フィンガー5  人気絶頂期と5人兄妹の現在!今だから話せる衝撃の事実も。。。
2021年10月17日 更新

フィンガー5 人気絶頂期と5人兄妹の現在!今だから話せる衝撃の事実も。。。

沖縄出身の5人兄妹「フィンガー5」を覚えていますか?中でも当時 小学生だった晃と妙子の人気は凄く一大ブームを巻き起こしました。あの5人兄妹は今 どうしてる? 活動期間は1972年から1978年と短かったのですが人気絶頂期をヒット曲と共に振り返り、当時の裏話もご紹介しています。

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1975年8月 一家でアメリカへ・・・そして1978年 解散

<独占詳報>
■デビューして1年半、人気絶頂なのに…
フィンガー5が突然解散!
アメリカへ留学
こんな報道がされ、人気絶頂期に日本を離れる事への色々な憶測が飛び交いました。

先ず考えられるのは、「晃(13歳)の声帯の変化」 少年だった晃も声変わりの時期を迎え「フィンガー5」の人気を支える晃のハイトーンボイスが出なくなってきたので、イメージチェンジの為に渡米する。

他には、契約が切れる所属事務所からの独立問題や金銭問題。又、兄妹が大きくなり「それぞれが自分のやりたいことを考えはじめた」のも理由の一つと言われています。

2年で1億3000万円を稼いだといわれた「フィンガー5」永住も視野に入れ「世界のフィンガー5」になる為の日本脱出とも噂されましたが、渡米直前のコンサートでは帰ってくる事を約束しています。
1975年8月9日 東京・中野サンプラザ・ホール
2000人余のファンが熱狂し泣きじゃくった。

「ほんとに、アメリカに行ってしまうの」
「はい」
「日本に帰ってくるんでしょうね」
「ええ、もちろんです。来年2月に帰る予定です」

ファンが一番気になることを司会者が聞き、一夫がはっきりと答えています。
又、終盤には、
「どうぞ、ぼくたちが帰ってくるまで、みなさん待っていてください。アメリカでもっといい音楽をつくるため、ぼくらは精一杯勉強してきます」と、一夫が語っています。
アメリカでは、ハリウッドで本場のショーを見学したり音楽とダンスを本格的にレッスンし10月 アメリカの芸能ユニオンに加盟。
仕事があればアメリカで活動する予定だったようですが、思ったように活動できませんでした。

これまでマネージャーも兼任していた一夫がマネージャーに専念するため脱退し、単身帰国。
中野サンプラザでのコンサートでデビューしていた甥の”具志堅実”(当時8歳)が加入。

アメリカ滞在中の1975年11月に「帰ってくるよ」をリリースしたものの、目立った活躍がないまま一家は翌76年2月9日に帰国。

帰国第1弾の新曲「ジェット・マシーン」はブラックミュージック路線を意識したものでしたが、晃のハイトーンボイスが以前のように出ない事、ファンの求めるものとのギャップ、そして何より日本を留守にしていた空白期間を埋められず、人気が低迷してしまいます。

Jet Machine Finger 5

後に晃から語られたのは、
「どうすれば売れるかは分かっていたがそれは自分たちがやりたくないことであり、割り切って自分たちのやりたいことをやろうとしたら売れなくなった。」
という事です。
メインボーカルに妙子を据え、本来のバンドとしての姿に戻りメンバー自らの演奏を前面に出すなど試行錯誤したのですが人気は回復せず、1978年6月リリースの「悩ませないで」を最後に解散となります。
いつの時代もどのアーティストにも、自分達のやりたい音楽とファンの求めるもののギャップがあるのですね。

活動期間は短かった「フィンガー5」ですが、沖縄出身・沖縄アクターズスクール出身のアーティストが音楽シーンを席巻していた90年代よりずいぶん前に、沖縄から人気グループが出ていた事になります。
こうしてみると、沖縄と音楽・ダンスは運命共同体のような(ちょっと大げさ・・・笑)アメリカの占領下にあった時代の影響もあるのでしょうか。

沖縄に惹かれ「沖縄アクターズスクール」を立ち上げた" 牧野正幸"さんによると、「沖縄の子は眼が面白い。眼が違う。」そうです。

そして、もうお一方 沖縄からのアイドルと言えば・・・

フィンガー5 人気絶頂期のあれこれ・・・今だから語れる

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■沖縄→東京→アメリカ 一族総出の大移動

沖縄からデビューを夢みて上京した5人兄妹ですが、沖縄や奄美大島に住む叔父、従兄弟、甥など親戚も含め総勢15人で同居していたという話です。
都心で当時 家賃30万円の物件に住んでいたそうですが、5人の兄妹で皆を養っていたのでしょうか?

アメリカへも15人総出で飛び立っていて、「2年間の稼ぎは全てアメリカ行きで消えた。」と噂されていました。

■小6の晃に「俺はビッグになるから」と予告していた矢沢永吉(当時 キャロル)

「フィンガー5」と当時の「キャロル」は担当ディレクターが同じだった為 レコーディングが隣り合わせの事が多く、交流があったそうです。
ちょっと想像できませんが、お互いにお互いの前座をやってコンサートも一緒にやる仲だったという事です。
ファン層は全然違うでしょうね~方やバリバリのリーゼントでハーレーに乗って、もう片方は子供(笑)
何だかピリピリした雰囲気かと思いきや、みんな優しかったそうです。

中でも予想通り(笑)”矢沢永吉”さんの個性は強烈だったと。

楽屋でウリ型のベースを持って、「晃、ちょっといいか。これでひともうけして、俺はビッグになるから」と、まだ子供の晃に真面目な顔で語られたそうです。

まさに有言実行の”矢沢永吉”さんですね。
やっぱり、カッコイイです。
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