板東英二は中日のピッチャーなのかタレントなのか事業家なのか?
2021年5月27日 更新

板東英二は中日のピッチャーなのかタレントなのか事業家なのか?

板東英二、所得隠し問題で芸能活動を一時休止しましたが、タレントとして精力的に活動を続ける人物ですね。でも彼ってたしか元々中日のピッチャーだったはず、、、いまとなっては過去の話かもしれませんが板東英二のプロ野球選手時代から振り返ってみましょう。

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板東英二

タレントとしての色合いが強いか・・・

タレントとしての色合いが強いか・・・

板東英二(1940年4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手・野球解説者・タレント・司会者・俳優・実業家。愛称は板ちゃん。満州国(現在の中国東北部)虎林生まれ、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市)育ち。既婚、2女あり。
プロ野球選手としては、中日ドラゴンズに所属していた。タレントとしては、個人事務所のオフィスメイ・ワークに所属し社長も務めていた。
2014年1月16日からは、吉本興業(厳密には、子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属。

高校野球時代

高校野球時代をネタにすることはない

高校野球時代をネタにすることはない

1956年に徳島県立徳島商業高等学校へ入学。当時の練習は非常に厳しく(監督は須本憲一)、流感や台風による休校時も年中無休・23時頃まで行われていたほか、試合前には近くの高校で300球を投げ、試合直前のブルペンでも150球を投げていた。
延長18回を完投した翌日の再試合も300球の投げ込みを行ってから登板した。1年生時に第38回全国高等学校野球選手権大会へ控え投手として出場するも1回戦で敗退。
1957年夏の徳島県大会で徳島商業は徳島県立撫養高等学校(現・徳島県立鳴門第一高等学校)に敗れて全国高等学校野球選手権大会出場は叶わず、同年秋に板東は主将に命じられた。
1958年4月、春季四国地区高校野球大会が行われたが、板東は徳島のエースとして、対高知市立高知商業高等学校戦で16回、翌々日の対香川県立高松商業高等学校戦で25回を1人で投げ抜いた(この時の高松商業・石川陽造も25回を完投)。
この事態を重く見た日本高等学校野球連盟はこの年から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定する。準決勝戦・決勝戦合わせて41回を投げ抜いた板東の活躍は地方紙だけでなく全国紙でも報じられ、全国の高校野球のファンから注目を受けるようになる。
同1958年の第40回全国高等学校野球選手権大会に出場すると、対秋田市立秋田商業高等学校戦(17奪三振、相手は石戸四六)、対福岡県立八女高等学校戦(15奪三振)で勝利し、準々決勝に進出した。
準々決勝当日、右肩の痛みに苦しめられていた板東は体力に限界が来たのではないかと考えていた。準々決勝の対富山県立魚津高等学校戦は18回で25個の三振を奪うが、相手の村椿輝雄も譲らず、0対0のまま引き分け・翌日再試合となった。
この試合は18回引き分け再試合が適用された最初の試合である(詳細は魚津対徳島商延長18回引き分け再試合を参照)。延長18回を投げきった試合直後の記者会見の場では、集まった記者に対して開口一番「いやぁー、記者の皆さん、遅くまでどうもお疲れ様でした!」と発言し、記者は板東の驚異的なスタミナに唖然とした。
疲れはないかという記者からの質問に「少しも疲れていません」と返し、新聞は「不敵な笑みを浮かべる板東」と書き立て、板東の態度を生意気だと批判する人間もいた。
準々決勝の再試合では腰の痛みが再発したために麻酔注射を打って登板するが、3回頃から麻酔が切れる。結局、再試合では9奪三振で完投して勝利を収め、当時の大会記録64奪三振を更新する。準決勝で対作新学院高等学校戦(14奪三振)を制すが、決勝で対山口県立柳井高等学校に敗れた。この大会で83奪三振を記録。
高校時代に華やかな活躍をしたため、高校野球の歴史を扱う雑誌・著書・番組にたびたび登場するが、その実績には強い誇りを持っており、プロ野球時代の自分をお笑いのネタにすることは多いが、高校野球時代をネタにすることはほとんどない。

