極真分裂.03 他流試合
2020年11月4日 更新

極真分裂.03 他流試合

大山倍達没後、2年目。一見、クールだが一番ガンコな松井章圭 vs 不屈の男、三瓶啓二。

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第6回 極真カラテ世界大会 決勝戦「八巻 建志 vs 数見 肇」(1995年11月5日)

「ゼッケン21番、八巻建志、ニッポン」
場内アナウンスが鳴った。
「オッシャ!」
八巻建志は気合を入れて試合場に上がり強く拳を握った。
(ケガを恐れる必要なない。
力の限り叩きこんでやる)
数見肇は静かな表情でスクッと立っていた。
八巻建志、187cm103kg。
数見肇、180cm97kg。
2人とも筋肉の鎧をまとっていた。
礼が終わり、主審の「ハジメッ」を待っているとき八巻建志が軽く頷いた。
すると数見肇も頷いた。
本戦終盤、数見肇の左中段前蹴りを八巻建志は左腕で蹴り足をなぎ払い右フックをボディに打ち込んだ。
「ウッ」
数見肇がガクッと落ちた。
それでも正拳連打、前蹴りと反撃に転じた。
だが明らかにそのスピード・威力は落ちている。
八巻建志は構わず前に出て、前蹴り、下段回し蹴り、ボディに下突き。
数見肇は前蹴りで応戦。
八巻建志は再びそれを左腕で払い数見肇の左脇腹に全体重を乗せた強烈な右フックを打ち込んだ。
数見肇の動きが止まった。
八巻建志は前蹴り、右下段回し蹴り、正拳連打、そして再度、右下段回し蹴りと一気に攻め立てた。
容赦ない攻撃を受け、数見肇は苦悶の表情でたまらず後退。
そして本戦終了を告げる太鼓が鳴った。
八巻建志が本戦で3-0で勝ち、世界の頂点に立った。
第6回世界大会は、最終日に12000人、3日間で合計24000人の入場者数を記録し、大成功に終わった。
1995年11月6日、大会翌日、メトロポリタンホテルで全国紙部長会議が行われ、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄は支部長らの労をねぎらった。
そして大山派から復帰した数名の支部長を発表。
彼らはこれまでの経緯と今後の決意を述べた。
 (2233490)

数日後、廣重毅は城南支部を「中立」から完全に「松井派」に所属することを決めた。
中立といいながらも一部の分支部長や指導員たちは公然と支部長協議派として活動を行っていた。
1995年11月中旬、城南支部蓮田道場に分支部長、指導員、選手クラスの黒帯を集め、
「私は松井派に行くことを決めました」
と自分の思いを告げた。
そして迷う人間もいるだろうと
「1週間後に各自の結論を出してくれ」
といった。
すると八巻建志、岩崎達也、数見肇、塚本徳臣らがすぐに
「自分は師範についていきます」
といった。
1週間後、
「みんな決めたか?」
廣重毅が聞くと
「押忍。
自分は師範の『死ぬとき後悔しないために支部長達とこの道を選んだ』という言葉を胸にまっしぐらに今日まで進んでまいりました。
自分は今でもそれが本音であると信じています。
自分は今後、支部長方と自分が信じた道を行きたいと思います。
師範の城南支部に負けないような強い道場、強い選手を育てるため頑張っていきます。
長い間お世話になりました。
押忍」
入来武久、木波利紀らは一礼して去った。
廣重毅はうなずいただけで黙って見送った。
「自分は師範についていきます。
でも世界大会には出させてください。
大会が終わったら必ず戻ります」
大山派の世界大会へ出場が決まっていた塚本徳臣はそういった。
 (2233251)

