貴乃花光司 プロフィール
貴乃花光司は、1972年8月12日生まれの48歳で、東京都杉並区出身の元大相撲力士、元日本相撲協会理事で本名は花田光司。1988年(昭和63年)3月場所初土俵。現役時代の最高位は第65代横綱。引退後は、一代年寄・貴乃花として2004年から2は貴乃花部屋の師匠として後進の指導に当たる傍ら、2010年に日本相撲協会理事に初当選。以来4期8年、相撲教習所部長、審判部長、地方場所(大阪)担当部長、総合企画部長、巡業部長を歴任し、2018年9月場所後に退職した。退職後は、相撲の普及活動の一環として、一般社団法人「貴乃花道場」を設立、理事として活動する他、タレントや絵本作家としても活動している。
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家族
父は、元大関貴ノ花で引退後は藤島・二子山両部屋の師匠・元日本相撲協会理事で2005年に他界した花田満。母は、藤島・二子山部屋の元女将でタレント・女優の藤田紀子(花田憲子)、兄は第66代横綱でタレントの花田虎上(花田勝、現役時代は3代目・若乃花勝)。伯父には第45第横綱で初代若乃花で日本相撲協会第6代理事長で2010年に他界した花田勝治がおり、相撲一家として知られている。
相撲に関する経歴
入門前
相撲を始めたきっかけは、小学校3年時に父であり、のちの師匠となる花田満が引退しとことであり、「将来、父が果たせなかった夢(横綱になること)を果たしたい」という思いから相撲に打ち込み始めたと言われています。小学校4年次には、わんぱく相撲の全国大会で優勝、わんぱく横綱の称号を手にした。中学校は相撲が盛んな明大中野に進学、相撲部監督の武井美男から技術面などの指導を受けたことがきっかけとなり、それが現役時代の飛躍につながったとされています。
入門
1988年、当時高校2年だった兄の勝とともに各界への入門を決意。中学を卒業した同年春場所に「貴花田」のしこ名で初土俵を踏んだ。同期には兄の他、大海(のちの横綱曙)、古賀(のちの大関魁皇、現・浅香山親方)らがいる。以来、関取になるまで次々と最年少記録を打ち立ててきた。その裏で部屋での生活においては、親方夫妻の息子であることから一部の兄弟子らのやっかみもあり、数々の嫌がらせを受けてきたが、常にマイペースでトレーニングを重ねていたという。母であり当時の藤島部屋女将だった花田憲子は、「いやがらせに打ち勝つことは稽古以上に大変なこと」と当時のことを振り返っている。
関取昇進
1989年11月場所、新十両に昇進。当時、17歳2ヶ月の若さは史上初の快挙となった。今でこそよく見られる光景となったが、「出世に髷が追い付かない」といわゆる「クワイ頭」で土俵に上がった。
新入幕
それからわずか半年後の1990年5月、17歳8ヶ月の若さで新入幕を果たした。その後は怪我で一時的に十両落ちの時期があったものの、半年後には幕内に復帰した。
1991年
春場所、東前頭13枚目の地位で初日から11連勝を挙げ、優勝争いに名を連ねた。11連勝後は何度か負けがあるものの、結果は12勝3敗で敢闘賞と技能賞を受賞した。5月場所(以下・夏場所)では、前場所好成績を挙げたことから、西前頭筆頭まで番付をあげた。初日の対戦相手は父(当時・藤島)を引退に追い込んだ因縁の相手、横綱・千代の富士だった。結果は、貴花田の完勝。千代の富士は2日後の3日目に兄弟子の貴闘力に破れ、現役引退を表明した。
空前の若貴ブーム
また、この頃から兄の若花田とともに兄弟の活躍がマスコミなどでクローズアップされたことから、空前の「若貴ブーム」に日本中が沸いた。雑誌は若貴兄弟の写真が表紙を飾り、テレビ出演やCMなどに引っ張りだことなり、ワイドショーは各局揃って毎日のよう兄弟の様子を伝えていた。本場所や巡業先では、多くの女性ファンが兄弟が登場すると群がり、黄色い歓声が上がるなど騒然となったことから兄弟のみの安全を最優先に考え、ファンの接近を制限するなどした時期もあった。のちに兄の勝は、「肩身が狭く、生きにくかった」と当時の様子を振り返っている。
1992年
初場所では、14勝1敗の好成績で若干19歳で幕内初優勝を果たした。優勝パレードの旗手は兄・若花田が務めた。さらに9月場所(以下、秋場所)では、2回目の幕内優勝を飾り、同年の最年少年間最多勝を受賞した。
