歳、北の富士28歳の年です。二人の横綱昇進で、"北玉時代到来" と言われました。
北の富士はライバルながら仲が良く、「北さん」「島ちゃん」と呼び合う親友でした。横綱会で、北の富士が自慢の歌声を披露し、玉の海が得意のギターで伴奏した話は有名です。二人の対戦成績は、玉の海21勝、北の富士22勝とほぼ互角でした。
1971年7月頃、玉の海は急性虫垂炎を発症。しかし、横綱としての責任感から、無理をして強行出場します。10月に緊急手術をしますが、手術後、容体が急変。1971年10月11日、27歳の若さで帰らぬ人となりました。横綱在位は10場所。これから北玉時代の最高潮を迎えるという時に、惜しまれる死でした。
大関初年度は、勝ち越しは連続するものの二桁には届かず。しかし、1968年には全場所で二桁勝利を挙げ、5月場所には初優勝を果たします。転機が訪れたのは一年後。1969年9月場所に優勝、11月場所は北の富士が優勝、1970年1月場所は北の富士との優勝決定戦に敗れ優勝次点と、この3場所の内容が評価され、玉の海、北の富士、二人揃って横綱に推挙されました。1970年3月場所、玉の海26歳、北の富士28歳の年です。二人の横綱昇進で、"北玉時代到来" と言われました。
北の富士はライバルながら仲が良く、「北さん」「島ちゃん」と呼び合う親友でした。横綱会で、北の富士が自慢の歌声を披露し、玉の海が得意のギターで伴奏した話は有名です。二人の対戦成績は、玉の海21勝、北の富士22勝とほぼ互角でした。
1971年7月頃、玉の海は急性虫垂炎を発症。しかし、横綱としての責任感から、無理をして強行出場します。10月に緊急手術をしますが、手術後、容体が急変。1971年10月11日、27歳の若さで帰らぬ人となりました。横綱在位は10場所。これから北玉時代の最高潮を迎えるという時に、惜しまれる死でした。
Tamanoumi vs. Taiho : Haru 1971 (玉の海 対 大鵬)
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