高校野球史に残る名勝負~昭和49年・夏~鹿児島実業対東海大相模戦
2021年5月27日 更新

高校野球史に残る名勝負~昭和49年・夏~鹿児島実業対東海大相模戦

高校野球史に残る名勝負をいくつか紹介しています。ここでは、昭和49年夏の大会。鹿児島実業対東海大相模戦をとりあげます。後に巨人で共にプレーする事になる鹿児島実業・定岡正二選手と東海大相模・原辰徳選手が激突したこの試合は延長15回に及ぶ死闘となりました。

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鹿実の定岡

定岡正二選手と原辰徳選手は二歳違い。
定岡正二選手が初めて甲子園に出場したのは高校二年生の夏の第55回全国高等学校野球選手権大会の事です。この時は対日大山形高戦で代打出場しただけにとどまったのですが、高校3年生の夏は鹿実のエースとしてチームを甲子園に導きます。
定岡正二選手(鹿児島実業高校時代)

定岡正二選手(鹿児島実業高校時代)

延長15回の熱戦

後に述べるように「定岡フィーバー」と呼ばれる定岡正二選手ですが、甲子園出場決定時には、好投手の一人としての評価に留まっていました。そんな定岡正二選手と、東海大相模高校で1年生ながら主軸を務める原辰徳選手は夏の第56回全国高等学校野球選手権大会の準々決勝で対戦するのです。
ちなみにこの第56回全国高等学校野球選手権大会は金属バットが導入されたこともあり、甲子園の歴史を変えた大会だと言われており、そんな大会でこの名勝負は生まれたのです。
甲子園での本塁打数の推移

甲子園での本塁打数の推移

第56回全国高等学校野球選手権で金属バット導入以来、本塁打数は飛躍的に増加していきます。
東海大相模高校は、初戦で優勝候補の土浦日大高校を延長16回で破り、一躍優勝候補に名前が躍り出ていました。対する鹿児島実業高校は、。対佼成学園戦。高岡商戦と2戦続けて1-0で勝利と、打線が湿りがちなものの、定岡正二選手が絶好調で好勝負が期待されていました。

鹿児島実対東海大相模高戦

試合は東海大相模高校が定岡選手の立ち上がりを攻め、1回の裏に2点を先制します。鹿児島実業の打線が調子が悪かったことから、試合は東海大相模高校ペースで進むかと思われたのですが、2回表に3点を返した鹿児島実業がリードを保ち、最終回まで進みます。ですが、ここからが東海大相模高校が粘りを見せます。2死から同点に追いつき、試合は延長戦へ。
当時の新聞記事より

当時の新聞記事より

延長は14回に鹿実が1点を勝ち越すと、すぐその裏東海大相模が追いつき、サヨナラのチャンス。バッターの打った打球はセカンドを超えてセンターへ。サヨナラ…と誰もが思った瞬間、セカンド中村選手の超ファインプレーが出てサヨナラを防ぎ、15回に1点を勝ち越した鹿実が東海大相模の反撃を振り切って、準決勝に進出しました。

熱闘、その後

東海大相模高校を倒し、鹿児島県勢初のベスト4進出した鹿児島実業は、準決勝で防府商高と対戦します。ところが、定岡正ニ選手は3回に右の手首を負傷。投手交代を余儀なくされた上に、チームはサヨナラ負けを喫します。「悲劇のヒーロー」となった定岡正二選手は甘いマスクと実力が相まって絶大な人気を博したのです

定岡正二選手の人気ぶり

定岡正二選手ら鹿児島実業の選手たちが鹿児島に帰って来た時の地元の熱狂ぶりを報じている当時の映像です(後半は「バンビ坂本」と呼ばれた東邦高校の坂本佳一選手の映像もあります)
定岡正二選手擁する鹿児島実業に敗れたとはいえ、この時、原辰徳選手はまだ1年生。後、76年の選抜大会以外の四季にわたって甲子園に出場。中でも75年センバツでは延長で5点を入れられて敗れたのですが、準優勝に輝いています
準優勝メダルをかけて

準優勝メダルをかけて

原辰徳選手の隣にいるのは、東海大相模高校監督で原選手の父親でもある原貢監督。
ということは…巨人のエース菅野智之選手のおじいちゃんということに。
原辰徳選手のルックスに加え、監督を務めている原貢監督との「親子鷹」も注目されて当時の「原フィーバー」はものすごく、甲子園で東海大相模高校が出場する日はいつも満員。通常の入場料金の何十倍もの値段で売る「ダフ屋」から入場券を買い求める人が続出した事が問題となりました。そのフィーバーぶりは甲子園に限らず、神奈川県予選で東海大相模高校の試合に限り、通常甲子園予選が行われる保土ケ谷球場では観客を収容できないので川崎球場に球場を変更。プロ野球の試合でも満員にならない川崎球場が満員になったという逸話も残っています。

プロ入り後

定岡正二選手は1974年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。長嶋茂雄監督最終年の1980年にプロ入り初勝利を含む9勝を挙げ、藤田元司監督就任の最初のシーズンの1981年4月11日の阪神タイガース戦では、先頭打者の北村照文選手に二塁打を打たれた後、打者27人連続でアウトを奪うという準完全試合を達成。最終的にはプロ入り初の2ケタ勝利(11勝)を挙げ、同年の4年ぶりのリーグ優勝や1981年の日本シリーズ制覇に貢献するなどの活躍を見せました。
ですが、以降成績を落とした定岡正二選手は、1985年オフに近鉄にトレード移籍が一時発表されたものの、これを拒否。任意引退という形で突然の現役引退を表明します。、29歳の若さでした。
定岡正二(巨人時代)

定岡正二(巨人時代)

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