極真分裂.03 他流試合
2020年11月4日 更新

極真分裂.03 他流試合

大山倍達没後、2年目。一見、クールだが一番ガンコな松井章圭 vs 不屈の男、三瓶啓二。

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1995年7月19日午前3時、
「遺言書が却下されたのに居座る松井から力ずくでも総本部を奪い返す」
と三瓶啓二ら十数名の支部長協議会派がガードマンを連れて総本部に乗り込んだ。
中から玄関を開けたのは大山恵喜(次女)だった。
中江辰巳(城西田無支部長)と青木英憲(横浜東支部長)、杉村多一郎ら総本部指導員、内弟子が寝ていたが、大勢の足音で目が覚め、部屋を飛び出し、廊下で増田章、緑健児、三瓶啓二、三好一男、小林功らと鉢合わせた。
中江辰巳はすぐに連絡しようとしたが
「まあまあ」
と三瓶啓二に携帯電話を取り上げられた。
「どういうことですか」
(中江辰巳)
「お前らなんで松井の方にいるの?
遺言書は却下されたんだよ」
(小林功)
「自分は山田先生についていくだけです」
(中江辰巳)
「松井館長を尊敬していますから」
(青木英憲)
小林功は説教を続け、松井章圭を罵倒する三好一男に杉村多一郎が対峙した。
多勢の支部長協議会派は、松井派を一室に軟禁。
水口敏夫(岡山県支部長)らが見張りについた。
中江辰巳が窓から外をみると増田章と目が合った。
(すまない)
増田章は両手を合わせ、三和純はそれをみて笑った。
そして支部長協議会派は会館の入り口のカギを交換。
中江辰巳、青木英憲、杉村多一郎、総本部指導員、内弟子を外に出してから帰っっていった。
帰り際、緑健児は松井派の面々に頭を下げた。
中江辰巳が仕事で九州にいた山田雅捻に連絡。
午前5時、松井章圭が警察を伴い総本部へ。
「当分の間、会館を閉鎖します」
と入り口に張り紙がされていあった。
大山智弥子を呼び出すと
「もうすぐ代理人が来る」
といった。
やがて両方の弁護士が顔を合わせ、松井章圭の依頼により業者がカギは再び交換。
9時からの稽古はいつも通り始まった。
 (2233472)

1995年7月25日、遺族派は大山智弥子名義で東京都千代田区の事務所からマスコミにFaxを送った。
「明日13時、極真会館総本部2階で、全国の支部長同席の上、記者会見を行います」
1995年7月26日、
「そんな記者会見認められない」
松井章圭は、遺族派と支部長協議会派が会館に入ることを許さなかった。
揉め続けて30分後、大山智弥子が4階の自宅から降りてきた。
「私のお客さんを自分の家に招いて何がいけないのですか?」
「1階から3階は私が運営しているし道場生の稽古もあります。
どうしても記者会見をするのでしたら、4階のご自宅でやってください」
13時15分、少し遅れて記者会見がスタート。
「こういった場所での会見となり申し訳ございません」
(手塚暢人)
「今まで支部長協議会派とか遺族派というような派閥争い的な形で捉えられていたと思いますが我々の目的はあくまでも組織の一本化です。
健全な組織運営を図るために試行錯誤してきましたが、この度、大山智弥子総裁夫人を極真会館館長および名誉会長という形で定礎に基づき支持いたしました。
遺族派、支部長協議会派の支部長合意のもとに決定したことです」
(西田幸夫)
「このように合流できましたので、遺族派、支部長協議会派ではなく今後は正当な極真会館という形で捉えていただきたいと思います。
「松井派といわれる支部の方もいます。
松井側に属している支部長だってこちらに結集することがあれば当然それは一本化になると思います」
(手塚暢人)
「館長は智弥子夫人と決定しているわけです。
これに賛同する支部長には是非集まってほしいと思います。
松井君は1度会館を出るべきです。
いろいろな方法で出ていってもらうことを考えています。
法的な手段も行いますが、仮にいつまでも出て行かないということであれば、館長の決定次第ではこの建物を壊してしまうこともできるんです」
(三瓶啓二)
14時、会見終了し関係者は会館を出て行った。
15時、三瓶啓二、三好一男、(高知県支部長)、柳渡聖人ら約20名の支部長協議会派が業者と共に再び会館に入り電話、電気、水道を止めた。
松井章圭はすぐに復旧させた。
翌日、「正当な極真会館」は、
「大山智弥子の許可はもらった」
と電話の名義を変更。
松井章圭は業務に支障をきたすのを防ぐために会館近くに新しく事務所を借りることにした。
遺族派と支部長協議会派が合流した組織は、「大山派」と呼ばれた。
がっぺむかつく

