THE BREAKERS (ザ・ブレイカーズ)
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新宿、原宿のライブ・ハウスを中心に活動し、ザ・コーツ、THE LONDON TIMES、ザ・シャムロックなどのバンドと共演し、モッズ族のヒーロー的存在として人気を集めていた。先駆者的に、原宿の歩行者天国でのバンド演奏を行っていた。
ちなみに当時のモッズ・ファンジン『HERE TODAY』vol.1(1983年秋号)で掲載されていた、当時の東京モッズが選んだフェイヴァリット・ソングのランキングで、1位、2位をブレイカーズが独占していました。1位は「アンダルシアに憧れて」で、2位は「さびたナイフ」。
メンバー紹介
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解散後、THE BLUE HEARTS(1985-1995)、↑THE HIGH-LOWS↓(1995-2005)で活動し、現在はザ・クロマニヨンズ(2006-)として活動中
ブレイカーズ解散後の85年、ホリー・バーバリアン名義で、ブルーハーツの前座で篠原とのコンビによりライブを行った。
1989年にソロで「アンダルシアに憧れて」をセルフカバー。
ちなみに、THE BLUE HEARTSでデビュー以降あまり髪形の変わらない真島であるが、THE BREAKERS時代の髪型はリーゼント(60年代のマージービートバンドの影響)やモヒカン(ザ・クラッシュのジョー・ストラマーの影響)など様々であり、アダ名も「マーシー」ではなく「マッシー」だった。
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ブレイカーズ解散後、1988年3月21日メルダックからソロデビュー。アルバムを2枚残す。
その後、1991年大槻、古川英俊と共にTHE BRICK'S TONEを結成し活動中。BMGビクターからアルバム2枚リリース。
自主制作アルバムもリリース。他にピノキオズ、ソロとしても活動中。
ピョンピョン跳ねながら演奏するスタイルは、一部のファンから「ダンシング篠原」と呼ばれている。
ブレイカーズ解散後の85年、ブルーハーツのオープニングアクトとして、真島と二人でホリー・バーバリアン名義でのライブを一度だけ行った。
真島のソロアルバムにベース、ギター、コーラス等で参加、ライブのサポートも個人またはTHE BRICK'S TONEで参加。
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解散後、真島のソロにバックで参加ののち、1991年篠原、古川英俊とともにTHE BRICK'S TONEを結成し活動中。
現在は東京都小平市花小金井で「ライブカフェ HYDE」を経営している。
サポートメンバー
・石井アキラ(いしい あきら) - ギター
元ピカピカ。杉浦脱退後にサポートメンバーとして参加。1985年ラストライブにも参加している。
・八木橋カンペー(やぎはし かんぺー) - キーボード
当時チェッカーズのサポートメンバーとして活動。ブレイカーズ後期のサポートメンバーとしてキーボードを担当した。
バンド経歴
真島が中学生のとき、同級生の杉浦と組んだバンドが前身。高校の頃からTHE BREAKERSとして活動を始めた。
当時は真島がベースを担当。中学が一緒だった大槻は一時的にドラムで参加していた。大槻の紹介で篠原がドラムとして加入(本来はベーシストであった)。その後、篠原の高校の後輩である蓬田をドラマーとして迎え入れ、ベースの担当が真島から篠原に替わり、真島はギター担当になり4人編成となる。蓬田が脱退することになり、旧知の仲であった大槻が参加した。
中学時代の真島と杉浦によるトリオバンドは、ラブ・ソングを中心に歌っていました。そして、初代ドラマーが意見の違いから脱退しています。(大槻の一時的なドラム参加は、その時だと思われるが詳しくは不明)
現メンバーが揃い、1983年には、ビクター系列のレコード会社・フィリップス・レコードよりメジャーデビューが決定しますが、所属事務所「りぼん」とレコード会社の間で、レコードイニシャルプレス数について折り合いがつかず、デビューが流れます。
デビューシングルとして発売予定だった「涙のCOOL DANCING/ダイヤルを廻すだけでいいのに」はプレス直前であり、業界向けサンプル版カセットテープなどは出回っていましたが、発売には到りませんでした。
そして、1984年2月に杉浦が脱退しました。その後は真島・篠原・大槻の3人で活動を継続していきますが、同年3月21日に白紙になったデビューシングルを自主制作で発表する話もありましたが、白紙になります。そして、1月25日、新宿JAM STUDIOのイベント「マーチ・オブ・ザ・モッズ」での演奏を最後にバンドは解散しました。
現メンバーが揃い、1983年には、ビクター系列のレコード会社・フィリップス・レコードよりメジャーデビューが決定しますが、所属事務所「りぼん」とレコード会社の間で、レコードイニシャルプレス数について折り合いがつかず、デビューが流れます。
デビューシングルとして発売予定だった「涙のCOOL DANCING/ダイヤルを廻すだけでいいのに」はプレス直前であり、業界向けサンプル版カセットテープなどは出回っていましたが、発売には到りませんでした。
そして、1984年2月に杉浦が脱退しました。その後は真島・篠原・大槻の3人で活動を継続していきますが、同年3月21日に白紙になったデビューシングルを自主制作で発表する話もありましたが、白紙になります。そして、1月25日、新宿JAM STUDIOのイベント「マーチ・オブ・ザ・モッズ」での演奏を最後にバンドは解散しました。
影響を受けたアーティストは、真島がブライアン・ジョーンズ、杉浦がビートルズ、篠原がジョン・レノンとJam、大槻がバディー・リッチという。