第2次UWF崩壊 弾け散ったパワー・オブ・ドリーム
2023年1月7日 更新

第2次UWF崩壊 弾け散ったパワー・オブ・ドリーム

1984年4月11日に旗揚げした第1次UWFは、様々な事件と前田日明と佐山聡のケンカマッチを経て1年半で崩壊。屈辱の新日本プロレス出戻り生活も前田日明が暴れまくったため2年半で終了。再旗揚げした第2次UWFは、社会現象といわれるほど若者を熱狂させながら、2年7ヵ月の活動にピリオドを打った。

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第1試合以外、異種格闘技戦とイベントをマスコミは、
「60000人の大観衆を集め大成功」
と報じた。
しかし実際に売れたチケットは15000枚程度で、残りは無料券だった。
読者プレゼントにハガキを3枚出し、3枚チケット当たり、
「大丈夫ですか?」
と電話した人もいた。
この大会のビジネス面での成否についてUWFスタッフは、
「メガネスーパーさんがスポンサードしている大会なんで、大赤字かというとそうでもない。
TBSで特番もやりましたから放映料も入ってます。
ビデオもかなり売れました。
グッズの売れ行きなんか数千万円です。
さらに『東京ドームに進出して大成功を収めた』という評判は大きくて、WOWOWの契約が決まるんです」
といっている。
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1990年2月27日、道場練習での事故で亡くなった堀口和郎の追悼大会「U.W.F. ROAD」が神奈川県南足柄市体育センターでが行われた。
事故から約1年、彼が入門テストを受けたときの受験番号5番だったことから5回ゴングが鳴らされた。

