薬師寺保栄のプロフィール
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薬師寺保栄(やくしじ やすえい)
生年月日:1968年7月22日
出身地 :大分県津久見市
身長 :173cm
利き腕 :右
元WBCバンタム級王者で4度の防衛を果たし、5度目の防衛戦で王者陥落⇒引退
生年月日:1968年7月22日
出身地 :大分県津久見市
身長 :173cm
利き腕 :右
元WBCバンタム級王者で4度の防衛を果たし、5度目の防衛戦で王者陥落⇒引退
薬師寺保栄の戦歴と王者までの道のり
引退後はタレントとしてメディアへの露出も多かった薬師寺さんは、「お茶目な人」というイメージを持っている方も多いと思います。
しかし、ボクサーとしての実績は素晴らしく実に4度の防衛を果たしたWBCバンタム級の世界チャンピオンという輝かしい経歴を持っています。
生涯戦績は、28試合中24勝(うちKO16)3敗1引き分け。
しかし、ボクサーとしての実績は素晴らしく実に4度の防衛を果たしたWBCバンタム級の世界チャンピオンという輝かしい経歴を持っています。
生涯戦績は、28試合中24勝(うちKO16)3敗1引き分け。
薬師寺保栄~デビューから新人王戦まで~
薬師寺さんがボクシングを始めたきっかけは、アマチュアボクサーだった父親の影響でした。
ボクシング歴は長く、享栄高校時代にはインターハイにフライ級で出場しベスト16という成績をおさめています。
高校卒業後に、名古屋市にある松田ボクシングジムの門を叩きプロを目指すようになり、1987年7月に同ジムからプロボクサーとしての第一歩を歩み始めます。
デビュー戦で判定勝利を収め、続く2戦目も勝利して中日本フライ級新人王を獲得しますが、全日本新人王決定戦では判定の末敗北を喫してしまいます。
デビューから新人王戦までの戦績は3戦2勝1敗となっており、後に世界を獲るとは当時誰も思わなかったことでしょう。
実際、周囲のボクサーやトレーナーは当時の薬師寺さんから非凡なものを感じている人は少なく、ヒットアンドアウェイに徹するスタイルから臆病者と揶揄されていたそうです。
ボクシング歴は長く、享栄高校時代にはインターハイにフライ級で出場しベスト16という成績をおさめています。
高校卒業後に、名古屋市にある松田ボクシングジムの門を叩きプロを目指すようになり、1987年7月に同ジムからプロボクサーとしての第一歩を歩み始めます。
デビュー戦で判定勝利を収め、続く2戦目も勝利して中日本フライ級新人王を獲得しますが、全日本新人王決定戦では判定の末敗北を喫してしまいます。
デビューから新人王戦までの戦績は3戦2勝1敗となっており、後に世界を獲るとは当時誰も思わなかったことでしょう。
実際、周囲のボクサーやトレーナーは当時の薬師寺さんから非凡なものを感じている人は少なく、ヒットアンドアウェイに徹するスタイルから臆病者と揶揄されていたそうです。
薬師寺保栄~若気の至りと海外遠征~
via pixabay.com
薬師寺さんは、プロデビューから2年後の1989年に成人式で昔の仲間と共に「暴走行為」を行い、愛知県警に逮捕されるという大失態を犯しています。
プロボクサーの不祥事という事で、日本ボクシング協会から6ヵ月間の対外試合禁止処分が下されてしまい、試合を行う事が出来なくなってしまいます。
通常、こうした過ちを犯した場合は自暴自棄になってしまったり反省して静かに謹慎するのが普通ですが、薬師寺さんはこの期間を利用して海外へと遠征修行へと旅立ちます。
この遠征を経て、臆病者と評されたアウトボクシングに磨きをかけてボクシングの実力を伸ばして日本へと帰国します。
プロボクサーの不祥事という事で、日本ボクシング協会から6ヵ月間の対外試合禁止処分が下されてしまい、試合を行う事が出来なくなってしまいます。
通常、こうした過ちを犯した場合は自暴自棄になってしまったり反省して静かに謹慎するのが普通ですが、薬師寺さんはこの期間を利用して海外へと遠征修行へと旅立ちます。
この遠征を経て、臆病者と評されたアウトボクシングに磨きをかけてボクシングの実力を伸ばして日本へと帰国します。
