駒田選手の球歴
駒田選手は桜井商業高校時代、エースで4番打者として活躍。甲子園出場は果たせなかったものの、高校通算で43本塁打、打率.490を記録し、球界では知られた存在でした。
ドラフト2位という高評価で投手として巨人に入団。巨人に入団後すぐ周囲の投手のレベルの高さに限界を感じ、駒田選手自身が野手転向を首脳陣に直訴。猛練習により頭角を現し、1983年のリーグ優勝にも貢献。背番号50の駒田選手、背番号54の槙原選手、背番号55の吉村選手の3人は巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ「50番トリオ」と呼ばれました。
ドラフト2位という高評価で投手として巨人に入団。巨人に入団後すぐ周囲の投手のレベルの高さに限界を感じ、駒田選手自身が野手転向を首脳陣に直訴。猛練習により頭角を現し、1983年のリーグ優勝にも貢献。背番号50の駒田選手、背番号54の槙原選手、背番号55の吉村選手の3人は巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ「50番トリオ」と呼ばれました。
駒田・槙原・吉村 巨人50番トリオ
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「たいした事ない」対「バーカ」
その後、レギュラーに定着した駒田選手は、1989年に出場した対近鉄との日本シリーズでその後語り継がれる「バーカ」事件を起こします。
その事件の発端は、近鉄が第3戦で先発した加藤投手が勝利投手インタビューでとなった加藤が試合後「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」という旨の発言をしたという記事がスポーツ各紙に掲載された事に始まります。
その事件の発端は、近鉄が第3戦で先発した加藤投手が勝利投手インタビューでとなった加藤が試合後「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」という旨の発言をしたという記事がスポーツ各紙に掲載された事に始まります。
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この加藤投手の発言は後に大きな誤解も含まれていると言われていますが、大きく報道された事により、巨人の選手は発奮。3連敗後の3連勝で運命の第7戦を迎えるのです。
この第7戦の先発は「巨人より弱い」発言をした加藤投手。その加藤投手から駒田選手は先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バーカ!!!」と叫んだと言われています。
この第7戦の先発は「巨人より弱い」発言をした加藤投手。その加藤投手から駒田選手は先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バーカ!!!」と叫んだと言われています。
この発言を振り返るテレビ番組が近年企画され、加藤投手と駒田選手は対面。
「25年前」の真相が語られたのです。
「25年前」の真相が語られたのです。
駒田徳広×加藤哲郎 因縁の対決再び?
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球史に残るFA移籍
「因縁の日本シリーズ」後も巨人の中心打者として活躍していた駒田選手ですが、1993年シーズンオフに、同じ一塁手の中日の落合博満選手がFA宣言すると報道されます。
落合選手の様な大物選手の高額な年俸とFAに伴う補償金を払えるのは資金力のある巨人しか当時はいなかった事(この頃はソフトバンクは設立前)から、FA宣言をする前から、落合選手が巨人へ入団することは規定路線でした。
本職が同じ一塁手であり、出場機会を奪われることに危機感を持った駒田選手は落合選手と時を同じくしてFA宣言します。
関東の球団を希望する駒田選手は、かつて巨人のヘッドコーチ近藤昭仁氏が監督を勤めていた事もあり横浜へ移籍します。
※駒田選手はチーム事情により(原辰則選手がアキレス腱痛により、三塁から一塁に)、外野を守っていた事もあったので、外野手として巨人に残るという道もありましたが、一塁にこだわりをもっており、また当時の打撃コーチ(中畑清)と確執があったとも言われていました。
※落合選手移籍後、原選手が外野にコンバートされる事になります。
落合選手の様な大物選手の高額な年俸とFAに伴う補償金を払えるのは資金力のある巨人しか当時はいなかった事(この頃はソフトバンクは設立前)から、FA宣言をする前から、落合選手が巨人へ入団することは規定路線でした。
本職が同じ一塁手であり、出場機会を奪われることに危機感を持った駒田選手は落合選手と時を同じくしてFA宣言します。
関東の球団を希望する駒田選手は、かつて巨人のヘッドコーチ近藤昭仁氏が監督を勤めていた事もあり横浜へ移籍します。
※駒田選手はチーム事情により(原辰則選手がアキレス腱痛により、三塁から一塁に)、外野を守っていた事もあったので、外野手として巨人に残るという道もありましたが、一塁にこだわりをもっており、また当時の打撃コーチ(中畑清)と確執があったとも言われていました。
※落合選手移籍後、原選手が外野にコンバートされる事になります。
ちなみに駒田選手以後、巨人からFA宣言して国内球団に移籍したのは、それぞれかつて所属した球団に復帰した小久保選手、サブロー選手、鶴岡一成選手と中日ドラゴンズに移籍した小笠原道大選手がいるものの、巨人の「生え抜き」でFA宣言で移籍したのは駒田選手のみです。
駒田選手以前に「生え抜き」の槙原選手もFA宣言していたものの、長島監督に強く慰留されて残留。「FA宣言して他球団の話を聞いても結局は巨人を選ぶ事になるんだよ」というのが当時の定説でした。
「巨人に残ってよかった」という人も・・・。
FA宣言したものの、巨人に残留した槙原投手はその後完全試合を達成。日本シリーズはMVPに輝いています。だからこその「巨人に残ってよかった」なのですが、これはあくまでも何人かいる先発投手の場合。
ポジションがかぶると試合に出れなくなる野手とは大きく事情が異なります。
ポジションがかぶると試合に出れなくなる野手とは大きく事情が異なります。
横浜移籍後の活躍
横浜に移籍しても「満塁男」駒田選手は健在。1998年にはチームのキャプテンに就任し、マシンガン打線の中軸、主に5番打者として活躍(20試合で4番)。2本の満塁本塁打を含む自身の満塁での強さなどから81打点をあげ、チームのリーグ優勝に貢献。一塁手の「ベストナイン」にも選ばれました。
1998年 対広島戦。逆転満塁弾を含む大活躍を見せる駒田選手。
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更に日本シリーズでは、第4戦までは不調に苦しみ、わずか2安打と精彩を欠きましたが、第5戦「満塁の場面」でのタイムリーを含む4安打5打点と大活躍。駒田選手は調子を取り戻すと、第6戦では、スコアが0-0で迎えた8回裏、西口文也投手から決勝の2点タイムリーを放ち、シリーズ優秀選手に選出されました。
(更にアキレス腱を痛めている原選手を一塁から不慣れな外野にコンバート)
落合選手・駒田選手の入団一年目の成績は、落合選手よりも駒田選手の方が上だった事もあり、このFA移籍を疑問視する巨人ファンは少なくなく、この一連の流れは写真の様に大きく報道されました。