1995年11月24日、大山派が世界大会に向けて強化合宿を行った。
日本代表は
松井派の全日本大会でベスト8に入った5名
大山派の全日本ウエイト制大会で入賞した5名
支部長推薦で選ばれた6名
の16名が選ばれた。
遺族派の大会の入賞者は選ばれなかった。
1996年1月11日、松井章圭を総本部から追い出すことをあきらめた大山派が東京都新宿の小川町に「国際武道センター」を設立。
西田幸夫、三瓶啓二ら30数名で道場開きと初稽古を行った。
大山智弥子館長も、高木薫ら遺族派は1人も参加していなかった。
1996年1月27、28日、大山派が第6回世界大会を開催。
大山智弥子館長は着物を着て出席していたが、高木薫ら遺族派の姿はなかった。
「協力してほしいといわれました。
世界大会で審判をしてほしい、チケットを買ってほしい、新しくつくった道着を買ってほしいと。
審判はできないけれど大山智弥子館長を囲んで大会に行く形なら参加できると連絡しましたが、調整の中で一緒にやろうという気持ちは感じられませんした」
(高木薫)
数見肇は会場で、城南支部の塚本徳臣や川原穂樹を応援。
塚本徳臣が「マッハ蹴り」で、史上最年少、初出場初優勝を果たし、城南支部が松井派、大山派の2つの世界大会でチャンピオンとなった。
優勝インタビューで
「誰に優勝の喜びを伝えたいですか?」
と聞かれ
「師範に・・・」
と答えた。
その後、大山派は、6月に第13回全日本ウエイト制大会、8月に第1回全日本女子大会、第2回全日本ジュニア大会、10月に第28回全日本大会を行うと発表。
「世界大会には大会が終わったら必ず戻ります」
塚本徳臣は廣重毅にそういっていたが、緑健児は許さなかった。
こうして廣重毅、八巻建志、岩崎達也、数見肇らは松井派、緑健児、塚本徳臣たちは大山派(支部長協議会派)、城南支部は完全に分裂してしまった。

 (2233462)