1993年
初場所、11勝4敗の成績を挙げ、直前3場所の成績が大関昇進の基準となったことから、場所後に大関昇進を果たし、父と同じしこ名の「貴ノ花」に改名した。1月27日行われた伝達式の口上は「不撓不屈」の四字熟語を取り入れた。また、このとき同期入門だった曙が横綱に昇進し、同じ日に伝達式を行った。同期入門で横綱と大関の同時昇進となった。翌春場所には兄の若花田が幕内初優勝を果たし、貴ノ花は大関に昇進していたが、兄の優勝パレードで旗手を務めた。この時、貴乃花が袴の裾にカメラを忍ばせていて、パレードの最中に兄と2人で撮影した満面の笑顔の写真が、のちにテレビ番組で紹介されるなどし、兄弟や家族ともに仲が良好であることから世間からは「理想の家族」とまで言われていた。さらに、7月場所(以下、名古屋場所)後には兄・若花田が大関昇進を果たし、半年間で兄弟2人が大関に昇進した。
相撲を始めたきっかけは、小学校3年時に父であり、のちの師匠となる花田満が引退しとことであり、「将来、父が果たせなかった夢(横綱になること)を果たしたい」という思いから相撲に打ち込み始めたと言われています。小学校4年次には、わんぱく相撲の全国大会で優勝、わんぱく横綱の称号を手にした。中学校は相撲が盛んな明大中野に進学、相撲部監督の武井美男から技術面などの指導を受けたことがきっかけとなり、それが現役時代の飛躍につながったとされています。
入門
1988年、当時高校2年だった兄の勝とともに各界への入門を決意。中学を卒業した同年春場所に「貴花田」のしこ名で初土俵を踏んだ。同期には兄の他、大海(のちの横綱曙)、古賀(のちの大関魁皇、現・浅香山親方)らがいる。以来、関取になるまで次々と最年少記録を打ち立ててきた。その裏で部屋での生活においては、親方夫妻の息子であることから一部の兄弟子らのやっかみもあり、数々の嫌がらせを受けてきたが、常にマイペースでトレーニングを重ねていたという。母であり当時の藤島部屋女将だった花田憲子は、「いやがらせに打ち勝つことは稽古以上に大変なこと」と当時のことを振り返っている。
関取昇進
1989年11月場所、新十両に昇進。当時、17歳2ヶ月の若さは史上初の快挙となった。今でこそよく見られる光景となったが、「出世に髷が追い付かない」といわゆる「クワイ頭」で土俵に上がった。
新入幕
それからわずか半年後の1990年5月、17歳8ヶ月の若さで新入幕を果たした。その後は怪我で一時的に十両落ちの時期があったものの、半年後には幕内に復帰した。
1991年
春場所、東前頭13枚目の地位で初日から11連勝を挙げ、優勝争いに名を連ねた。11連勝後は何度か負けがあるものの、結果は12勝3敗で敢闘賞と技能賞を受賞した。5月場所(以下・夏場所)では、前場所好成績を挙げたことから、西前頭筆頭まで番付をあげた。初日の対戦相手は父(当時・藤島)を引退に追い込んだ因縁の相手、横綱・千代の富士だった。結果は、貴花田の完勝。千代の富士は2日後の3日目に兄弟子の貴闘力に破れ、現役引退を表明した。
空前の若貴ブーム
また、この頃から兄の若花田とともに兄弟の活躍がマスコミなどでクローズアップされたことから、空前の「若貴ブーム」に日本中が沸いた。雑誌は若貴兄弟の写真が表紙を飾り、テレビ出演やCMなどに引っ張りだことなり、ワイドショーは各局揃って毎日のよう兄弟の様子を伝えていた。本場所や巡業先では、多くの女性ファンが兄弟が登場すると群がり、黄色い歓声が上がるなど騒然となったことから兄弟のみの安全を最優先に考え、ファンの接近を制限するなどした時期もあった。のちに兄の勝は、「肩身が狭く、生きにくかった」と当時の様子を振り返っている。
1992年
初場所では、14勝1敗の好成績で若干19歳で幕内初優勝を果たした。優勝パレードの旗手は兄・若花田が務めた。さらに9月場所(以下、秋場所)では、2回目の幕内優勝を飾り、同年の最年少年間最多勝を受賞した。
1993年