がっぺむかつく

合併むかつく
高木薫は支部長協議会派との合流に不満だった。
高木薫は大山倍達の死後、1度も松井章圭の2代目を認めなかったが、支部長協議会派の支部長たちは1度は松井体制を認め、その下で高木薫の除名に賛成した。
「もし合流するなら自分たちが除名された後の出来事は、大会も含めてすべて白紙に戻すべきだ」
とゴネる高木薫をみて三瓶啓二は
「後で何とでもなる」
と手塚暢人ら他の遺族派に働きかけ積極的に合流を進めていった。
合流後、大山派の代表は西田幸夫、副代表は三瓶啓二で、遺族派は誰もポストに就くことはなかった。
「私は合併の話があった時から反対でした。
三瓶という男の本性を知っていたからです。
彼は常に皆の陰に隠れ周囲を欺き陰謀をめぐらす。
私は支部間のテリトリー問題などで散々三瓶の汚さをみてきました。
しかし他の支部長が三瓶の口車に乗ってしまった」
(高木薫)
「三瓶さんはもともと福島テレビの局内に道場を開くことのみを大山総裁に認められていました。
当時の福島県支部長は和気嘉兵衛さんというひとでしたが、三瓶さんの道場開設はテレビ局に限って和気さんも容認していました。
しかし1981年に和気さんが亡くなると、福島県支部は北支部と南支部に分かれ、三瓶さんが北の支部長に私が南の支部長に就任することになりました。
ただちょうど真ん中で分けると会津若松市、郡山市、いわき市など都市部はすべて県南にあり、県北は人口が少なくなってしまいます。
そこで地理的には南に属する白河市を境にテリトリーを分けることで私が譲歩しました。
これは生前の大山総裁が決定したことです。
ところが三瓶さんは総裁の許可なく県南にも道場を広げ始めました。
話が違うと郷田師範に間に入ってもらい改めて地図に線を引いてテリトリーの確認をしました。
そして三瓶さんは1年半から2年の間に私のテリトリーから撤退するという文書を書いてハンコも押しました。
しかし三瓶さんがノラリクラリと撤退しない間に総裁が亡くなってしまった。
遺族派と支部長協議会派が一緒にやっていこうとしているにもかかわらず、今度は勝手に郡山市にも道場を出したのです」
(安済友吉)
西田幸夫は、遺族派と合流することには賛成だった。
しかし遺族を敬い大切にしたいという気持ちはあったが、組織運営に参加するのは絶対に反対だった。
遺族派との合流もあくまで遺族派の支部長と話し合おうとした。
しかし三瓶啓二は、単独で遺族と交渉し、大山智弥子に館長になることを認めさせ、西田幸夫には事後報告した。
西田幸夫は憤慨したがどうしようもなかった。
支部長協議会派の多くの支部長は、大山智弥子が館長になることを歓迎した。
「西田さんが遺族はいらないというのを聞いて支部長協議会派は失敗だと思いました。
総裁あっての極真、極真あっての我々。
遺族を大事にするのは弟子の役目。
空手の父が総裁なら母は奥さん。
だから遺族は絶対に必要だと思いました」
(長谷川一幸)
しかし以後、会議で決定したことを遺族や遺族の意向を受けた三瓶啓二が簡単に覆してしまうことが起こり始めた。
西田幸夫の懸念は的中した。
お

三瓶啓二は、東京都練馬区上石神井の大山家にも頻繁に出入りし、泊ることもあった。
大山倍達が使っていた箸や茶碗で食事をし、大山倍達のパジャマを着て大山倍達の布団で寝ていた寝た。
大山倍達の愛用していたバスローブを着てビールを飲む三瓶啓二の横には大山喜久子(三女)が寄り添っていた。
妻帯者である三瓶啓二は大山喜久子(三女、独身)と不倫関係になった。
そして大山喜久子(三女)は妊娠した。
大山智弥子はそれを容認していた。
「極真の3代目ができて一安心だわ。
三瓶さんが2代目館長というのがいいんじゃないかしら」
(大山智弥子)
「その事実は私も知っていますよ。
親戚中を巻き込んで大騒動になったんですから・・・
もう何も話したくありません」
(三瓶啓二の妻)
「三瓶さんが大泉の家に居ついている姿は何度もみました。
悪びれる様子もみせず当たり前のように父が着ていたパジャマを着て、父が使っていた茶碗で箸で食べて、父が使っていた茶碗でお茶を飲み、父が使っていた布団で寝ていた。
挙句に妹を妊娠させて。
取り巻き連中を集めてお酒を飲んでドンチャン騒ぎするし、妹は女房気取りでいるし、母親は何もいわず笑っているし、私は何もかもが嫌になりました。
妹を責める気も母親も責める気もなくなって・・・
ただ三瓶さんの行為だけは許せなかった。
不倫ですよ、不倫。
子供までつくって。
私は絶対に天罰が下ると信じています」
(大山恵喜(次女))
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1995年8月、雑誌「格闘技通信」が、
「今回の分裂騒動の中で若い指導者の人はどう考えているのか?
松井館長と年齢が近い人の意見を聞きたい」
と緑健児、増田章、七戸康博、桑島保浩(元全日本チャンピオン、香川県支部長)の座談会を掲載。
「総裁がおられたときは1人で決められていた。
でも次は誰になってもどうやって進めていくかというのは考え直さないとダメだと思うんですよ」
(七戸康博)、
「トップが間違いを起こしたときにチェックする機能、審議とか任期がないと・・」
(桑島保浩)
「定礎、規約、ルールをつくってそれを軸にして運営していこうと考えています」
(増田章)
「あの3点(松井章圭の館長解任理由、極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理)は形式上のもので根っこの部分は、一言でいえば人間関係の崩壊なんです」
(緑健児)
9月、支部長協議会派は、自らの機関紙「月刊 極真魂」を創刊。
一方、竹和也、川畑幸一、三村恭司(大分県支部長)、水口敏夫が支部長協議会派を抜けて松井派に復帰。
1995年9月16日、17日、津浦信彦、大山留壹琴(長女)によって、遺族派と共催を阻まれた支部長協議会派が、東京ベイNKホールで、第12回全日本ウエイト制大会を開催。
7月に大山派となったはずだったが大山智弥子館長は出席しなかった。
極真の名が入った同じ大会が3回行われた行われたことに、
「いつかはまた1つになってくれるだろう」
と期待していたファンは暗い気持ちに襲われた。
 (2233480)

