トヨタ・2000GT
2000GT(にせんジーティー)は、トヨタ自動車とヤマハ発動機が共同開発し、ヤマハ発動機への生産委託で1967年から1970年までトヨタブランドで生産されたスポーツカータイプの乗用車です。
チビッ子の間でも
スーパーカーブーム当時の写真
via www.youtube.com
1970年代半ばスーパーカーブームの時はランボルギーニやフェラーリの外車勢の中で唯一国産車でスーパーカーと呼べる1台だったのではないでしょうか。
【スーパーカーブーム】小学生の憧れ!!ランボルギーニ・カウンタックミウラ・イオタ・等世界の【スーパーカー】 - Middle Edge(ミドルエッジ)
小学生の憧れ!!ランボルギーニ・カウンタックミウラ・イオタ・等世界のスーパーカー!!1970年~1980年代にタイムスリップしたような感覚で当時を思い出していただこうと思い、当時のことなどを振り返ってみた。
トヨタ・2000GTスペック
via ja.wikipedia.org
販売期間 1967年 - 1970年
デザイン 野崎喩
乗車定員 2名
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン
MF10型 1988cc 3M型直列6気筒 DOHC
MF12L型 2253cc 2M-B型直列6気筒 OHC
駆動方式 FR
最高出力 MF10型 150ps/6600rpm , MF12L型 140PS/5800rpm
最大トルク MF10型 18.0kgf·m/5,000rpm , MF12L型 20.5kg-m/3800rpm
変速機 2000GT専用5速MT(他に3速ATの設定あり)
サスペンション 4輪ダブルウィッシュボーン(コイルスプリング)
全長 4,175mm
全幅 1,600mm
全高 1,160mm
ホイールベース 2,330mm
車両重量 1,120kg
シャーシ X型バックボーンフレーム
開発までの経緯
via ja.wikipedia.org
1960年代前半の日本におけるモータリゼーション勃興期、トヨタ自動車にとって最大の競合メーカーである日産自動車はフェアレディ、また四輪車メーカーとしては新興の本田技研工業はSシリーズをそれぞれ市場に送り出していた。
一方のトヨタ自動車は、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、1960年代前半にはスポーツカーを生産していなかった。
そこでヤマハ発動機と共同開発へ
1965年(昭和40年)1月より、トヨタ側の開発陣がヤマハ発動機に出張しながら、ヤマハの安川研究室の十数名を主導して2000GTの開発プロジェクトを推進していった。
開発プロジェクトは順調に進み、4月末に最終設計図が完成。
計画開始からわずか11か月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタ自動車に送られた。
一方のトヨタ自動車は、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、1960年代前半にはスポーツカーを生産していなかった。
そこでヤマハ発動機と共同開発へ
1965年(昭和40年)1月より、トヨタ側の開発陣がヤマハ発動機に出張しながら、ヤマハの安川研究室の十数名を主導して2000GTの開発プロジェクトを推進していった。
開発プロジェクトは順調に進み、4月末に最終設計図が完成。
計画開始からわずか11か月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタ自動車に送られた。
愛好者や評論家の一部は
via ja.wikipedia.org
2社共同開発とは言っているが、2000GTはその成立過程で特異性に加え、生産についてもヤマハおよびその系列企業に委託されたこともあり、「果たしてトヨタが開発した自動車と捉えるべきか」という疑問が、愛好者、評論家の一部によって呈されている。
自動車関係の書籍・雑誌では古くから、さらに近年では個人によるブログ上などでも「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「金だけ出してトヨタのバッジをつけた」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」という声もある。
自動車関係の書籍・雑誌では古くから、さらに近年では個人によるブログ上などでも「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「金だけ出してトヨタのバッジをつけた」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」という声もある。
当時の価格
#トヨタ2000GTは5月16日発売48周年
— キュアときわ(かれん) (@dclkcf) July 31, 2015
第14回東京モーターショーに当時ミニスカの女王と言われたツィギーが来日して…トヨタのブースで約5分の出演料が当時の金額で約500万円とトヨタ2000GT一台フレゼントされたらしい。 pic.twitter.com/1Rx6ITliSV
当時の2000GTの価格は238万円で、トヨタ自動車の高級車であるクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える程に高価であった。
1967年(昭和42年)当時の日本における大卒者の初任給がおおむね2万6000円前後であったから、21世紀初頭の日本においては1500万円から2000万円程度の感覚にも相当する、
一般の人々にとっては高嶺の花の超高額車であった。
それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定であり、この事から常に赤字計上での販売であった。トヨタ自動車にとっては「高価な広告費」とも言うべきものであった。
1967年(昭和42年)当時の日本における大卒者の初任給がおおむね2万6000円前後であったから、21世紀初頭の日本においては1500万円から2000万円程度の感覚にも相当する、
一般の人々にとっては高嶺の花の超高額車であった。
それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定であり、この事から常に赤字計上での販売であった。トヨタ自動車にとっては「高価な広告費」とも言うべきものであった。