中野龍雄 vs 鈴木みのる
安生洋二 vs 宮戸成夫
前田日明 vs 山崎一夫
高田延彦 vs 藤原喜明

が行われたが、 船木誠勝と鈴木みのるはレガースを外して登場。
自分の主張ができる彼らはUWFにとってはニュータイプだった。
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一方で赤字続きに神新二社長は、メガネスーパーの子会社になることを考えていた。
メガネスーパー創業者、田中八郎は、大のプロレスファンだった。
これに前田日明は猛反対。
金がないということが信じられず、帳簿をみせるように要求。
「部外者に見せることはできない」
といって断られると、マスコミに
「UWFは経理が不透明だ」
と発言し、UWFの弁護士に
「なんで先走ってそういうことをいってしまうんだ」
と注意された。
マスコミは
「UWFの内紛」
「社長とエースの感情的対立」
と報道し、スキャンダルに発展。
神新二社長は、前田日明に帳簿をみせることにしたが、前田に株を渡すように要求されると拒否。
社員は売り上げのデータを提示し、会社が儲かっていないことを説明しようとしたが、前田日明は信じなかった。
私財を投じて再旗揚げし、身を粉にして働き続けてきた神新二社長、鈴木浩充専務は、横領を疑われ、怒りに体を震わせた。
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神新二社長、鈴木浩充専務は、レンタルビデオ・CD店「友&愛」を2店舗経営し、不動産投資も行っていた高田延彦ファンクラブの会員に勧められ、個人的にマンションを買い、会社としても不動産を購入していた。
そのファンクラブ会員は、選手とも仲が良く、お気に入りの曲をダビングしてあげたり、プライベートでも一緒に遊んだりしていて、
「こないだ神が買った砧のマンションは狭い」
「鈴木に教えてやった岩槻のマンションはウン千万でさあ」
などと話していた。
それを聞いた前田日明は
「なんでそんなにマンション買えるんや」
と不信感を募らせた。
会社で買った不動産について、神新二社長は、
「将来、ジムを建てて引退した選手が教えるというプランだった」
と説明したが、帳簿を確認すると最初、月25万円だった神新二社長の給料は、グングン上がって200万円を超えていた。
給料が150万円だった前田日明は、他の選手に
「選手は搾取されている」
「フロントに入れ替えよう」
と話した。
そこに自分が会社を乗っ取ろうというような意図はなく
「自分が先頭に立って選手を守らなければいけない」
という思いだった。
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1990年5月、メガネスーパーが、天龍源一郎を3億円で獲得するなど、新日本プロレス、全日本プロレスから選手を引き抜き、SWSを発足。
田中八郎は、格闘技色の強い団体に育て、UWFと対抗戦も行い盛り上げていこうと考えていた。
同時期、船木誠勝は、UWF事務所で前田日明の怒鳴り声を聞いた。
部屋を出てきた前田が置いてあった段ボールを殴るのを目撃。
「前田さん、それはないんじゃないですか」
と鈴木浩充専務にいわれると
「ああっ?」
とつっかかっていった。
前田が帰った後、神新二社長が
「あんな人だから・・・」
というのをみて、船木はUWFは一丸ではないことを思い知った。
「その頃ぐらいから前田さんは自分たちと一緒に練習しなくなったんです。
事務所のことを調べてたそうです。
お金の流れとかですね。
神さんたちが不動産を購入したとか、前田さんが1%の株も持たせてもらえなかったこととか。
前田さんは役員じゃなくただのレスラーという身分で、契約書も交わさないままやってたと思います。
不信感しかなかったんじゃないですか。
逆に神さんたちも前田さんをいらなくなってきてたような気がします」
(船木誠勝)
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帳簿によると社員の給料は社長の1/10くらいだったが社員の多くは
「社長が前田さん以上の報酬を受け取るのはもらい過ぎ」
と思ったという。
そしてその後、社員は、社長と会社の看板選手の間に深い溝ができ、関係がギクシャクしていくのを感じた。
しかしそれでも
「どうにかなる」
と思っていた。
そう楽観視できたのは、日本初の民間衛星放送局、WOWOWとの契約があったからだった。
WOWOWの立ち上げの目玉は、マイク・タイソン、そしてUWF。
この2つでスタートダッシュし、一気に視聴者を獲得しようとしていた。
UWFは、翌1991年春からWOWOWで放映され、1大会4千万円、年間5億円の放映料が支払われることがが決まっていた。
「いくら感情的にこじれても、年間5億を棒に振るわけがない」
誰もがそう思っていた。
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1990年6月21日、大阪府立体育館は超満員。
当日券を求める人の多さに、UWFは本当は売ってはいけない立見席まで怒られるのを覚悟で売った。
船木誠勝は、山崎一夫と対戦し、フロントネックロックで首を取られながらもボディを連打。
たまらず離した山崎に、ボディから顔面へ、パンチと掌打のコンビネーションでダウンを奪い、ドクターストップで勝利した。
4ヵ月後、1990年10月25日、UWF大阪城ホール大会のメインイベントで前田日明 vs 船木誠勝が行われ、激戦の末、前田が勝利。