初場所、11勝4敗の成績を挙げ、直前3場所の成績が大関昇進の基準となったことから、場所後に大関昇進を果たし、父と同じしこ名の「貴ノ花」に改名した。1月27日行われた伝達式の口上は「不撓不屈」の四字熟語を取り入れた。また、このとき同期入門だった曙が横綱に昇進し、同じ日に伝達式を行った。同期入門で横綱と大関の同時昇進となった。翌春場所には兄の若花田が幕内初優勝を果たし、貴ノ花は大関に昇進していたが、兄の優勝パレードで旗手を務めた。この時、貴乃花が袴の裾にカメラを忍ばせていて、パレードの最中に兄と2人で撮影した満面の笑顔の写真が、のちにテレビ番組で紹介されるなどし、兄弟や家族ともに仲が良好であることから世間からは「理想の家族」とまで言われていた。さらに、7月場所(以下、名古屋場所)後には兄・若花田が大関昇進を果たし、半年間で兄弟2人が大関に昇進した。
1994年
この年は、常に横綱昇進を目指していた貴乃花。初場所は初の角番で迎えたものの14勝1敗の成績で4回目の優勝。春場所で綱取りを逃し、夏場所で再び優勝するも名古屋場所で逃しの繰り返しだった。秋場所では初の全勝優勝を飾り、日本相撲協会(以下、協会)は、場所後の昇進を横綱審議委員会(以下、横審)に諮問したが、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアしていなかったため、昇進が見送られた。続く九州場所2場所連続で全勝優勝を飾り、その後の理事会等で正式に昇進が決定した。場所後の11月23日、二子山部屋の宿舎で伝達式の口上は「不惜身命」の四字熟語を取り入れた。翌日には綱打ちが行われ後日、明治神宮にて推挙式と奉納土俵入りが行われ、第65代横綱となった。土俵入りの露払いは兄弟子の貴ノ浪、太刀持ちは兄若乃花がつとめた。
この年は、常に横綱昇進を目指していた貴乃花。初場所は初の角番で迎えたものの14勝1敗の成績で4回目の優勝。春場所で綱取りを逃し、夏場所で再び優勝するも名古屋場所で逃しの繰り返しだった。秋場所では初の全勝優勝を飾り、日本相撲協会(以下、協会)は、場所後の昇進を横綱審議委員会(以下、横審)に諮問したが、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアしていなかったため、昇進が見送られた。続く九州場所2場所連続で全勝優勝を飾り、その後の理事会等で正式に昇進が決定した。場所後の11月23日、二子山部屋の宿舎で伝達式の口上は「不惜身命」の四字熟語を取り入れた。翌日には綱打ちが行われ後日、明治神宮にて推挙式と奉納土俵入りが行われ、第65代横綱となった。土俵入りの露払いは兄弟子の貴ノ浪、太刀持ちは兄若乃花がつとめた。
曙貴時代の到来と黄金期
1995年
貴乃花が横綱に昇進したことで、同期で1人横綱を務めてきた曙と合わせて2横綱となったことでいわゆる「曙貴時代」が到来した。新横綱で迎えた初場所は、12勝3敗の成績で前年秋場所からの3連覇を果たすも、武蔵丸等に敗れ、前年秋から続けてきた連勝記録が途絶える。この年は、夏、名古屋、秋の3場所優勝を重ね、迎えた九州場所、序盤こそ成績は振るわなかったが、中日以降は白星を重ね、兄とともに12勝2敗の成績で優勝争い名を連ねていた。しかし、ともに千秋楽の本割りで敗れたことから12勝3敗の成績となり、のちに語り継がれる「兄弟対決」が実現した。結果は、兄若ノ花の下手投げに敗れた。後日、この兄弟対決については「八百長ではないか」といった報道が一部でなされるなど物議をかもした。
1996年
初場所は、13日目まで全勝でトップと走っていたが、14日目に同期の魁皇に敗れこの場所はつ黒星となり、同部屋の兄弟子の大関貴ノ浪と1杯で並んだ。千秋楽では両者ともに14勝1敗の成績で本割りを終え、優勝決定戦となる。貴乃花にとっては、前年九州場所の兄弟対決に続く優勝決定戦、同部屋対決、二子山部屋(当時)にとっては2場所連続の優勝決定戦となったが兄弟子に敗れた。春場所以降は秋場所まで4場所連続優勝を飾った。おそらく貴乃花にとってこの時期は「黄金期」といっても過言ではないだろう。
