巨人と日本ハムの大型トレード
1975年オフの巨人と日本ハムの大型トレードは、巨人2名、日本ハム1名の交換トレードでした。対象者は次の通りです。
読売ジャイアンツ(2名) | 日本ハムファイターズ(1名) |
---|---|
高橋一三(投手) | 張本勲(外野手) |
富田勝(内野手) |
巨人→日本ハム(2名)
高橋一三
高橋一三は、巨人のV9時代を支えたエースの一人です。特に、1969年は22勝5敗、勝率.815で、最多勝利、最高勝率のタイトルを獲得。1973年には、自身最高の23勝を記録しています。いずれの年も、沢村賞、最優秀投手を併せて受賞しました。阪神には滅法強く、熾烈な優勝争いをした1973年でも、6勝2敗と圧倒。しかも、セ・リーグ優勝をかけた阪神とのシーズン最終戦では完封勝ちを収め、胴上げ投手となっています。しかし、1974年は2勝、1975年は6勝に終わり、その年のオフ、トレード要員となります。
日本ハムでの一年目は、二桁勝利を挙げるものの、10勝12敗と負け越し。その後も腰を痛め、なかなか結果が出ませんでした。ところが、移籍5年目の1980年に9勝を挙げて復活。1981年には14勝、防御率2.94(リーグ3位)を記録し、1962年の東映フライヤーズ時代以来、19年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献しました。日本シリーズでは古巣の巨人と対戦し、2試合に先発登板しています。
日本ハムでの一年目は、二桁勝利を挙げるものの、10勝12敗と負け越し。その後も腰を痛め、なかなか結果が出ませんでした。ところが、移籍5年目の1980年に9勝を挙げて復活。1981年には14勝、防御率2.94(リーグ3位)を記録し、1962年の東映フライヤーズ時代以来、19年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献しました。日本シリーズでは古巣の巨人と対戦し、2試合に先発登板しています。
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富田勝
富田勝は、法政大学時代、同期の田淵幸一、山本浩二と「法政三羽ガラス」と呼ばれ、1968年ドラフト1位で南海ホークスに入団します。1973年に、衰えの見える長嶋茂雄三塁手の後継として、読売ジャイアンツに移籍。移籍初年はわずか44試合の出場ながら、日本シリーズでは、怪我の長嶋に変わってフル出場し、古巣南海と戦いました。しかし、巨人では期待された成績は残せず、後にトレード要員となります。
日本ハムでは、移籍初年から活躍し、4年連続で規定打席に到達。しかも、1976年は打率.284でリーグ8位、.1977年は打率.307でリーグ6位、.1978年は打率.307でリーグ8位と、3年連続で打撃10傑に入る活躍を見せました。日本ハムには1980年まで在籍し、1981年に中日に移籍。その年引退しています。
日本ハムでは、移籍初年から活躍し、4年連続で規定打席に到達。しかも、1976年は打率.284でリーグ8位、.1977年は打率.307でリーグ6位、.1978年は打率.307でリーグ8位と、3年連続で打撃10傑に入る活躍を見せました。日本ハムには1980年まで在籍し、1981年に中日に移籍。その年引退しています。
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日本ハム→巨人(1名)
張本勲
張本勲は、長年、東映フライヤーズの大砲として活躍。"安打製造機"の異名を取り、7度の首位打者を獲得するなど、パ・リーグを代表する大打者でした。しかし、1973〜1974年に球団の身売り(東映→日拓→日本ハム)があり、さらには、大杉勝男、白仁天らがトレードで抜けるなど、チームはバラバラ。1975年オフ、張本は他球団への移籍を希望します。翌年から大沢啓二監督が就任予定でしたが、結局張本の気持ちを変えることはできず、日本ハムからの放出が決定。当初は阪神への移籍の予定でしたが、最終的には巨人に決定します。(因みに、大沢啓二監督とは、奇しくも後に、日曜日朝の某テレビ番組で、親分&張さんのコンビを組むことになります。)
1975年に球団史上初の最下位に終わった巨人の長嶋茂雄監督は、4番・王貞治の前に強打者が必要と考えていました。そこで、日本ハムから張本を獲得。長嶋監督念願の「3番・張本、4番・王」の "OH砲" が誕生します。
憧れの巨人に入団した張本。移籍初年の1976年からヒットを量産し、この年の首位打者争いに名を連ねます。7月末にはなんと、打率が.380まで上昇。最後は.355の高打率を記録するも、中日の谷沢にわずか "6糸" の差で敗れ2位に終わります。惜しくも首位打者を逃しますが、それ以上に、誰もが認める長嶋巨人初優勝の立役者となりました。翌1977年も打率.348で再び2位となり、V2に貢献しています。
1975年に球団史上初の最下位に終わった巨人の長嶋茂雄監督は、4番・王貞治の前に強打者が必要と考えていました。そこで、日本ハムから張本を獲得。長嶋監督念願の「3番・張本、4番・王」の "OH砲" が誕生します。
憧れの巨人に入団した張本。移籍初年の1976年からヒットを量産し、この年の首位打者争いに名を連ねます。7月末にはなんと、打率が.380まで上昇。最後は.355の高打率を記録するも、中日の谷沢にわずか "6糸" の差で敗れ2位に終わります。惜しくも首位打者を逃しますが、それ以上に、誰もが認める長嶋巨人初優勝の立役者となりました。翌1977年も打率.348で再び2位となり、V2に貢献しています。
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結局どっちがトクした!?
巨人は、3番張本、4番王のOH砲が機能し、1976〜1977年にV2を達成。張本は、いずれの年も首位打者争いを演じ、巨人の優勝に大いに貢献しました。日本ハムは、高橋一は最初の数年は結果が出なかったものの、1981年は14勝を挙げ優勝に貢献。一方、富田は打率10傑の常連となり、チームの躍進に大いに貢献しました。両球団とも、トレードは大成功だったと言えるでしょう。
次回は、1978年オフに行われた西武と阪神の大型トレードについて、ご紹介する予定です。
次回は、1978年オフに行われた西武と阪神の大型トレードについて、ご紹介する予定です。
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