2018年8月13日 更新
天才過ぎる!20代前半の荒井由実が他人に提供した名曲たち
今なお、音楽業界の第一線で活躍を続けるユーミンこと松任谷由実。もともと作曲家としてデビューした彼女は、「荒井由実」と名乗っていた70年代から、その才能を遺憾なく発揮し、数多くのアーティストへ楽曲提供を行ってきました、今回はその中でも特に有名な数曲を紹介していきます。
「いちご白書」をもう一度(バンバン) 1975年
もともとは作曲家として、わずか17歳でデビューしているユーミン。その後、音楽プロデューサー・村井邦彦の薦めでシンガーソングライターへ転身するも、あまりパッとせず、不遇の時代を過ごしていたといいます。そんなときに出会ったのが、彼女の才能を見抜いていたフォーク・グループ『バンバン』のフロントマン・ばんばひろふみでした。
ばんばはユーミンに楽曲製作を依頼し、題材は「学生運動」に決定。ユーミンはそのテーマを踏まえたうえで、自身が1970年に青山学院の学生と交際していた思い出を詞にしたためたのです。
就職が決まって髪を切ってきた時♪
もう若くないさと♪
君に言い訳したね♪
このように『いちご白書~」は歌詞の中で、長い髪を切る=学生運動に燃えていた青春時代の終わり=恋の終わりを示唆しています。2人が恋をしていた時に観た思い出の映画『いちご白書』(コロンビア大学で実際に起こった学園紛争について描いている)に、在りし日の思い出を投影させている甘く切ない同曲は、多くの人から熱烈に支持され、オリコンでは6週連続1位、累計売上枚数は75.1万枚の大ヒットを記録しました。
ばんばがナツメロ特集のテレビ番組で度々披露し、70年代のフォークソングを集めたコンピレーションアルバムにもかなりの高確率で収録されているこの曲は、学生運動世代に向けた歌という枠を超え、「永遠の青春ソング」として、今なお輝き続けています。
白いくつ下は似合わない(アグネス・チャン) 1975年
「おっかの上―♪ ひっなげしーのーはーなでー♪」のフレーズでお馴染みのアグネス・チャン。日本デビューを飾ったシングル『ひなげしの花』(1972年)以降も、『草原の輝き『小さな恋の物語』『ポケットいっぱいの秘密』などのヒット曲を立て続けにリリースし、また、たどたどしい日本語で愛嬌をふりまく、片言系外タレの走りとして70年代の芸能界で活躍しました。
そんな絶頂期にあったアグネスの楽曲も、ユーミンは担当。シングル『白いくつ下は似合わない』とそのB面にあたる『愛を告げて』の作詞・作曲をつとめています。
袋小路(太田裕美) 1975年
当時駆け出しのアイドルだった、太田裕美がリリースしたサードアルバム『心が風邪をひいた日』。同作には、後にシングルカットされて記録的大ヒットとなる『木綿のハンカチーフ』も第1曲目として収録されており、ユーミンが担当した『袋小路』はその次にあたる第2曲目に入っています。
この曲は、ユーミンのほか、作詞・松本隆、編曲・林哲司というひじょうに豪華なクリエイター陣によってつくられた楽曲であり、後に堤真一と柴咲コウが出演した2002年の映画『DRIVE』の挿入歌にも使用されていました。
ウィンクでさよなら(沢田研二) 1976年
『「いちご白書」をもう一度』が大ヒットした直後に、ユーミンは6枚目のシングル『あの日にかえりたい』をリリース。同曲はTBS系ドラマ『家庭の秘密』主題歌に採用されたこともあり、オリコン第1位を獲得。一躍、売れっ子シンガーソングライターとなります。
このヒットを受けて、翌年1976年。ユーミンは、沢田研二16枚目のシングル『ウィンクでさよなら』の作詞担当としてお呼びがかかります。既に、『勝手にしやがれ』『カサブランカ・ダンディ』など、数々のジュリー楽曲を手掛けた、作詞・阿久悠×作曲・大野克夫のゴールデンコンビが形成されつつあったのにも関わらず、そこに当時22歳のユーミンが割って入っているというだけで、相当、凄いことではないでしょうか。
ちなみに、『ウィンクでさよなら』のリリースから12年後の1989年にも、ユーミンはジュリーのアルバム『彼は眠れない』に『静かなまぼろし』という佳曲を提供しています。
まちぶせ(三木聖子) 1976年
昔、爆笑問題の太田光がラジオ番組で「ストーカーソング」といってネタにしていた『まちぶせ』。アレンジを担当した松任谷正隆も後に「ストーカーの歌ですよね」と語り、妻のつくった歌を弄っていました。
このユーミンが作詞・作曲をつとめたアイドル・三木聖子のデビュー・シングルは、オリコン週間ランキングで最高47位と振るわず、三木自身もその後、わずか1年余りであっさりと引退してしまいます。
まちぶせ(三木聖子)
同曲が注目を浴びたのは、石川ひとみのシングルとしてリリースされてから。石川はこれ以前まで10枚のシングルを発表するも、鳴かず飛ばずの時期が続き、「これがラストチャンス」という気持ちで歌唱したのだとか。その際、情念のようなものが曲に乗り移ったのか、楽曲はじわじわとチャートを上昇し、最終的にはオリコン最高6位のヒットを記録。その結果石川は紅白歌合戦への出場も果たし、感動の涙を流したのでした。
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