Obituary : Ryozo Shibata

間違いなく、ひとつの時代が終わった──柴田良三とアルファ・キュービックの時代

また、昭和の巨きな星が一つ消えた。ラグビーを愛し、女性を愛し、そしてファッションを愛した柴田良三さん(以下、敬称略)が11月22日午前7時29分、愛するエミさん(笑子夫人)に看取られて74年余りの生涯を閉じた。
『JAPANESE DANDY Monochrome』(万来舎刊)より。(撮影:大川直人)
『JAPANESE DANDY Monochrome』(万来舎刊)より。(撮影:大川直人)

柴田良三は日本のファッション・ビジネス史の中で、一つの時代を画する大きな足跡を残した。後にピックアップ・マーチャンダイジングと呼ばれるようなスタイルやライセンス・ビジネス、そして新たなマーケティング手法など、多くのビジネス・モデルを日本に初めて導入したことでも知られる。それらのアイディアは、歩んできた道程で出会った多くの仲間や先輩たちとの交流から生まれたものだった。そして、そうした交流は、柴田がその魅力ゆえにいかに多くの人士に愛されてきたかを物語る。筆者は、柴田の生き方に多くを学んだ人間のひとりである。

キャンティ、そしてVAN

良く知られるように柴田良三は「キャンティ」世代である。それは彼の学友にキャンティのオーナーであった川添浩史・梶子夫妻の次男、光郎がいたからで、柴田は学生の頃から店に出入りしていた。当時の柴田には、そこに集う人々と場所の醸しだす雰囲気は映画の世界のようだった、と後に本人が語っている。そこで出会った人々との時間は柴田にとってかけがえのないものとなり、柴田に大きな影響を及ぼした。とりわけ川添夫妻は、柴田にとって最大の恩人であり、彼が最も慕った生き方のお手本だった。

左からキャンティ常連客の福澤幸雄、川添夫妻の子息、兄の象郎、弟の光郎。

川添夫妻を慕ったのは柴田だけではなかった。あらゆる分野の文化を先端で担っていた人たちが「キャンティ」の常連顧客となっていた。キャンティは華やかな社交場であり、サロンだった。柴田はそこで多くの“本物”を知る。“タンタン”と呼ばれる川添夫人の梶子からも様々なことを学んだ柴田は、ファッションにも興味を持ち始めていた。ラグビー漬けの大学卒業後に父親のコネで入った証券会社の仕事が面白くなく、ラグビーのつてで「VANヂャケット」に転職、これが直接的なファッションとの関わりの始まりとなった。

VANには石津謙介という、柴田にとって忘れることのできない素晴らしい人がいた。実際にVANで過ごしたのは3年ほどでしかなかったが、最高に充実した時間だった、と柴田は述懐したことがある。とはいえ、柴田はVANでは異端の存在だったらしく、かなり自由にVANとは関係のない仕事もしていた。メンズ・コレクションを始めたイヴ・サン=ローランに着目した柴田は、VANの手で日本に輸入したいと石津を口説き、ヨーロッパ出張を認めてもらった。石津も良くそれを許したと思うが、たんに許しただけでなく、現地に何のコネクションもない柴田のために商社のアテンドまで用意した。

イヴ・サン=ローランとタンタン(川添梶子)。キャンティにて。
イヴ・サン=ローラン

果たして柴田は、来日の際には必ずキャンティを訪れ、親交も深い川添夫妻の力を借りてサン=ローラン本人に直談判し、リヴ・ゴーシュ・オム(メンズのプレタポルテ・ラインである)は時期的に無理だったとはいえ、レディースのリヴ・ゴーシュの輸入契約に漕ぎ着けた。この話をまとめると、同行していたタンタンは柴田と、たまたまパリに滞在していた人気絶頂期の「タイガース」の加橋かつみを誘って、クルマでのヨーロッパ旅行に出る。それは柴田に本当のヨーロッパの文化を肌で感じさせるためだった。

VANヂャケットの仲間たちと。

サン=ローランとの契約をひっさげて帰国したのはよかったけれども、さすがにVANでは女性物を扱うことは出来なかった。とはいえ、ちょうど石津の知り合いが青山で1000坪の土地の活用法を思案しているタイミングだったという偶然もかさなり、話は川添を巻き込んでのサン=ローラン・ジャパンの設立へと向かっていた。そんな折に、しかし、川添は病で倒れ、この世を去ってしまう。柴田にとって最も尊敬し、慕う存在であった川添の死は、ひとつの試練だった。しかし、柴田はVANからの出向という形でサン=ローランの仕事を継続し、1970年4月、青山通りの外苑前にサン=ローラン リヴ・ゴーシュの店をオープンする。これが、恐らく日本では初めての、ブランド名を冠した路面ブティックであったと思う。

