日産サッカー部の顔だった「早野宏史」
神奈川県立生田高校、中央大学法学部を卒業。
1978年日産自動車サッカー部(のちの横浜F・マリノス)に加入。
小柄だがスピードのある技巧派FWとして活躍。(金田喜稔、木村和司とともに当時「日産ターボ」と呼ばれた)1987年引退後、指導者として活動を始める。
学生時代は1973年、74年に全日本ユース代表・アジアユース大会に出場しました。
また、1974年には関東大学秋季リーグで優勝も果たしました。
日産自動車サッカー部に入部後は、1983年、85年に天皇杯優勝を経験。
また、1974年には関東大学秋季リーグで優勝も果たしました。
日産自動車サッカー部に入部後は、1983年、85年に天皇杯優勝を経験。
via www.jsm.jpn.com
現役引退後は日産で指導者に!
12年間の現役選手生活を経て1987年から日産サッカー部の下部組織にあたる日産ファーム(現在のサテライトチーム)、日産ユース、日産FCレディースなどで監督として指導者としてのキャリアを重ねる。
1992年のJリーグ開幕とともにマリノスのコーチに就任。1995年にS級ライセンスを取得。同年シーズンの途中から監督に昇格しその年のリーグ戦を制覇した。しかし、翌年は、前年みたいな結果を残せずシーズン終了後に解任された。
via blogs.c.yimg.jp
1995年・横浜マリノスを優勝に導いた軌跡
サントリーシリーズでの快進撃!!
サントリーシリーズは、この年前年のワールドカップでサウジアラビアをベスト16に躍進させたホルヘ・ソラリを招聘し、川口能活・松田直樹といった若手を積極的に起用した横浜Mが首位争いを演じるが、第16節で「個人的な理由」から横浜M監督のソラリが退任し、後任に日産OBの早野宏史を抜擢。
監督交代直後には3連敗を喫するなどするものの、後続のチームのもたつきに助けられる形で横浜Mが初のステージ優勝を達成する。
続くNICOSシリーズは地力を発揮したV川崎が3年連続でステージを制した。
via blogs.c.yimg.jp
via blogs.c.yimg.jp
「サントリーシリーズ優勝」 サポーターのコメント
この時、多くのマリノスサポはH氏万歳と思っただろう。
監督就任後10試合6勝4敗と平凡な成績だったのにも関わらず優勝した事で全て良しとなった。
『早野宏史』コールが鳴り響くスタジアム。スタジアム全体がH氏を頂点に最高に盛り上がったのは忘れられないな。
※H氏とは早野監督の事です。
via blogs.c.yimg.jp
伝統の「日産 対 読売」がチャンピオンシップで実現!
堅守が光ったシーズンを象徴するかのように、チャンピオンシップでも横浜Mの安定した守備が勝利のポイントに。2試合ともに完封勝利でV川崎の3連覇を阻んだ。
via www.jleague.jp
横浜マリノス監督時代
チャンピオンシップを制した後の早野監督のインタビューでのコメント
「むずかしいゲームになることは覚悟していたし、川崎が第2戦でラモスを使うなど必ず動いてくると考えていた。
それにしても、後半はツキがあった。ゴールポストやバーが我々を助けてくれた。
前任者(ソラリ前監督)が種をまいたものに、栄養を与えて、きょう花が開いた、という感じです。」
「むずかしいゲームになることは覚悟していたし、川崎が第2戦でラモスを使うなど必ず動いてくると考えていた。
それにしても、後半はツキがあった。ゴールポストやバーが我々を助けてくれた。
前任者(ソラリ前監督)が種をまいたものに、栄養を与えて、きょう花が開いた、という感じです。」