薬師寺保栄~帰国後の初勝利とトラウマになる事件~
海外遠征期間中も、国外選手との試合で勝利を積み重ねてボクシング技術を磨いていた薬師寺さんは、1990年の3月に帰国後初となる国内戦を行います。
対戦相手は米坂淳選手で、10RKO勝ちを収めましたが試合後にある事件が起きてしまいます。
その事件とは、試合後に対戦相手だった米坂選手は意識不明の重体となり病院へ搬送、その数日後に亡くなってしまうというショッキングな出来事でした。
試合による事故であり、ボクシングに関わらず格闘技ではしばしば起きてしまう悲劇ですが、「自分の拳が人を死に追いやった」という事実が重くのしかかり薬師寺さんを苦しめる結果になってしまいました。
引退まで考えたトラウマ級の事件でしたが、米坂選手の分までリングに立ち続ける事を決意してその後もボクサーとして続行する事となります。
対戦相手は米坂淳選手で、10RKO勝ちを収めましたが試合後にある事件が起きてしまいます。
その事件とは、試合後に対戦相手だった米坂選手は意識不明の重体となり病院へ搬送、その数日後に亡くなってしまうというショッキングな出来事でした。
試合による事故であり、ボクシングに関わらず格闘技ではしばしば起きてしまう悲劇ですが、「自分の拳が人を死に追いやった」という事実が重くのしかかり薬師寺さんを苦しめる結果になってしまいました。
引退まで考えたトラウマ級の事件でしたが、米坂選手の分までリングに立ち続ける事を決意してその後もボクサーとして続行する事となります。
薬師寺保栄~トラウマを乗り越え世界王者へ~
via pixabay.com
対戦相手を死に至らしめるという大きな事件を乗り越えた薬師寺選手は、ここから大躍進を遂げます。
今一度、薬師寺保栄の戦歴を振り返ると24勝3敗1引き分けとなっています。
3敗1引き分けのうち、2回の敗北と1度の引き分けはいずれも「海外遠征前」についた戦歴です。
つまり、海外遠征を経て米坂戦で国内復帰をしてから3度目の敗北(引退)までの期間は、全ての試合で勝利を収めているのです。
大きなトラウマを背負い、米坂選手の分までリングで戦うを決めた薬師寺さんは引退の決め手となった5度目の防衛戦での敗北まで、ただの一度たりとも負けなかった事になります。
1993年にWBC世界バンタム級チャンピオンの辺丁一を破り王者となり、その後4度も防衛を成功させたチャンピオンの拳には、自らの手で命を落としてしまった米坂選手への思いも乗っていたのかもしれませんね。
今一度、薬師寺保栄の戦歴を振り返ると24勝3敗1引き分けとなっています。
3敗1引き分けのうち、2回の敗北と1度の引き分けはいずれも「海外遠征前」についた戦歴です。
つまり、海外遠征を経て米坂戦で国内復帰をしてから3度目の敗北(引退)までの期間は、全ての試合で勝利を収めているのです。
大きなトラウマを背負い、米坂選手の分までリングで戦うを決めた薬師寺さんは引退の決め手となった5度目の防衛戦での敗北まで、ただの一度たりとも負けなかった事になります。
1993年にWBC世界バンタム級チャンピオンの辺丁一を破り王者となり、その後4度も防衛を成功させたチャンピオンの拳には、自らの手で命を落としてしまった米坂選手への思いも乗っていたのかもしれませんね。
薬師寺保栄を語る時に辰吉丈一郎の存在は外せない
当時の国内バンタム級を、そして薬師寺保栄というボクサーを語る上で、絶対に避けては通れない話題こそが人気・実力ともに絶頂期だった「辰吉丈一郎」の存在です。
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同じバンタム級で、人気も実力も兼ね備えた辰吉丈一郎選手と薬師寺保栄選手はライバルとしてメディアや雑誌も取り上げて話題となり、薬師寺さんがバンタム級世界王者となってから3度目の防衛戦でついに両者がまみえる事になりました。
薬師寺保栄 対 辰吉丈一郎 フルバージョン
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