「解散するのでは・・・」
と心配していたUWFファンは、2人の激闘をみて
「大丈夫だ」
と安心した。
しかし試合後、前田が、
「船木のような選手をリング外のゴチャゴチャでかき回したくないんだよ。
オレにしても高田(延彦)にしても、山ちゃん(山崎一夫)にしても、リングに専念できる環境だったら、別のまた違ったものになったと思うんだよ。
そういった意味で若い選手を守っていきたい。
妨害やちょっかいを出す者は、容赦せずに叩き潰すよ。
たとえそれが外の者であっても、中の者であっても」
「事務所が横領してる。
それをこれから突き詰めていく」
とコメントしたことを翌日の新聞で知ると再び不安になった。
事実、この船木戦が前田のUWFでの最後の試合になってしまう。
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1990年10月28日、神新二社長はUWF事務所で記者会見を行い、前田日明が選手たちに
「選手の代わりはいないがフロントの代わりはいっぱいいる。
もっと優秀で素晴らしいフロントがいる。
だから別会社をつくって、そっちへみんなで移動しよう。
新しいフロントも手配済みだ」
と話しているとし、
「冷静になってもらうために」
と5ヵ月間出場停止処分にすると発表。
この処分は役員会議を通さずに決めたもので、他の役員には後になって知らされた。
そして神社長は、藤原喜明に前田に代わって選手の取りまとめ役を依頼した。
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その後、1ヵ月後に行われる松本大会の対戦カードを決めるための会議が行われた。
この会議は選手も出席するはずだったが、藤原喜明、高田延彦、山崎一夫は不参加。
藤原は面倒くさいことに関わるのを嫌い、高田と山崎は
「前田さんの処分を自分が認める、あるいは世間一般に認めることになる」
とボイコット。
神新二社長は松本大会のメインを会議に出ている船木誠勝に任せた。
そして2ヵ月後の2度目の東京ドーム大会のメインを、船木誠勝 vs ボクシング5階級制覇のシュガー・レイ・レナードと異種格闘技戦にするプランを立てた。
しかし会議に出ていた船木誠勝、鈴木みのる、宮戸優光らも神社長のやり方に疑問を持っていた。
UWFの役員でUWF長野後援会長の高橋蔦衛に第3者の立場にある弁護士を紹介してもらい、事情を話し、前田と会社、どっちが正しいのか聞くと
「会社側が不利」
といわれた。
3人は
「前田さんが間違っていないなら出場しないのはおかしい。
だったら『これが選手の気持ちです』と全員で前田さんを呼べばいい」
と意見が一致。
すぐに高田延彦に相談し
「おお、いい話だね」
と賛同を得て、そのまま4人は前田に
「松本に来てください」
と要請。
翌朝、6時、藤原喜明の家に押しかけて了解を得た。
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1990年12月1日、長野県、松本運動公園総合体育館のメインでウェイン・シャムロックに勝った船木誠勝はマイクを持ってリング上から
「前田さん!
リングに上がってきてください!」
とコール。
すると出場停止処分中の前田日明が登場。
他の選手もリングに上がり、姿をみせようとしなかった藤原も高田が呼ばれ、仕方なくリングに上がり、全選手が集合。
マイクを渡された前田は
「ご心配をおかけしまして申し訳ございません。
これからはさらに選手12人、一致団結して、本当の夢を追っていきたいと思います。
これからもUWFをよろしくお願いします」
と挨拶。
会場は熱狂し、リング際までファンが押し寄せた。
神新二社長は、このとき、控室にこもったままだった。
全選手、全観客、全メディアが引き上げた後、部屋を出て帰路につき、東京への車中で泣きながらUWFを辞めることを決意した。
その後、選手たちはUWF選手会を発足。
前田日明は会長に、宮戸優光 と船木誠勝が副会長になった。
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  • UWF信者 2023/1/7 19:06

    神社長は詫び状を持って行ってない!書いてもない!とご自身のブログで公言しておりますよ。また、鈴木専務の本でも私は詫び状なんか前田選手に持って行ってない!と、こちらも公言してますので、訂正した方がよろしいかと。

    それと神社長と鈴木専務の給料も100万だそうです。鈴木専務の本に書かれてますよ。

    つまり、あれもこれも前田選手の作り上げた話だったようですね。それを信じて嘘を書いてしまうと名誉毀損罪になりますからブログ主さんも要注意ですね。

    UWF信者 2023/1/7 18:50

    神社長は詫び状を持って行ってない!書いてもない!とご自身のブログで公言しておりますよ。また、鈴木専務の本でも私は詫び状なんか前田選手に持って行ってない!と、こちらも公言してますので、訂正した方がよろしいかと。
    それと神社長と鈴木専務の給料も100万だそうです。鈴木専務の本に書かれてますよ。
    つまり、あれもこれも前田選手の作り上げた話だったようですね。それを信じて嘘を書いてしまうと名誉毀損罪になりますからブログ主さんも要注意ですね。

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