1996年、支部長協議会派との和解を断念した後、数で負けていた松井派は、分裂前に分支部長や指導員だった者を支部長に抜擢し、支部長協議会派の代表、西田幸夫と副代表の三瓶啓二のテリトリーをはじめ全国に送り出し新支部を設立させた。
支部長協議会派は遺族派と合流して大山派となったが、松井派は支部数で勝った。
松井章圭はさらに改革を進め、分裂の引き金となった「会員制度」を導入した。
支部は、入門者のすべての道場生と入門者をコンピューター登録。
総本部と支部のコンピューターはオンラインで結ばれ、情報を共有。
登録された道場生は、年会費と月会費を払い、写真つき会員証カードや、会報、グッズの割引販売、再入門時の入会費の免除などのサービスなどを受けられる。
年会費は、総本部が100%徴収。
月会費は、総本部が一括回収し、数%を徴収した後に各支部に戻される。
これにより運営資金、会員数や会員の情報を確保した。
黒澤浩樹は、実家の駐車場を道場にすることを考え、両親は東京都に売却する予定だったその土地を数千万円という税金を払ってキープしていたが、第6回世界大会後、大山派だった廣重毅が松井派に戻ってきたことで
「もう道場は出せない」
といわれた。
納得できない黒澤浩樹に、山田雅稔は
「黒澤、品川もいいけど名古屋で道場やらないか」
といい、松井章圭は
「ぼくは知らない」
といった。
黒澤浩樹は両親に申し訳なく「極真」とか「松井」と聞くと拒否反応が出て眠れなくなり鬱病のような状態になった。
それでも稽古とトレーニングだけは続けた。
しかし試合に出たいという気持ちは失せていた。
大山倍達がいなくなった後、極真は変わってしまったと感じていた。
試合場でも一部の支部長はハイヤーの送迎つきになり、弁当も豪華なものが配られた。
「誰がこんなことしてるんだ」
黒澤浩樹は怒り
「こっちで一緒に食べようと」
と誘われても断って、若い支部長や指導員たちと一緒にロークラスの弁当を食べた。
試合を観戦しながら酒や女の話をしている支部長もいた。
大山倍達がいた頃には考えられないことだった。
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1996年1月27日、松井派が、アメリカ・ニューヨークのハンターカレッジ体育館で、第1回女子世界大会を開催。
体重無差別級、直接打撃制によるKO(ノックアウト)で勝者を決するという極真空手の試合は、女子には危険すぎると
これまで大きな大会は開かれてこなかったが、
・体重無差別級は行わず体重階級別で行う
・チェストガード、膝・脛サポーター、マウスピースなど防具の着用を認める
・試合時間は本戦2分、延長戦1分(男子は本戦3分、延長戦2分)と短くする
と安全面に強化され行われた。
それまで女子や壮年の人間が極真に入門するのはかなり勇気が必要だったが、1996年以降、急速に少年部、女子部、壮年部などの入会者が増えた。
松井章圭は、型の全日本大会、壮年部の全日本大会、大学生の全日本大会など、組手だけだった大会の幅を広げて増やした。
また入澤群(総本部指導員) vs グラウベ・フェイトーザ(ブラジル支部)のワンマッチも行われた。
トーナメントが主流だった極真で、これも大きな改革であり挑戦だった。
「トーナメントの宿命として対戦相手を選べないことや勝ち上がれば上がるほどダメージが蓄積され万全の状態で戦うことが困難になるなどマイナス点があることは歪めません。
私もそうでしたが選手であれば誰もが「あの選手とベストな状態で戦ってみたい」という願望を持っているものです。
またまだまだ戦える実力はあっても数試合勝ち抜かないといけないトーナメント戦は、ある程度の年齢になると難しくなってくる。
しかし1発勝負のワンマッチであれば戦える選手はたくさんいます」
(松井章圭)
1996年2月、松井派の「極真空手」第4号が出版。
これまで
1995年7月(第1号)、
1995年9月(第2号)、
1995年11月(第3号)、
1996年2月(第4号)
とほぼ隔月ペースで発刊され続けてきたが、これが最後となった。
廃刊の理由は大山留壹琴(長女)だった。
大山留壹琴は、学研の上層部には手紙を、現場にはFaxを送り続け、抗議し続けた。
訴訟を起こされることを恐れた学習研究社は廃刊を決めた。
1996年4月25日午前、松井派が総本部道場において、大山倍達の2年祭を行い、国内外の支部長、指導員、選手、60名が集まった。
午後、大山倍達が山籠もりをしたという千葉県の清澄山でも霊祭が行われた。
翌日の4月26日、大山派が国際武道センターで大山倍達の2年祭を行い、大山智弥子、大山恵喜(次女)、大山喜久子(三女)ら50名が集まった。
遺骨を持った大山智弥子は
「極真会館の象徴的な場所は池袋です。
なんとか総裁を池袋付近の立派な場所で眠らせてあげたい」
といった。
大山倍達の墓はまだ建っていなかった。
 (2233495)

1996年7月、
「K-1に選手を出してくれないか」
とフジテレビの出間廸男が松井章圭に要請。
松井章圭は、石井和義が館長を務める正道会館は大山倍達が絶縁している団体なのでと断った。
しかし出間廸男は再度、要請。
出間廸男をはさんで松井章圭が上座、石井和義が下座に座り、会談が行われたが、様々な問題があって話は進まなかった。
しかしブラジルのフランシスコ・フィリョはK-1出場を望んでいた。
「極真は武道空手である。
断じてショー空手であってはいけない。
その信念は昔から変わりません。
ただ武士は食わねど高楊枝とはいいますが現実も考えないといけない。
1990年代のブラジルは深刻な不況下にありました。
フィリョは親兄弟を養わなければならない個人的な事情があり、道場を持たせ新支部を開かせるというだけでは不十分でした。
師として不甲斐ない話ですがフィリョは空手で生活できないならボクシングに転向するといってドイツのジムにいってしまった。
ドイツでプロの資格を取りボクシングのヘビー級チャンピオンを目指すというんです。
そんなとき極真にK-1から協力依頼がきているという話を聞きました」
(磯部清次、ブラジル支部長)
磯部清次から話を聞いた松井章圭はヨーロッパ出張の際、ドイツに足をのばした。
フランシスコ・フィリョは
「空手は続けたいし極真はやめたくない。
だからK-1には出られない。
でもそれでは生活ができない。
残された道はボクシングしかない」
と訴えた。
フランシスコ・フィリョのような多くの選手の窮状。
恩あるフジテレビからの依頼。
テレビ局を味方につければ分裂騒動、大山派との争いに大きく有利になること。
サム・グレコもアンディ・フグも元極真、ピーター・アーツやアーネスト・ホースのキックボクシングの師匠や師匠の師匠は極真OB、ミルコ・クロコップは20歳の頃に総本部で修業したことがあるなどK-1で活躍する選手が極真をルーツにしていること。
極真の今後。
松井章圭は
「K-1と絡まざる得ない」
と思い始めた。
またそうなると正道会館との絶縁を解消しなくてはならないが
「だからといって正道会館とだけ手打ちをするわけにはいかない」
「極真を破門・除名された先輩方は誰一人、極真の看板を掲げずに独力で道を歩んでおられる。
建前は別に総裁がいかなる理由で破門・除名にされたかわからない例もいくつもある。
かつて極真の発展に尽力された先輩方と先代時代の取り決めだけでお付き合いできない。
そんなしがらみを引き継いでいいのか?」
そして
「今回の正道との問題を機に総裁時代の除名・破門を解いてしまおう。
それが新しい極真会館のあり方だ」
と決め、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻、廣重毅らに相談した。
 (2233501)