中日ドラゴンズ時代

現役時代からおしゃべり

現役時代からおしゃべり

1958年秋に慶應義塾大学のセレクションに合格するが、家庭の事情でプロ入りを決意する。1959年、中日ドラゴンズに入団。
2年目の1960年、オールスターゲームに監督推薦で選出され、第2戦(後楽園球場)でセントラル・リーグの4番手として登板。先頭は田宮謙次郎だったが、田宮のネームバリューに圧倒されたことから板東自らの意思で敬遠、小柄のカールトン半田(南海)に対しては、おちょくったつもりで甘い球を投げたところを痛打され、球宴史上初のランニング本塁打を献上、一死も取れずに降板。
現役時代の映像が少ない中で、打者として打席に立つ映像が残っているほか、辛うじて写真がベースボール・マガジン社の『週刊ベースボール』別冊に写っている。
板東は引退時の監督だった水原については著書で「巨人時代の水原さんは名将だったといわれるが、監督として優れたものは何一つなかった。あったのは頑固さだけだ」と語るなど(水原は明治生まれの野球人であった)尊敬できない人物としているが、自分の生き残る道を模索してくれた近藤貞雄には引退後も頭が上がらなかった。
右肘故障のため、現役時代は11年と短かった。板東によれば、右肘は高校時代から悪く、「肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。
1968年に右肘軟骨除去手術を受けるも、翌1969年限りで自由契約となり引退。現役引退については球団から板東自身に言い渡される前に新聞で見て知ったと著書で語っている。このときスカウト転身を勧められたが、自分に合わないとして断っている。
プロ11年間で77勝65敗の成績を残した。甲子園での投球過多で選手生命が縮まったと言われる事が多い。
現役時代の武器はフォークボール。入団当時の監督だった杉下茂に伝授された。板東は指が短く、習得には相当苦労したことを自著『プロ野球知らなきゃ損する』の中で記している。
ほかにシュート、スライダー、チェンジアップも投げたが、カーブは苦手だった。前述の1球勝利の際はこのカーブを試しで投げたところ、たまたま初球から打者が手を出してくれたためだという。ちなみに高校時代はナックルボールも投げていたとされるが、プロ入り後でナックルに関するエピソードは伝えられていない。
現役時代からしゃべりが得意なことでも知られ、同期入団でバッテリーを組んだ片岡(のちのヤクルトスワローズ編成部長)は著書で板東のあまりのおしゃべりで具合を悪くしたと回想している。

現役引退後の活動

商売好きな板東英二

商売好きな板東英二

1970年より中部日本放送(CBC)の野球解説者へ就任(1980年まで専属契約)。1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』の月曜パーソナリティを担当し、木曜パーソナリティ上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。
そしてこの年、この番組に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が『燃えよドラゴンズ!』を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。
未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。同曲は、現在では、準球団歌的な扱いとなっており、歌の中に選手名が織り込まれている事もあって、折々に新しいバージョンがリリースされている。
名古屋で野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。
タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送(MBS)の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった(MBS解説者としての活動開始は1984年)。活動が落ち着いてきた2000年代以降は他の解説者同様に出演するほか、2003年以降はニッポン放送とも契約し、達川光男(2009年まで)同様関東・関西をまたにかけ活躍していた。
のちにCBC野球解説者としての契約をシーズン途中で打ち切られた。ただし、CBCとの縁が切れたわけではなく、これ以降もプロ野球解説者ではなくタレントとして現在に至るまでテレビ・ラジオに出演を続けており、野球解説も本数契約で数回出演している。
日本で初めて野球帽、球団マスコット、ユニフォームパジャマを考案したとされる。

芸能人として

バラエティ番組を中心に精力的に活動

バラエティ番組を中心に精力的に活動

現役引退後は名古屋を中心に野球解説の他、タレント活動もしていたが、中日時代の後輩に中部日本放送の野球解説者を追い落とされて収入が無くなり、上岡龍太郎と上岡に紹介された横山ノックを頼って名古屋から一時関西を拠点中心にタレント活動を行う。東京進出で全国的に知名度が上がって以降、名古屋からの出演依頼が舞い込む様になった。
東京にも進出し、本格化していた芸能活動が落ち着いたかに見えた2000年代後半。星野仙一らとのゴルフから生まれた名言「勝ちたいんや!」に代わり「売れたいんや!」と、本人曰く「再ブレイク」すると宣言。
現役時代やゆで卵に関するエピソードらを引っ提げて2008年頃からテレビ出演が増えだし、再ブレイクを果たしていた。
ものまねタレントの大平シロー、コージー冨田、松村邦洋、かみじょうたけしなど多くの人にものまねされている。なかでも、かみじょうのものまねは板東本人が公認しているほどである。

交友範囲

幅広い交友関係

幅広い交友関係

プロ野球、芸能界の双方で一定の実績を残している板東は幅広い交友関係を持つ。プロ野球関係では王貞治、権藤博、星野仙一らと仲が良い。
10歳年下の和田アキ子にも「板ちゃん」と呼ばれている(和田は芸能人としては先輩)が、板東は和田を「アッコ」と呼んでいる。年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている。
黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』(TBS)で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。
島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し、躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え、紳助は意気に感じたという。その後、珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。
明石家さんまとも意外にも長年交流が深く、さんまが板東本人のものまねを披露したり、プライベートでよくゴルフを一緒にすることや「痛快!明石家電視台」「さんまのまんま」「恋のから騒ぎ」「踊る!さんま御殿」「さんまのSUPERからくりTV」「明石家マンション物語」「明石家ウケんねん物語」「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」など、数え切れないほどのレギュラー・単発特番含めさんまが司会の番組へスタジオ・VTR・ロケ問わずゲスト出演している。
2000年に元付き人で、自分の番組で共演もしていた桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦が逮捕されて未遂に終わった。