貴乃花が横綱に昇進したことで、同期で1人横綱を務めてきた曙と合わせて2横綱となったことでいわゆる「曙貴時代」が到来した。新横綱で迎えた初場所は、12勝3敗の成績で前年秋場所からの3連覇を果たすも、武蔵丸等に敗れ、前年秋から続けてきた連勝記録が途絶える。この年は、夏、名古屋、秋の3場所優勝を重ね、迎えた九州場所、序盤こそ成績は振るわなかったが、中日以降は白星を重ね、兄とともに12勝2敗の成績で優勝争い名を連ねていた。しかし、ともに千秋楽の本割りで敗れたことから12勝3敗の成績となり、のちに語り継がれる「兄弟対決」が実現した。結果は、兄若ノ花の下手投げに敗れた。後日、この兄弟対決については「八百長ではないか」といった報道が一部でなされるなど物議をかもした。
1996年
初場所は、13日目まで全勝でトップと走っていたが、14日目に同期の魁皇に敗れこの場所はつ黒星となり、同部屋の兄弟子の大関貴ノ浪と1杯で並んだ。千秋楽では両者ともに14勝1敗の成績で本割りを終え、優勝決定戦となる。貴乃花にとっては、前年九州場所の兄弟対決に続く優勝決定戦、同部屋対決、二子山部屋(当時)にとっては2場所連続の優勝決定戦となったが兄弟子に敗れた。春場所以降は秋場所まで4場所連続優勝を飾った。おそらく貴乃花にとってこの時期は「黄金期」といっても過言ではないだろう。
成績不振 度重なる怪我と病気
夏場所後の1998年5月27日、二子山部屋で兄・若乃花の「横綱昇進伝達式」が行われた。これで大相撲史上初の「兄弟横綱」の誕生にマスコミの注目を集め、夏場所翌日には兄の横綱昇進を祝して特番が組まれ、若貴兄弟の歩みと横綱昇進までの軌跡が紹介されたり、その他マスコミでも大きく取り上げられ、ワイドショーやニュース番組でも大きく特集が組まれてていた。筆者は当時高校1年生で相撲にあまり興味はなかったが、「兄弟横綱」の見出が踊っていたことはよく覚えている。しかし、この時を境に兄弟間で相撲に関する価値観の違いが浮き彫りになっていく。名古屋場所では新横綱の兄とともに「兄弟横綱」として土俵に上がり、14勝1敗の成績で前年の秋場所以来の優勝を飾った。
1996年秋巡業中に背筋の肉離れを起こし、途中離脱、その後一旦九州場所への出場を明言するもその後体調を崩し、初日から全休した。これをきっかけに貴乃花本来の相撲に陰りが見え始めた。
1997年
前年の休場がきっかけとなり、相手を強引にねじ伏せたり、体をのしかけていく浴びせ倒しノと陸地に変化していく。この年にも春、名古屋、秋で3場所連続優勝しているものの内蔵の不調が見え始めていた。
1998年
初場所には、顔面に原因不明の発疹が現れるなどの体調不良で途中休場となり、場所後は「長野オリンピック」の開会式で横綱土俵入りを披露する予定になっていたが、欠席となり、もう1人の横綱である曙のみ土俵入りを披露した。続く春場所も肝機能障害が原因で初日から成績不振に陥り、またも途中休場に追い込まれた。その一方で兄で当時大関だった若ノ花は、初日から12連勝し、13日目に曙に敗れ黒星を喫するも、14勝1敗の成績で4回目の優勝、綱取りがかかった夏場所でも12勝3敗で優勝を飾った。優勝パレードの旗手は貴乃花がつとめた。さらに、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアし、夏場所後横綱に昇進、史上初の兄弟横綱の誕生となった。
1997年
前年の休場がきっかけとなり、相手を強引にねじ伏せたり、体をのしかけていく浴びせ倒しノと陸地に変化していく。この年にも春、名古屋、秋で3場所連続優勝しているものの内蔵の不調が見え始めていた。
1998年
初場所には、顔面に原因不明の発疹が現れるなどの体調不良で途中休場となり、場所後は「長野オリンピック」の開会式で横綱土俵入りを披露する予定になっていたが、欠席となり、もう1人の横綱である曙のみ土俵入りを披露した。続く春場所も肝機能障害が原因で初日から成績不振に陥り、またも途中休場に追い込まれた。その一方で兄で当時大関だった若ノ花は、初日から12連勝し、13日目に曙に敗れ黒星を喫するも、14勝1敗の成績で4回目の優勝、綱取りがかかった夏場所でも12勝3敗で優勝を飾った。優勝パレードの旗手は貴乃花がつとめた。さらに、横綱昇進の条件である「2場所連続優勝」をクリアし、夏場所後横綱に昇進、史上初の兄弟横綱の誕生となった。
大相撲史上初!兄弟横綱の誕生と曙若貴時代の到来
