タイガーマスク - YouTube
プロレスラー 佐山聡
梶原一騎主催の「格闘技大戦争」の中で
佐山聡(新日本プロレス)vsマーク・コステロ(全米プロ空手ミドル級第1位)戦が行われた
佐山のセコンドには山本小鉄がつき
リング下ではアントニオ猪木、ストロング小林、ウィレム・ルスカらが観戦していた
まさにプロレスの威信をかけた試合だった
しかしこの試合は
両者ボクシンググローブ着用、寝技無しというプロレスラーには不利なルールだった
アントニオ猪木を神のように崇拝していた
中学でレスリングや柔道を始め
高校1年のとき、アマチュアレスリングの大会で優勝
高校を中退し新日本プロレスに入門
プロレスを始めたのは17歳だった
「僕がいた頃の新日本の道場は、
まず山本小鉄さんの基本練習の厳しさがあり、
その上には『プロレスはストロングスタイルでなければならない』という猪木さんの思想があった
さらに毎年、数カ月から半年、カール・ゴッチさんが滞在する期間があって、
関節技とか寝技を指導する
それによって猪木さんの思想をさらに植え付けるというような、そういう場でしたよね
練習は過酷だったけれど大変だったとは思わない
むしろやりがいがあったし
楽しかった
それこそスパーリングだけで2時間とかやってましたからね
でも皆、負けず嫌いだし、お互い意地があるから2時間やっても極まらないんです
僕なんて歯が折れてもギブアップしなかったですから
スパーリング中は歯が折れた痛みも全然感じないんですよ
今思えば特殊な環境ですよね
じゃあ、なぜそこまでやっていたかといえば、
『プロレスはストロングスタイルでなければならない』という猪木さんの思想があったから
関節技や、ガチンコの部分はなぜあるのかっていうのが
もしかしたらレスラー自身もわかってなかったかもしれませんが
リング上で闘いを見せる上では必要なんだって、
そういう風に教え込まれてましたからね
みんな『俺たちがいちばん強い』と思ってましたし、
今考えると馬鹿げてると思うけど、
当時は、藤原さんたちと一緒に『俺たちってよ、世界で5本の指に入るよな』とか話してました」
(http://taishu.jp/16146.phpより)
「これに勝つには打撃を身につけるしかない」
佐山は新日本に黙ってキックボクシングの道場に通い出す
「今と違って当時はほかの道場に行っちゃいけないような空気がありましたからね
でもある日、
僕がキックの道場に通っていることが新日本にバレた
叱られるかなと思って覚悟していたら、
猪木さんは褒めてくれたんです
僕が強くなるためにやってることだったからでしょう」
(http://taishu.jp/16146.phpより)
その相手をするのは佐山が担当で
佐山は全員を退けました
リアルファイトは前田も強かったけど
笑顔で人間の腕をへし折れるのは猪木以外では佐山だけでした」
(山本小鉄)
この試合に抜擢され
佐山はこの試合に備えて目白ジム(キックボクシングジム)でトレーニングを積み
92kgあった体重を77.5kgまで落とした
佐山サトル vs マーク・ コステロ Tiger Mask vs Marc Costello 1977 - YouTube
佐山は果敢にバックドロップ、反り投げなどの投げ技を繰り出した
2R以降、
マーク・コステロがパンチ・キック・膝蹴りと一方的に佐山を攻めまくり
佐山は毎ラウンド、ダウンしては立ち上がるを繰り返した
佐山はプロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの
7回ダウンを奪われるという屈辱的な判定負けを喫した
この試合に負けたことで佐山はより深く格闘技に傾倒していった
寮の自室に
「真の格闘技は、打撃に始まり、組み、投げ、最後に関節技で決まる」
という標語を貼りつけていた
海外武者修行
佐山はメキシコへ渡り
体重が20kg近く減るほど慣れない環境や食生苦労しながら
「サトル・サヤマ」のリングネームで活躍
NWA世界ミドル級王座を獲得した
佐山は
イギリスへ渡り
「ブルース・リーの従弟:サミー・リー」のリングネームで
サミー・リーは東洋武術を使うプロレスラーとして大活躍した