めちゃくちゃ売れてるマネー誌「ダイヤモンドZAi」の単行本シリーズの著者、古川徹氏は独立系FPが保険相談に応じてくれるということで、今注目を集める保険相談サイト「保険マンモス」の社長だが、何と古川社長、学生時代は一世を風靡したあの伝説のロックバンド、「聖飢魔II」でドラムをたたいていたという異色の経歴の持ち主なのだ。

 一流ミュージシャンへの道を捨て、全く別世界である保険の世界に飛び込んだ古川社長が、9月16日フジテレビ放映の「転職DE天職」に出演したそうだ。

一見おかたい保険の情報サイトを立ち上げた敏腕社長の隠された意外な過去や、保険相談サイトを立ち上げるまでの紆余曲折を聞いた。

 まずはその前編をご覧いただこう。

就活直前にグループを脱退したワケ

――スーツ姿が決まっている現在のお姿からは想像もつかないですが、聖飢魔IIの三代目ドラマーとして活動していたそうですね。

 実はそうなんですよ(笑)。聖飢魔IIに入ったのは、世を忍ぶ仮の姿で大学3年の時(※古川氏は現在『人間』ですが、当時は『悪魔』でした)。ジャギ古川としてドラムをたたいていました。

写真もありますよ。

――今のお姿とのギャップがすごいですね。聖飢魔IIに入られたのはどういうきっかけだったんですか?

 もともと別のバンドでデーモン閣下の手伝いをしたことがあって、そのつながりで参加させてもらうことになったんです。ただ私自身はロックよりフュージョンやジャズの方が好きだったんで、閣下にも「こんなのは音楽じゃない」とか、若気の至りで随分生意気なことを言ってました(笑)。

――聖飢魔IIはデビュー後早くに有名になりましたよね。

 CBSソニーのオーディションに聖飢魔IIが合格して、それなりの広告費が投入されてデビューしましたから、売れるっていうのはある程度予測できたんですね。

デビューした当初から、日比谷の野外音楽堂や代々木のスポーツフェスなど、かなり大きな会場で黒ミサ(ライヴのようなもの)をやらせてもらえました。CDデビュー前でしたが、いい体験させてもらえて、ラッキーでしたよね。今でも感謝しています。

――その頃からプロのミュージシャンを目指していたんですか?

 プロを目指していたかといえば、間違いなく目指していましたね。ただし、活動中も「プロとして本当に通用するのか」と、いつも迷ってました。そもそもやりたかったのはジャズだったから、ロックバンドとしてパフォーマンスをすることにも迷いがあったんですよね。

ジャズは一般にスティックを回さないですけど、ロックだと回すことが必要な場面がありますよね(笑)。

 でも、デーモン閣下と一緒にやれたのはいい経験でしたね。聖飢魔IIって、1つの黒ミサが完成されたエンターティンメントショーになっているんですよ。曲の紹介もちゃんとストーリー仕立てになっていて、説明しながら観客の笑いも取れる。それでバシッと演奏が始まって、みたいなね。私が言うのはなんですが、閣下はすごくクレバーで、才能がある人だと思います。

――そんな聖飢魔IIを数カ月で辞められたのは、どういう理由からだったんですか?

 やっぱり自分の音楽の才能に迷いがあったからです。努力を継続することには一定の自信がありましたが、音楽そのものの才能には正直自信が持てなかった。自分が「自分の才能を信じてやることができない」とやれないですよね。短い期間でしたが、聖飢魔IIでの活動の中で、自分が尊敬するようなプレーヤーのステージや練習する姿をみることが出来たことは大きいですね。一流の方は、「音楽の才能+とてつもない努力」、でできていると認識しましたね。一流の方との違いを思い知ったときに、自分のレベルを客観的に判断することができしっかりと「けり」がつきました。

ちょうど就活にもギリギリの時期だったので、世を忍ぶ仮の大学4年の10月に辞めました。。

人にはサランラップより保険が必要だ

――『人間』となり、就活を経て、旭化成に就職されたんですよね。かなり固い会社を選ばれた印象ですが、なぜ旭化成だったんですか?

 ロックバンドをやっていた反動なのか、就活は徹底して安定しようという戦略だったんです(笑)。当時は事業を多角化している会社が比較的安定していたんですよね。企業の方も「大学の成績というよりも、なんか集中したことがある奴なら、ポテンシャルあるんじゃないの」ということで採用してくれて、すごくラッキーな時代だったなと思います。

 旭化成では、サランラップを販売する営業をやらせてもらってました。ブランド力があるうえ、トップシェアの商品なので、営業も比較的やりやすかったと思います。結構頑張って、自分でいうのもなんですけど、それなりに売れている営業マンだったと思います。

――10年旭化成に勤めた後、辞められていますが、辞めようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

 営業成績も悪くなかったし、会社にもある程度大事にしてもらっていた感はあったんですけど、だんだん自分の将来像が見えなくなっていったんですよね。このまま頑張っていけばそれなりに中間管理職にはつけるかもしれないけど、その先はどうなのかな…みたいな。そんな漠然とした不安を持っていたとき、ちょうどソニー生命から営業をやらないかとお声掛けいただいたんです。

――ソニー生命はフルコミッション(完全歩合給)制ですよね。安定した会社員生活を捨ててソニー生命を選んだポイントはどこにあったんでしょうか

 大前提としてマーケットに将来性を感じたのが大きな理由ですね。当時日本の生命保険マーケットでは、プロのFPが自分でも加入し、だからこそ顧客にも勧めるような保険商品は、マス広告があまりなされておらず知名度も低いのが実態でした。それに対してソニー生命が、米国大手生保であるプルデンシャル生命の商品を導入して、しかもコンサルティングを主体とした営業手法でやっていくという話なので、これは可能性があるなと。

 しかも給与はフルコミッション制なのでプロセールスの世界なのです。厳しい世界ですが、自分のビジネスマンとしての実力を測るには良いな、チャレンジしてみようとなったのです。

 でも実際に移るまで、3カ月くらい徹底的にソニー生命について調査しましたよ。本を読んだり、本社の人に会って話を聞いたり。名の知れた保険ジャーナリストにも会ったんですけど、その人からは真剣にやめた方がいいと言われました(笑)。

――それでもソニー生命を選んだわけですね。

 僕の人生の中では、この決断が一番難しかったですね(笑)。当時は転職は一般的ではなく旭化成を辞める人は本当に少なかったですし、会社員からフルコミッションになるわけですから。

 でもサランラップって人とか人生への関わりの度合いが薄いじゃないですか。サランラップがなくなっても生きていくうえで決定的に困る人はあんまりいない (笑)。でも保険はないと家族が困るんですよ。万一のことがあったときにプロにリスク測定された保障がないと、困る遺族の方がいっぱいいらっしゃる。そこにやりがいを感じて、保険業界に飛び込むことになりました。

 ロックミュージシャンから旭化成の営業マンへ。そこから新たに保険業界に飛び込んだ古川社長。次回はソニー生命時代の活躍から、保険相談サイトを立ち上げ、社長になるまでのエピソードを紹介したい。(後編はコチラから)