2016年11月25日 更新
【鈴木健】黄金期が過ぎようとしていた西武を再び優勝に導いた主砲。
高校通算本塁打記録・83本を引っさげ鳴り物入り西武に入団した鈴木健だが、レギュラー陣の分厚い壁に阻まれる。だが、西武の黄金期を支えたメンバーが次々とチームを去った時、新四番・鈴木健が危機を救うのだった。
高校生離れした長距離打者
埼玉の強豪・浦和学院の主力として甲子園にも2度出場した鈴木健選手。当時の日本最多記録である、高校通算本塁打83本という記録を引っさげ、1987年のオフにドラフト1位で西武ライオンズに入団します。
鈴木健選手の高校時代
鈴木選手が入団した頃の西武ライオンズは正に「黄金時代」でした。西武の成績を振り返ると…。
1982・83年(日本一)85年リーグ優勝(日本シリーズで阪神に敗れる)、86、87(日本一)
この数字は正に驚異的。この黄金時代を支えるレギュラーメンバーという分厚い壁が鈴木選手の前に立ちはだかるのです。
「二軍の帝王」と呼ばれた選手たち
鈴木健選手は高卒2年目の1989年で早くも一軍に昇格。初安打も放ちます。1990年は2軍で打率.364、さらに1991年は打率.401を記録し、2年連続でイースタン・リーグ首位打者に輝くなど若いうちからその実力は高く評価されていたのですが、何せ当時の西武のレギュラーには、一塁には清原和博選手、三塁には石毛宏典選手、指名打者にもデストラーデ選手ら不動のレギュラーがいて、この様に二軍では打ちまくっていても鈴木選手はなかなか一軍の出場機会に恵まれないという日々が続くのです。
俗に二軍では打ちまくっていても、外国人枠の問題や、ポジションの関係で一軍に上がれず、一軍に上がっても思うような成績を残せない選手のことを「二軍の帝王」などと呼ばれるのですが、この当時西武ライオンズの二軍には、鈴木健選手の他に、垣内哲也選手、バンバークレオ選手、大久保博元選手らといった他球団では充分クリーンナップを打てる力をもっていながら一軍で成績を残せない「二軍の帝王」と呼ばれる選手が数多くいたのです。
西武ライオンズ時代の大久保博元選手
1992年にシーズン途中に巨人に移籍した大久保博元選手が大活躍した事は当時の西武の選手層の厚さを示す事になりました。
一軍定着。そして…。
そんな鈴木健選手がまずチャンスを掴んだのが1992年の事。代打として成績を残し、日本シリーズでも逆転本塁打を放つなど活躍。以降は一軍に定着。1995年には三塁手のレギュラーを奪取します。
ですが、この1995年シーズンは、チームは阪神大震災後「がんばろう神戸」を掲げたオリックスの前に敗れました。西武ライオンズがリーグ優勝を逃すのは、1989年以来の事でした。
翌96年もオリックスがパリーグを連覇。そして、この年のオフ、清原選手がFAで巨人に移籍。
鈴木健選手が主力として活躍するのとは裏腹に、西武ライオンズの黄金期が終わろうとしていたのです。
FAで移籍した清原選手
西武ライオンズの新たな時代へ
オリックスに連覇を許し、黄金期の西武を支えたレギュラー選手達がチームを去った。
鈴木健選手が清原選手の変わりに四番に座ったのはそんな時でした。西武ライオンズが迎えた最大の危機と言っていい1997年シーズン、鈴木健選手は大活躍します。この年、鈴木選手は、打率.312、19本塁打、94打点と打ちまくります。この年の出塁率.431というのはリーグ最高記録で、鈴木選手は最高出塁率のタイトル、ベストナインを受賞します。
1998年シーズンも鈴木選手は大活躍します。プロ入り初の135試合フル出場を果たし、2年ぶりに本塁打が20発超え、チームもパリーグを連覇。日本一は逃すのですが、鈴木選手の他にも、高木大成、松井稼頭央、大友進、小関竜也、石井貴、豊田清、西口文也といった新生ライオンズを支える選手達が育っており、98年オフには横浜高校から松坂大輔投手を獲得。西武ライオンズは新たな黄金期を築こうとしていました。鈴木健選手は紛れもなくその中心にいたのです。
トレード移籍、復活。
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