清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督4 「荒ぶる」
2017年2月20日 更新

清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督4 「荒ぶる」

2003年度、全日本大学選手権決勝で、関東学院にリベンジを許し、王座から引きずり降ろされた早稲田大学ラグビー部は、2004年度、大学日本一を取り返すことを誓った。「荒ぶる」は復活なるか?

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2004 ULTIMATE CRASH

諸岡省吾

諸岡省吾

清宮克幸は、「次の主将は、普段から黙々と練習をこなし、努力でレギュラーを勝ち取ったお前のようなタイプがいい」と、2004年シーズンの主将に、諸岡省吾を指名した。
諸岡は決してスター選手ではなかったが、責任感が強く、背中でチームを引っ張るタイプだった。
諸岡は思わぬキャプテン指名に驚愕した。
まさか自分が主将になるとは思っていなかった。
諸岡は、大学選手権決勝で負けた悔しさ、清宮が目に焼きつけておけといった関東学院の喜ぶ姿をしっかりと心に残していた。
そして関東学院を見返すにはどうすればいいかを考え、1人1人が1日1日勝負して部内で激しい競争をするという答えに行き着いた。
そして日々勝負して必ず大学日本一を取り返すことを誓った。
2004年3月27日、 上井草で2004年度ファーストミーティングが行われた。
「過去3年を超えるチームになろう。」
清宮は前年度の課題とその対策をきめ細かくレクチャーし、2004年度の方向性を具体的に示した。
チームスローガンは「ULTIMATE CRUSH」
2時間超のミーティングで全員意を新たにした。
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そして日々、地道なトレーニングが反復された。
フィットネス、ウェイト、ハンドリング、ボール継続、・・・
これでもかとスキルアップトレーニングが繰り返された。

ジョニー・ウィルキンソンと五郎丸

ジョニー・ウィルキンソン ドロップゴール Jonny Wilkinson drop goal

2004年7月8日、ジョニー・ウィルキンソンが、アディダス主催のアジアツアーの一環として来日し、上井草グラウンドでキッククリニックを開催した。
ジョニー・ウィルキンソンは、ラグビー強豪国のイングランドで、実力とルックスの双方を持ち合わせたスーパーエース。
177cm、86kgと小柄ながら、強力なタックルとワールドクラスのキックを武器に得点を重ね、勝利に貢献する。
そのキックは右・左どちらからでもOKで対戦相手にとっては脅威である。

五郎丸 ポーズ

2015年、ラグビーワールドカップ、イングランド大会で、日本代表の五郎丸歩(早稲田大学ラグビー部出身)が、キックを蹴る前に両手を合わせ指を立てる独特のポーズが注目された。
これはジョニー・ウィルキンソンを参考にしたものである。

夏は20%アップ

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2004年8月、今年の夏合宿は、早稲田ラグビーの後援者からのプレハブを寄付してもらい、それを菅平のグランドの一角に設置した。
そして上井草からトレーニング機材を10t車で運搬し、現地で選手たちがセッティングし、即席のストレングスルームを設営した。
連日、通常の練習をこなした上に、このスペースを利用しトレーニングし、さらに体をいじめた。
これにより夏の合宿の成果が飛躍的に上がった。
かつては合宿ではウエイトトレーニングができなかったため、体を一回り小さくして東京に戻っていたが、今度は逆に夏合宿中に20%くらい体を大きくできるようになった。

初対決から52年、12度目のチャレンジで初めてオックスフォード大にWin

大きなストライドでゲインする五郎丸歩

大きなストライドでゲインする五郎丸歩

初対決から52年、12度目のチャレンジで初めて、早稲田大学ラグビー部はオックスフォード大に勝った。
この試合は、『奥克彦メモリアルマッチ』と銘打たれ、
「頼む、勝たせてくれ。奥さんの墓前に報告に行くことになっているんだ。」
と清宮は選手にいった。
前半は10対9。
「お前ら、やりたいことができずに1点差だぞ。
いけるだろ。」
後半3分、ペナルティーゴールで点差を広げる。
6分、伊藤雄大の強烈プッシュから継いで会心のトライ。
奥への思いを爆発させるような一気の仕掛けで悲願の初勝利を手繰り寄せた。
52年前の初対決は、アウェーでドロップゴールを決められ逆転負け。
2年前の上井草オープニングマッチではドロー。
そして53年目、12度目のチャレンジでついに25対9。
またひとつワセダラグビーの歴史を塗りかえた。
その後も早稲田大学ラグビー部は、関東大学対抗戦を勝ち進んだ。
2004年9月25日、早稲田 vs 立教、92-0。
2004年10月3日、早稲田 vs 青山学院大、79-0。
2004年10月10日、早稲田 vs 日体大、88-3。
2004年10月30日、早稲田 vs 筑波大、66-13。

トップリーグへ出稽古

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2004年11月2日、早稲田大学ラグビー部は東芝府中ブレイブルーパスへの出稽古した。
トップリーグとの練習は今季初だった。
フォワードとバックスに分かれて練習し、バックスは早稲田バックスvs東芝バックスのモール練習、フォワードは早稲田フォワードvs東芝フォワードのスクラム練習。
早稲田はとにかくトップチームの大きさ、重さには苦しんだ。

東芝ラグビー部PV「RED Wave」

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