アメリカは、五来克仁ニューヨーク支部長の働きかけもあって、多くの支部長が松井章圭を支持していた。
大山派は、自分たちの考えを聞いてもらおうと西田幸夫の派遣を決めた。
そしてアメリカの支部長にニューヨークで会議を行うと連絡した。
支部長協議会派の話を聞こうと集まったアメリカの支部長たちの前に現れたのは、三瓶啓二と大山喜久子(三女)だった。
大山喜久子は通訳として同行していたが、大山道場時代に入門し、極真会館となってからは総本部筆頭指導員を務め、1971年にアメリカに派遣され、1985年に当時の最高段位7段を大山倍達に允許され、分裂騒動後、早くから支部長協議会派だった金村清次は
「2人はまるで夫婦のようだった」
という。
三瓶啓二は
「私はマス大山の息子」
「私はマス大山の孫の父親」
といった。
そして
「だから私は正当な極真会館の代表」
といったが、大山喜久子は「代表」を2代目」と英訳した。
金村清次を含めて日本語もわかる支部長は三瓶啓二はもちろん、大山喜久子にも不信感を覚えた。
「私は以前から、三瓶君が総裁の住んでいた大泉の家に寝泊りして喜久子さんを女房扱いしているとか、総裁が生前愛用していたバスローブを着てビールを飲んでいたという話を聞いてはいましたが、単なる噂だと思っていました。
しかしあの2人の姿をみて驚きを隠せません。
日本では絶対にバレないようにしていたのでしょうが海外ということで気が緩んだのか、それとも「俺こそが総裁の後継者だ」ということを外国の支部長たちに印象付けようという計算があったのかはわかりません。
中南米の支部を回ったときも三瓶君は喜久子さんを同行させてニューヨークと同じような発言をしていたようです。
何人もの支部長から、「あの2人は夫婦なのか」とか、「結婚して三瓶が2代目館長になるのか」などと何度も質問されました。」
(金村清次)
西田幸夫は自分がアメリカにいくつもりだったが、その後、場所も日時も知らされないまま、三瓶啓二と大山喜久子(三女)が会議を行ったことを聞いた。
 (2233459)

