北島三郎
北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年(昭和11年)10月4日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主。
『函館の女』に始まる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲がある。
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一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれているが、原 譲二(はら じょうじ)のペンネームでも知られ、自身の楽曲の作詞・作曲ばかりでなく自身の舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ、他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を精力的に行っている。
北島三郎、デビューまでの道のり
北島三郎は、北海道上磯郡知内村の産まれです。北海道函館西高等学校時代に、海で溺れた小学生を救助したという逸話があります。この人命救助の件は当時の『函館新聞』にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られています。
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そんな高校在学中に函館で開催された『NHKのど自慢』に出場します。この時、鐘はたった2つでしたが、司会の宮田輝から「良い声して学生さんですか?お上手でしたのにねえ…」と優しく声をかけられたことで、「歌をやれば歌手の道あるかな?」と思うようになったそうです。
北島三郎記念館 │ 函館の観光スポット 全天候型アミューズメントミュージアム
函館が生んだ歌手・北島三郎の大いなる足跡。函館観光のど真ん中 西部エリアに位置する北島三郎記念館。金森レンガ倉庫からも歩いて2分、函館ハリストス正教会を含む教会群からも近く観光にも便利。大迫力の「まつり」をロボットサブちゃんがメインショーで歌い上げます。名物の「さぶちゃんまんじゅう」もここでなら買えます♪ぜひお気軽にお立ち寄りくださいませ。
上京、そして結婚
1954年、17歳で高校を中退し、東京の親族を頼って上京しました。最初こそ東京声専音楽学校に入学し、通っていましたが、歌謡曲志向であったので、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指します。
演歌の流しには、縄張りやシマがありました。北島三郎は素人でしたから、知らずに流しの営業に行ってしまったことがあったそうです。用心棒みたいな兄さんに連れ出され、怖いお兄さん方数人に囲まれて、ケンカになってしまったことも。流しの収入は3曲100円の時代で、当時、ラーメン一杯30円程度。100円は今の2000円くらいでした。
赤塚不二夫さんは62年夏、新大久保駅に近くのアパートに転居。「おそ松くん」の快進撃が始まりますが、そこの窓の下の小公園で近所のおばさんと気安く話す小柄な青年をよく見かけました。それが新宿あたりで流しをして、まもなく「なみだ船」で大ブレイクする北島三郎さんだったのです。
— 『鉄腕アトムの歌が聞こえる』通信bot (@hashimotoichi23) October 26, 2016
この頃に北島が当時都内で下宿していたアパートの大家の娘であった雅子と結婚します。1959年11月30日、挙式。北島がレコードデビューする約3年前の挙式でした。北島は定収がなく、雅子の両親から結婚を反対されていた為、結婚式に出席したのは両家あわせて21人だけした。
北島三郎 妻よ
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作曲家、船村徹との出会い
1960年、流しの収入は3曲100円でしたが、ある日羽振りのいい客が1000円を出してくれました。北島はお礼を言いもう1曲歌うと「明日、新橋の○○って喫茶店で待っているから来なさい」と声をかけられました。実はその人は北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、その喫茶店で待つ相手は、作曲家、船村徹だったのです。
1961年、ある日のレッスン前、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』でした。