生い立ち
アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックは、1899年8月13日にロンドンで誕生しました。家は鶏肉店と青果物の卸売商を営んでいましたが、彼が6歳の時にロンドン東部へ引っ越し、フィッシュアンドチップス店と魚屋を始めました。彼には兄と姉がいます。
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父親は規律や秩序を重んじていたため、子どもたちをとても厳しくしつけたそうで、彼は6歳から修道院などで教育を受けています。中でも彼が11歳の時入学した、聖イグナチウス・カレッジはとても厳格な規律で知られ、1日の終わりに教師たちが硬いゴム製の鞭を使って生徒に体罰を与えていたというのです。教師に罰を宣告された生徒は、恐怖を覚えながら1日を過ごすような学校で、後年彼は、こうした経験によって自分の中に「恐怖という感情が育まれた」と述べています。
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そんな彼ですが、成績は優秀で入学1年目の終わりにはラテン語、英語、フランス語および宗教教育の成績優秀者として賞を受けるほどでした。
父親と学校で厳しくしつけられた彼ですが、5,6歳の時に父親のしつけで警察署の留置場にいれられた経験が、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになったと後年語っています。また彼自身の作品のモチーフにもなっています。
父親と学校で厳しくしつけられた彼ですが、5,6歳の時に父親のしつけで警察署の留置場にいれられた経験が、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになったと後年語っています。また彼自身の作品のモチーフにもなっています。
エンジニア時代
彼は聖イグナチウス・カレッジを修了したのち、ポプラーにある海洋技術専門学校の夜間コースに入学し、力学や電子工学、音響学、航海術などを学びました。その後、14歳でロンドンのW・T・ヘンリー電信ケーブル社に、営業部門のテクニカルアドバイザーとして就職します。そんな折、父親のが亡くなり、兄が父の経営した店を引き継いでいます。
この頃、第一次世界大戦が起きていたのですが、彼は若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類判定を受け王立工兵連隊の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加していました。
この頃、第一次世界大戦が起きていたのですが、彼は若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類判定を受け王立工兵連隊の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加していました。
ゴールドスミス・カレッジ
ファインアート(現代美術)における功績が報道メディアにとり上げられることが多い学校ですが、音楽学、社会学、カルチュラル・スタディーズ、メディア研究、コミュニケーション学などの様々な分野の教育・研究を行っています。
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エンジニアになりたいと学校を出て就職したのですが、16歳の時、仕事が面白くないと感じるようになります。そこで彼は仕事をしながらロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強を始めます。次第に彼の関心は芸術へ移り、映画や演劇を盛んに観たり、映画技術専門紙や映画業界紙を愛読するようになりました。
ゴールドスミス・カレッジでイラストを学んでいたおかげで、広告部門に転属になり会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事に就くことができました。それから社内誌「ヘンリー・テレグラフ」の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿したりしましたが、この仕事も時間が経つにつれ飽き始め、給料にも満足しなくなったのです。
しかし、後年に彼は、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と語っています。
ゴールドスミス・カレッジでイラストを学んでいたおかげで、広告部門に転属になり会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事に就くことができました。それから社内誌「ヘンリー・テレグラフ」の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿したりしましたが、この仕事も時間が経つにつれ飽き始め、給料にも満足しなくなったのです。
しかし、後年に彼は、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と語っています。
映画監督へ
広告部門の仕事にも飽き始めた頃、アメリカ映画会社フェイマス・プレイヤーズ=ラスキーが、ロンドン北部にスタジオを開設し、「悪魔の嘆き」を製作予定であると発表しました。このニュースを知るや、彼は字幕デザイナーの仕事に応募しました。ですが製作は取りやめとなってしまっていたのです。しかし、代わりの作品の製作が決定していたことを知り、彼は雇ってもらえるかもしれないという熱意から、字幕デザインを作成しプロデューサーに渡したのです。この熱意がプロデューサーに伝わり、映画会社へと採用されたのでした。
当初は、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて映画会社から報酬を受け取っていたのですが、1921年にフルタイムの従業員として雇われることとなったため、ヘンリー電信ケーブル社を辞職したのです。それから約2年間11本の作品で字幕デザインを作成し、スタジオが人手不足だったこともあり、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあったそうです。
1922年にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはスタジオでの映画製作を停止し、従業員は次々と解雇されたのですが、彼は低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まることになりました。この頃彼はこのスタジオで自主製作による初監督作品「第十三番」(1922年)の撮影を始めましたが、製作費が底をつき未完成のまま終わってしまいました。ですが、これが彼の映画監督人生の始まりでした。
当初は、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて映画会社から報酬を受け取っていたのですが、1921年にフルタイムの従業員として雇われることとなったため、ヘンリー電信ケーブル社を辞職したのです。それから約2年間11本の作品で字幕デザインを作成し、スタジオが人手不足だったこともあり、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあったそうです。
1922年にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはスタジオでの映画製作を停止し、従業員は次々と解雇されたのですが、彼は低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まることになりました。この頃彼はこのスタジオで自主製作による初監督作品「第十三番」(1922年)の撮影を始めましたが、製作費が底をつき未完成のまま終わってしまいました。ですが、これが彼の映画監督人生の始まりでした。
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ヒッチコックの人柄
彼は、内気であまり人と付き合いたがらない性格でした。子どもの頃から犯罪や異常で悪質な行動に対して高い関心を示し、休みの日にはロンドンの中央刑事裁判所で殺人事件の公判を見学してノートに記録したり、スコットランドヤードの犯罪博物館を何度も訪れたりしていました。
10代の頃から広く小説を読むようになりましたが、愛読したのはエドガー・アラン・ポー、G・K・チェスタトン、ジョン・バカンなどの推理小説やサスペンス小説でした。若いころから様々な恐るべきことが突如として自分の身にふりかかることを恐れ、常に最悪の事態を予期してそれに備えていたそうです。
そんな彼ですが、いたずらをするのが大好きで、からかい程度のものから、相手に大きな迷惑をかける酷いものまで様々だったようです。作品登場する彼の表情は、どことなくいたずらっ子のようにも映ります。
10代の頃から広く小説を読むようになりましたが、愛読したのはエドガー・アラン・ポー、G・K・チェスタトン、ジョン・バカンなどの推理小説やサスペンス小説でした。若いころから様々な恐るべきことが突如として自分の身にふりかかることを恐れ、常に最悪の事態を予期してそれに備えていたそうです。
そんな彼ですが、いたずらをするのが大好きで、からかい程度のものから、相手に大きな迷惑をかける酷いものまで様々だったようです。作品登場する彼の表情は、どことなくいたずらっ子のようにも映ります。
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彼は、父からの教え通り秩序と習慣を重んじていて、贅沢を好まず比較的質素な生活を送りました。ただ唯一で最大の贅沢は食事であり、定期的に食通好みの珍味を調達したり、毎月イギリスからベーコンやドーバー産の舌平目を空輸で取り寄せ、それをロサンゼルスの燻製保蔵処理会社に借りたスペースに山のように貯蔵したりするなど、料理や食材にこだわる美食家として知られています。ワイン好きとしても知られ、自宅のワイン貯蔵室にはたくさんの年代物のワインを置いていました。
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主な作品
彼の主な作品に、「三十九夜」(1935年)、「バルカン超特急」(1938年)「レベッカ」(1940年)、「汚名」(1946年)、「ロープ」(1948年)、「見知らぬ乗客」(1951年)、「裏窓」(1954年)、「めまい」(1958年)、「北北西に進路を取れ」(1959年)、「サイコ」(1960年)、「鳥」(1963年)などがあります。