1996年8月、遺族派が、津浦信彦とその妻であり大山倍達の長女、留壹琴と共に大阪府立体育館で第13回ウエイト制大会を開催。
これによって合流して大山派となったはずの支部長協議会派と遺族派が再び分かれたことが発覚。
また大山智弥子館長が、この大会に不参加だったため、支部長協議会派に残ったことがわかった。
ガンに闘病中の大山留壹琴(長女)、夫の津浦信彦も不参加だった。
支部長協議会派と遺族派は再び分かれた。
高木薫ら遺族派は、筋を重んじ大義名分をもって遺族を立て、行動を共にしてきた。
それに対して支部長協議会派は、大山智弥子を館長にして権威を手に入れるために遺族派と合流した。
遺族を権力道具としかみていない支部長協議会派と高木薫がうまくいくはずがなく、頻繁に衝突を繰り返した。
「みんながみんなご遺族を道具と考えていたわけではありません。
ご遺族や遺族派の方々を利用することだけを目的に行動していたのは三瓶師範ら一部のグループのみで、西田師範はご遺族を松井派との闘争に巻き込むことを嫌っていたし、組織運営に取り込むことも極真に家族を一切関与させないという大山総裁の意志を尊重して消極的。
でした。
しかしご遺族との関係を良好に保とうという気持ちは誰よりも強かったし遺族派との協力も真剣に進めようとしていました。」
(坂本恵義、支部長協議会派)
この後、自分の知らないところで三瓶啓二と交渉し支部長協議会派との合流を主導した手塚暢人に対して不満を抱いていた高木薫が遺族派を離脱。
手塚暢人が代表となって10名ほどで活動を続けたが、数年後、松島良一、桝田博らが抜けた。
こうして遺族派は「手塚派」「松島派」に分かれ、全日本大会、世界大会を開いたが、その規模は極真会館の地方大会にも及ばなかった。
1996年9月、松井章圭は、各支部が発行していた昇級昇段認定証を総本部発行で統一。
会員登録をしていない道場生は認定を受けられなくなった。
1996年9月21日、大山留壹琴(長女)が、父親と同じ肺ガンのため、49歳で亡くなった。
津浦信彦は、この後、遺族派、支部長協議会派、松井派、いずれにも属さず独自の活動を続けていった。
 (2233496)

1996年9月25日、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、廣重毅、磯部清次、フランシスコ・フィリョが極真会館総本部で記者会見を行った。
「我々は過去、極真会館として公式に行われた除名、破門、また絶縁といった処分を解消する決定をいたしました。
ただ破門、除名、絶縁後も「極真」という名称を使用している団体は該当しません。
空手界の大同団結は大山総裁が生前からいわれていることもあり、私たちにとっても大きなテーマでした。
もちろん過去の経緯をきちんと整理した形で処理し対処していかなくてはいけませんが、基本的には門戸を開いて空手界の発展のためにお互いに切磋琢磨していきたいと思っています。
昨年の分裂騒動以来大同団結どころか極真本体が問題を抱えていましたが、いろいろと活動していく中でさまざまな団体・流派の諸先輩方からプライベートな形で応援をいただき、組織的にまとまってきた今、過去の経緯を解消する決定をしました。
ただ先方の方々あってのことなので、こちらの一方的な形になってはいけません。
まず我々の姿勢として門戸を開放して過去の経緯を解消していきたいという意思表示をしたということです。
その他の発表事項としては、世界ウエイト制大会の開催やランキング制の導入、ワンマッチ方式の試合などを行っていく予定です」
またプロ化、プロ格闘技への参戦について
「極真会館として他団体と交流する計画は今のところありません。
プロ団体のリングを借りてワンマッチを行うこともないと思います。
ただ選手が自分の活躍を求めていろいろなリングに上がることは常識が許せる範囲で応援していきたいと考えています」
K-1への参戦について
「可能性は十分あると思います」
今後の極真について
「極真こそ世界最強ということは常に理想として追いかけなければいけません。
ただ現在社会にあって、いろいろな形で社会貢献していくこと、組織を拡大していくことも目標の1つである。
その上で女子の大会が始まり、少年たちの活躍の場を設けていきます。
また4年に1度の世界大会、世界ウエイト制大会も、ある意味で空手を通じた国際交流という見方ができます。
空手道として最強を目指して実戦性を追求するという理念を忘れずに側面では競技性を高めていく必要もありません。
その中で最高であり最良の空手を目指していくことです。
ケンカ空手という代名詞からわかるように極真空手は一部の人しかできない特権的なものというイメージが強かったと思います。
しかし今後は老若男女を問わず目的に応じた自己啓発の場としていかなくてはいけないでしょう」
会見は、盧山初雄の発言で終わった。
「最後に1つ付け加えさせていただきますが、我々は極真会館ならびに格闘技界のさらなる発展を心から願っているということです。
また21世紀を目前に極真が大きく変質することはあり得ない。
大山総裁が創られたこの極真という組織を我々は完成に向かって発展させていかなければなりません。
今日の記者会見を通じて、この先、極真が大きく色を変えてしまうものではないことをくれぐれも理化していただきたいと思います。
あくまでも極真は武道空手としての道を目指すのであって、プロ化、ショーアップされた世界に進もうとしているのではないことは理解してください」
松井章圭はうなずいた。
大山倍達は、
「極真は武道空手である。
断じてショー空手であってはいけない」
といい、弟子がプロの大会に出ることを許さず、違反者は破門、除名された。
浜井識安、山田雅捻、廣重毅らはプロ化に肯定的だったが、郷田雄三、盧山初雄の両最高顧問もプロ化やプロ格闘技とかかわりを持つことに反対だった。
「私の目の黒いうちは正道やK-1と関係は持たない。
それが大山総裁の意志」
(郷田雄三)
「大山総裁の生前と時代も違いますから門戸を開放して他団体と交流を深めていくことには異議はありませんでした。
極真所属選手の他団体への参戦についてもルールの問題はあるにしろ選手の選択枝を広げるという意味では必要なことだとも思います。
井の中の蛙はいけませんから。
しかし極真会館はアマチュア団体であり、武道を提唱している以上、組織としてプロ団体とは一線を画すべきだというのが私の信念であり、亡き大山総裁の意志だと信じています」
(盧山初雄)
 (2233542)