1998年夏場所の千秋楽以降、ワイドショーなどでは若乃花の横綱昇進に関するニュースが多く取り上げられたり、特番として、若貴兄弟の入門時からの歩みから若乃花横綱昇進の軌跡を描いたドキュメントが放送されるなど兄弟横綱の誕生は世間から大きく注目された。5月27日は、二子山部屋で兄の伝達式が行われ、「兄弟横綱」が正式に誕生した。兄弟横綱は大相撲史上初の快挙だった。名古屋場所の番付では曙を含めると1988年春場所初土俵の3人が横綱となった。いわゆる「曙若貴時代」の到来となった。名古屋場所では、14勝1敗で前年の秋場所以来の優勝を飾った。
若乃花横綱昇進特番
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兄弟横綱誕生後
1998年名古屋場所は、「曙若貴時代」が到来し、ファンは史上初の兄弟横綱の活躍に注目した。
1998年
名古屋場所では14勝1敗で前年秋場所以来の優勝、秋場所では13勝2敗で2連覇を果たすが、それ以降は2001年初場所まで約2年間優勝から遠ざかることとなった。
1999年
この年は、1996年以来怪我の不調に苦しむこととなった。初場所は、序盤から思うような結果が残せず8勝7敗に終わった。春場所は、10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めるも左肩骨折により11日目から途中休場、また夏場所は全休となった。復帰した名古屋場所で再び左手薬指を脱臼しその後は自分の相撲がとれず9勝6敗、秋場所は全休となった。九州場所では本来の調子が取り戻せずも終盤まで3敗の成績で優勝争いに名を連ね、千秋楽の武蔵丸との優勝決定戦で敗れ、11勝4敗で場所を終えた。
また、2000年以降稽古量が増えたことから、怪我や体調不良などを全く感じさせないくらい調子が上向きになり、常に優勝争いに名を残すようになる。
1998年
名古屋場所では14勝1敗で前年秋場所以来の優勝、秋場所では13勝2敗で2連覇を果たすが、それ以降は2001年初場所まで約2年間優勝から遠ざかることとなった。
1999年
この年は、1996年以来怪我の不調に苦しむこととなった。初場所は、序盤から思うような結果が残せず8勝7敗に終わった。春場所は、10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めるも左肩骨折により11日目から途中休場、また夏場所は全休となった。復帰した名古屋場所で再び左手薬指を脱臼しその後は自分の相撲がとれず9勝6敗、秋場所は全休となった。九州場所では本来の調子が取り戻せずも終盤まで3敗の成績で優勝争いに名を連ね、千秋楽の武蔵丸との優勝決定戦で敗れ、11勝4敗で場所を終えた。
また、2000年以降稽古量が増えたことから、怪我や体調不良などを全く感じさせないくらい調子が上向きになり、常に優勝争いに名を残すようになる。
兄若乃花の引退!若貴時代の終焉
2000年3月16日兄若乃花が現役引退を表明した。若乃花は、1999年初場所は初日から12連勝し、優勝争いのトップにたっていたが、13日目に黒星を喫し、14日目までは13勝1敗で単独トップにたっていた千秋楽には本割で新鋭の千代大海(現・九重親方)に敗れ13勝2敗で優勝決定戦へ、ここでも千代大海に敗れ、優勝を逃した。その後は、左肩の脱臼を始め満身創痍の状態で土俵を務めてきた。春場所と夏場所の途中休場に続き、名古屋場所は全休。秋場所は序盤から崩れ、10日目の闘牙戦で左足肉離れを起こし、11日目からは怪我の影響で1勝もできず横綱としては7勝8敗の不名誉な負け越しで終わった。スポーツ紙では「引退」の2文字が踊ったが、若乃花は「現役続行」を表明した。しかし、前年の九州場所とこの年の初場所は全休。進退をかけて臨んだ春場所では5日目を終えて2勝3敗となり、その日の夜に大阪の宿舎で父であり師匠である二子山とともに記者会見を開き「体力を補う気力の限界」を理由に現役引退を表明、かつて父が名乗っていた年寄「藤島」を襲名した。この時貴乃花は、兄について「語らなくても通じ合える」関係であると語り、会見終了後に兄弟で握手を交わし、兄の労をねぎらった。これで平成の大相撲界を牽引してきた若貴フィーバーは幕を閉じた。
prince 🐺 2021/11/8 09:33
「貴花田」のときに千代の富士が敗れたあの取り組みは角界あるターニングポイントの前兆