事業家として

多くのサイドビジネスを手掛けてきた

多くのサイドビジネスを手掛けてきた

中日への入団1年目から、いわゆる「サイドビジネス」を多々手掛けている。板東によれば、南海ホークスとのオープン戦で打席から杉浦忠の投球を目にした瞬間に、野球選手としての限界を悟ったことがきっかけになったという。
そのシーズン中には、関西圏での試合の際に宿泊していたホテル(神戸市東灘区の旧神戸商船大学キャンパス付近)のそばで営業していた牛乳店が廃業することを聞き付けたことから、当時牛乳業界にいた実兄を通じて営業権を取得。実兄に店舗の営業を任せていた(営業環境の悪化から後に廃業)。また、オフシーズンには、ジュークボックスの訪問営業を始めている。
語り草にするサウナ経営を始め、ナイトクラブ、麻雀荘、割烹料理店、株取引や通販事業などを手がける。事業によって成功・失敗は様々だが、ほとんどが失敗に終わっており、テレビやラジオでは失敗談を話のネタにしている。
中日入団時から現役引退後を見すえていたのか、現役時代から財テクに長けていたことでも知られている。1990年代前半のバブル崩壊に伴い、大きな経済的損失を出し、自身が還暦を迎えた頃にようやく借金が完済したと『クイズ!紳助くん』で打ち明ける。
1996年の『スーパークイズスペシャル』(日本テレビ)で「板東・板東・バブルで弾けた」とネタにされた(2008年にテレビ東京の『やりすぎコージー』でも語っている)。
1990年代から通販事業を開始。最初は通販番組に出演するだけだったが、その後自ら運営に携わるようになる。
『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ)における紳助の話では、『クイズ!!ひらめきパスワード』(毎日放送)の収録時、楽屋で紳助とラサール石井に「板東が書いた銀行の口座にお金を振り込め」と言われ、其々1000万円振り込んだ。
その2ヶ月後、板東が「お前らの銀行口座をメモに書け」と言って書いたら、それぞれ1000万円ずつ翌日には振り込んだ。紳助が板東に聞いたところ「投資に失敗して急に金が必要だった」と呆れたエピソードで暴露している。
大阪滞在時は「お前の店高いねん!」「ボッタクリやで!」と言いつつ、仲の良いリリアンの店に飲みに行き、カラオケ(2009年4月時点では吾亦紅)を練習している。

所得隠し問題が発覚するまでの活動

所得隠し騒動まで、とにかく精力的に活動していました

所得隠し騒動まで、とにかく精力的に活動していました

東京・名古屋・大阪で野球解説者やタレントとしての活動を幅広く展開していた関係で、名古屋市内で自宅を構えるほか、東京と大阪にも住居を構えている。
ただし、所属事務所およびサイドビジネスの拠点を大阪に置く一方で、家族は東京に住んでいる。奥さんは「神聖にして侵すべからずですから」と語り、名古屋の自宅に帰るのを嫌がっている。
所得隠し問題が発覚するまでは、東京・名古屋・大阪間を頻繁に往復。さらに、講演活動などで日本各地を飛び回るなど、多忙な生活を送っていた。
2010年2月に『関ジャニ∞のジャニ勉』(関西テレビ)にゲスト出演した際には「新幹線で1週間に東名阪を3往復している」「(仕事の調整のため)東名阪にそれぞれマネージャーがいる」と語っている。
また、ドラゴンズの投手として活躍した縁から、東海地方では2012年末まで長らくレギュラー番組を持っていた。特に、『そこが知りたい 特捜!板東リサーチ』(中部日本放送)では、毒舌ぶりを発揮しながら東海三県を渡り歩く様子が好評を博していた。
タレント活動と並行しながら、野球評論家・野球解説者としての活動も継続。2012年シーズンまで、ニッポン放送・MBSラジオの解説者(いずれも本数契約)とサンケイスポーツ専属の野球評論家を兼務していた。
プロ野球公式戦の解説・評論を担当する日には、多忙なスケジュールの合間を縫って、球場で早くから選手・監督や他の解説者を精力的に取材していた。ラジオ中継での解説はおおむね的確だが、試合展開によっては、「もうこんだけ負けてたら聞かんでも良いです!今日は寝ましょう!」「もう帰りたい」などのコメントを発することがあった。
さらに、上記の活動に加えて、通信販売の事業を手広く展開。「板東商店.com」(メイワーク運営)や「美味!ニッポン」(テレビ・プラス社との共同運営)などを手掛けていた。
テレビ大阪の番組と連動した「美味!ニッポン」では、この番組に関連したブログを執筆するなど、積極的な姿勢で取り組んでいた。また、ドラゴンズで板東の後輩に当たる甲子園優勝経験者の立浪和義は、板東の経営する会社にマネジメントを委託している。
ちなみに、2009年夏頃から、テレビ番組へ出演する際には黒ぶちのメガネを掛けていた。
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