東京・青山のイヴ・サン=ローラン・ブティックにて。

夜12時まで開けていた店は瞬く間に話題となり、デザイナー、モデル、カメラマンなど、当時のクリエイティヴな人々がこぞって店に遊びに来るようになった。柴田はこうした動きを受けて、パリと掛け合い、一部の商品を日本でライセンス生産する許可を取り付ける。こうして比較的廉価なライセンス商品の生産がはじまり、それらは百貨店などで飛ぶように売れた。柴田は、サン=ローランにとどまらず、他のアイテムも独自に企画して売り出すようになる。それが「アルファ・キュービック」のはじまりである。

アルファ・キュービック創立の頃。
アルファ・キュービック

柴田はこの企画開発でサン=ローラン・ジャパンからは離れることになる。そうして設立した柴田の会社、アルファ・キュービックは、やがてサン=ローラン・オムと契約、ほかにもアルマーニなど柴田の眼鏡に適うヨーロッパのブランド製品を輸入するようになった。柴田が新しく立ち上げたこの会社の理念は、着ることに留まらず、食べ住まう生き方をライフスタイルとして提案することだった。柴田の理想とする女性像、そのライフスタイルを細かくイメージして、そうした女性をアルファ・キュービックの顧客として想定したマーケティングだった。

柴田が日本へ導入する、あるいは自製するブランドは数多かったが、そのなかの一つが、一世を風靡したレノマである。レノマの当時の広告とそのマーケティング手法は大きな話題になった。というのも、実際に商品を販売する3年も前から、世界屈指のファッション・フォトグラファーによる写真とロゴ・マークだけのポスターで名前を認知させ、それを受けて一気に市場導入をはかったからだ。柴田はほかにもさまざまな手法で独自のマーケティングを展開して、世間を驚かせた。また、文化事業や本人も愛するアート事業には惜しみなく援助の手を差し伸べ、支えてきた。

柴田良三という男

筆者が柴田良三と初めて会ったのは、アンカレッジ空港のトランジット・ラウンジでだった。まだヨーロッパへの直行便などない1980年代初頭のころである。筆者は自分でもアルファ・キュービックのブティックで買い物をするなどしていたから、柴田良三の名前は知ってはいた。ミラー・サングラス姿の柴田をよく覚えている。

それはたまたま、筆者が出版の世界に足を踏み入れたころだったのだが、以後、筆者は柴田と数度会うことになる。そうして意気投合し、当時のハイ・ファッション・ブランドの日本法人やインポーターとともに、筆者が発刊する予定だった新しい雑誌を支えてもらうことになった。その後、筆者が発行する雑誌は数年を経て休刊に追い込まれ、アルファ・キュービックも勢いを失して、お互いにそれぞれの会社をなくすることになる。結果、しばらくのあいだ柴田との交流は途絶えていたが、縁あってまた会う機会があり、かつてのように、柴田といろいろな話をするようになった。かつて筆者は柴田に多大なな迷惑を掛けていたにもかかわらず、柴田はいつもの優しい眼差し、温かい笑顔で筆者を自宅に迎えてくれた。柴田とはそういう男だった。

亡くなる1か月前に打ち合わせをした青山のウェストで。(撮影:河合正人)右は本稿の著者、石丸淳。柴田が応援した雑誌『STYLING』発行元代表。その後も写真撮影のディレクター、デザインやコンサルティング、PRなどを主に行う。

晩年の柴田は白血病と闘っていた。医者からは生きていることが不思議だとすら言われながら何度も復活して周囲を驚かせた。一つの時代を創った柴田だけに、死の直前まで数々の相談が持ち込まれていた。柴田は精力的に活動し、本人にもやりたいことが幾つもあり、筆者はその手伝いをしていた。いつも口癖のように言っていたのは、自分の若い頃には手本となる素晴らしい大人たちが身の回りにいたのに、今の若い人たちには尊敬できる大人がどこにもいないのではないか、という危惧だった。

柴田はそれゆえ、いまの日本の現役世代の人たちに、自分が生きてきた時代の文化を伝えなければならない、とつねづね考えていた。それが自分の仕事の最終章かもしれない、とも言っていた。今年、出版されて自身の姿もそこに収録されている『JAPANESE DANDY Monochrome」という写真集を、柴田はいたく気に入っていた。その本のプロデューサーとカメラマンと組んで、『未来への提言』という出版企画を進めていた矢先に、しかし、突然病状が悪化、帰らぬ人となってしまった。本当に残念でならないが、冥福を祈るとともに、柴田の遺志をどう引き継いでいくか、大きな課題を課せられた心境である。合掌。

石丸淳

1956年、東京生まれ。柴田が応援した雑誌『STYLING』発行元代表。その後も写真撮影のディレクター、デザインやコンサルティング、PRなどを主に行う。

文・石丸淳 写真・大川直人、河合正人、柴田良三(所有) 編集・岩田桂視(GQ)