1996年10月16日、東京高等裁判所は、松井章圭らの控訴を棄却。
大山倍達の遺言書は無効となった。
1996年10月24日、大山派が東京プリンスホテルで記者会見を開いた。
大山智弥子を中央に、西田幸夫、三瓶啓二、三好一男、大濱博幸、小林功が並び、松井章圭に館長と名乗ることをやめ、総本部を返還することを要求した。
1996年10月26日、松井章圭、郷田雄三、山田雅捻、廣重毅が総本部で記者会見。
松井章圭は、
「最高裁判所に特別抗告する手続きを進めています。
裁判はあくまで遺言書の立会人の方々と遺族の間で争われているものです。
もちろん我々が立会人を支持していく姿勢は変わらないし、どういった判決が下ろうと今後も総本部道場の使用については何ら問題ないと思っています」
1996年11月6日、極真会館総本部の使用に関する裁判で仮処分の決定が下された。
仮処分とは債権者からの申立てにより裁判所が決定する暫定的処置で、松井章圭は仮処分は不服として自分たちが総本部を使用する正当性を訴えた。
裁判所は遺族と松井章圭に話し合いで解決する「和解」を提案。
遺族に会館を明け渡すように勧めた。
1997年2月、フランシスコ・フィリョのK-1参戦が決定した。
「フィリョのような実績のある選手が出たいと要求する以上、彼の意志を尊重するしかありません。
フィリョは現在の極真会館にとって大切な存在です。
それなのに生前の大山総裁がアンディ・フグやマイケル・トンプソンを破門したようにフィリョも破門してもいいのか?
私はそう思いませんでした。
フィリョ個人の立場だけでなく極真の将来を考えたとき、フィリョの意志を汲んでやるのがベストだと判断しました」
(松井章圭)
郷田雄三は
「将来を見据えあえて賛成した。
今後はすべて松井館長に一任する」
としぶしぶ認めたが、盧山初雄は
「正しい選択ではない」
と反対し続けた。
1997年3月17日、最高裁判所は、松井章圭らの控訴を棄却。
大山倍達の遺言書が無効が決定したことで、
「2代目も無効になった」
という意見が大きくなったが、松井章圭は沈黙を守り通し、極真会館での活動を続けた。
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