懐かしのファミスタでも大活躍した【石嶺和彦】の野球人生とは
2016年11月25日 更新

懐かしのファミスタでも大活躍した【石嶺和彦】の野球人生とは

爆発力満載の阪急打線に、あのブルーサンダー打線を引っ張ってきた石嶺和彦。関西の大砲は指名打者で大活躍した選手でした。ファミスタでも、石嶺禁止だったほどです。そんな石嶺和彦の現役時代と今を振り返ります。

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ブレーブスの重量打線を担った沖縄の大砲!石嶺和彦

石嶺和彦(いしみね かずひこ)

石嶺和彦(いしみね かずひこ)

1961年1月10日生まれ
身長175cm、体重80kg
右投げ右打ち
ポジション:外野手、捕手

阪急時代、オリックス時代と重量級打線の1角を担ってきたスター選手。関西に根付き、ホームランを量産してきた大砲。ブーマーと共に、関西を盛り上げてきた一人である。

石嶺和彦の獲得タイトル・主な表彰と記録

打点王:1回 (1990年)

ベストナイン:3回 (1986年、1987年、1990年)
月間MVP:2回 (1987年6月、1991年7月)

オールスターゲーム出場:4回 (1986年、1987年、1990年、1991年)
6試合連続本塁打(1987年9月2日 - 9月10日)
シーズン代打本塁打6本(1985年)
56試合連続出塁(1986年4月29日 - 7月25日)
894試合連続出場(1988年8月15日 - 1995年7月12日 ) ※当時史上5位

石嶺和彦のプレースタイルは・・・

野球理論にこだわりを持ち、体型や筋力に応じての理想のバッティングホームがあると考え、一番振りやすいフォームが最高の形としている。

内角打ちに定評があり、長打力や、チャンスに強く、特に体の回転が非常に上手い選手である。プロでやっていくには、得手不得手に関わらず、投げてきたボールに対応する能力が重要だと考え、常に、相手投手の持ち味や、配球を考えて打席に立っていた。

指名打者として、試合に出場するようになってからの成績を見てもわかるように、打撃への集中力は半端ではない選手である。
内角打ちの名選手。小さな大砲

内角打ちの名選手。小さな大砲

小さな体で、強い打球にこだわり続けたスラッガー。チャンスにも強く、6試合連続本塁打や、代打で放った本塁打が6本と素晴らしい集中力の持ち主である。門田と同様に指名打者と関西のスラッガーを代表した選手である。

石嶺和彦の生い立ちからプロに入るまでの軌跡

沖縄県那覇市出身。小学校5年の時に、那覇カープという少年野球チームで本格的に野球を始めた[1]。投球動作がコンパクトだったため捕手として起用されたが、投手に憧れていたという[1]。小学校6年の時にチームは沖縄県大会で準優勝し、石嶺も捕手として注目されるようになった。
豊見城高校では栽弘義監督のもとで猛練習を積み、1977年には下地勝治をエースとして擁するチームで2年生ながら四番打者を務め[2]、選抜大会に出場した。同大会では優勝した箕島高校と2回戦で対戦し、0対10で敗れている。夏の選手権ではベスト8まで進んだものの、松本正志や宮本賢治を擁する東洋大姫路に3対8で敗れた。
3年の春の選抜大会は1回戦で敗れたものの、夏の選手権では和田豊を擁する我孫子高校を初戦で延長の末に破ると再びベスト8に進出。石嶺自身は甲子園初の本塁打を放つも、岡山東商に5対6で惜敗した。大会後はスカウトが自宅を訪れるようになり、最終的にはヤクルトを除く11球団のスカウトが来たという[3]。一方で、試合中の死球が原因で高校時代から左ひざ半月板がたまにズレるようになっていた[3]。
結局、1978年のドラフト会議では阪急ブレーブスと広島東洋カープから2位で指名され、抽選により阪急に交渉権が与えられた。しかし栽は早くから社会人野球のプリンスホテルへ入ることを勧めており、また石嶺自身や両親は東芝か日本石油に進んでヒザを治療することを希望していた[4]。栽の希望を無碍にできないため進路はなかなか決まらなかったが、沖縄県出身の砂川恵玄が栽を説得した事もあって12月に阪急入りが決まっている[4]。契約金および年俸はそれぞれ2,500万円、240万円(いずれも推定)で、同年の高卒選手では最高の金額だった[4]。
高校時代の石嶺和彦

高校時代の石嶺和彦

身体の小さかった石嶺和彦が猛特訓したプロ時代

決して、大きくはない体格で、阪急ブレーブスに入団した石嶺和彦。当時は、蓑田や福本がおり、自分の打球が貧弱すぎると苦悩があったそうです。そんな本人の悩みはよそに、二軍リーグで3割を超す打撃センスを光らせ、周囲の期待を募らせたが、捕手で入団した石嶺和彦になかなか、一軍への切符は回ってこなかった。
しかし、膝の故障に悩まされ、二軍で活躍する石嶺だったが、3年目にはパンチ力の打撃が買われ、当時はなかなかいない5番捕手として、開幕一軍入りを果たし、36試合出場。15試合はマスクをかぶり捕手としてブレーブスの女房役になっていました。

それから、徐々に一軍でマスクをかぶる頻度が増えていき、打撃の成績も残していくのだが、出場の機会が増えるとともに、爆弾である左ひざの負担も増えることとなり、シーズンの夏には歩けなくなるほどまでになってしまい、一軍捕手の座を明け渡してしまいます。
阪急ブレーブス時代の石嶺和彦

阪急ブレーブス時代の石嶺和彦

リハビリからの復帰後の1984年のシーズンに外野手に転向した石嶺和彦は、翌1985年から代打、指名打者として起用され、打撃に集中したことから、一軍で初めて3割を超える成績を残し、指名打者として名を馳せることとなります。1986年には、3割、30本、90打点越えを果たし、名実とともに打撃職人へとなりました。

守りも余儀なくされたオリックス時代の石嶺和彦

オリックス・ブルーウェーブ時代の石嶺和彦

オリックス・ブルーウェーブ時代の石嶺和彦

オリックス・ブルーウェーブとなり、新たな野球人生がはじまろうとした矢先、41歳の大ベテラン、門田博光がブルーウェーブに加わることとなった。お互い、パ・リーグを代表する指名打者だったゆえ、お互いが相手を気遣い、守備をすることを決めて、シーズンに臨みました。

重量級のブルーサンダー打線の中で、守備を意識したことで体重を10kg落とし、一年を過ごした結果、本塁打、打点共に、チームで4位の成績でシーズンを終わりました。

オリックス時代は、安定して、本塁打、打点を増やしていき、史上3人目のFA権を行使し、阪神タイガースに移籍しました。

引退後、持ち味の打撃理論を生かし、後輩の指導者へ

移籍当初には、打率は低いものの、打点はチーム1位、本塁打も10年連続二けた本塁打を記録し、順風万凡に見えたが、年齢にはかなわず、2年後の1996年に現役選手を引退することとなりました。
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