1995年9月21日6時30分、内弟子が総本部の掃除をしていると会館前に数台の車が停まった。
その後、20数名の支部長協議会派の若手支部長らは内弟子たちを軟禁。
入り口を封鎖し会館に篭城。
は会館近くで待機。
昼にはマスコミに、
「ご報告 極真会館事務局」
「警告 極新会館議長、西田幸夫」
「声明文 極新会館議長、西田幸夫」
「告 大山倍達遺族代表 大山智弥子」
の4通のFaxが届いた。
・大山智弥子の依頼で西田幸夫を議長とする極真会館の支部長たちが会館を封鎖。
・以後は西田幸夫を議長とする極真会館以外の使用を認めない
という内容だった。
この日は千葉県の清澄山で行われていた世界大会強化合宿の最終日だったが、松井章圭は所用で東京にいた。
連絡を受けて郷田勇三、盧山初雄の両最高顧問に報告。
清澄山の郷田勇三が帰ってくるまで様子をみることを決めた。
しかし盧山初雄は、様子をみるために会館に向かった。
途中、事態を知った山田雅捻、浜井識安も同行した。
到着してみてみると入り口のガラス戸は施錠された上、中にチェーンが巻かれていた。
黒岡八寿、小林功ら数名の姿がみえた。
振り返った黒岡八寿と盧山初雄は目が合ったが、黒岡八寿は気づかぬ振りをして奥にいった。
瞬間、郷田勇三や松井章圭を待っていなければいけないことはわかっていたが盧山初雄は決めた。
(今やらなければダメだ)
ガラス戸をガンガン叩いた。
「コラーッ、貴様ら、ここを開けろ」
相手がいうことを聞かないことがわかると正拳でガラス戸を割ろうと構えた。
あわてて浜井識安が止めた。
「先輩、こっちの窓が開きます」
3人は指導員室の窓から入ったが再び鍵がかかったガラス戸があった。
盧山初雄が前蹴りで蹴破ろうと構えたが
「先輩、ここにバットがあります」
と浜井識安がバットを渡した。
盧山初雄がガラス戸を叩き割ると、支部長協議会派は逃げ出した。
「お前ら、ちょっと待て!」
盧山初雄は、追い討ちをかけたが外に逃げられてしまった。
数名の若手支部長が残っていたが、山田雅捻、浜井識安に
「お前らやばいぞ。
盧山先輩が本気で怒ってる。
早く行け」
と促されると全員が出て行った。
しばらくすると西田幸夫、三瓶啓、緑健児らがやってきた。
「てめえら、この野郎!
お前は館長になりたいんだろう。
このガキが。
お前らもっとおとなしくせんか」
(盧山初雄)
「そんなつもりはありません」
三瓶啓二は、その剣幕に反抗せずに説明を始めた。
やがて松井章圭が現場に到着。
まず盧山初雄をなだめ、三瓶啓二に
「話し合いしましょう」
と働きかけた。
三瓶啓二は応じたが、しばらくすると
「話にならない」
と帰ろうとした。
帰り際、柳渡聖人は松井章圭にいった。
「松井、本部時代、お前の面倒を見てやったじゃないか」
「面倒を見てくれた人がどうしてこんなことまでするんですか」
怒って松井章圭に詰め寄ろうとする柳渡聖人を山田雅捻が制した。
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分裂騒動に心を痛めていた三宅進、斉藤英毅、松尾悟という松井派の3長老が
「今日、社会的評価を広く低落させている極真の危機につき、時期を逸し遅きに失しましたが、一大決意を持って立ち上がりました。
『己を滅して他を益せよ』
『切磋琢磨して和合せよ』
これは極真精神の真髄を顕す象徴的な言葉であります。
怨讐を越えて謙虚の美徳を実践するときではありませんか」
と全国の松井派、大山派の支部長に通知。
大山智弥子の捺印つき「委任状」と具体的な解決案を示す「改革原案」も同封し、
「自分達3人に和解調停と改革を委任するかどうか、至急、連絡してほしい」
とした。
大山智弥子は大山派の館長でありながら3人の差し出した委任状に快く印鑑を押していた。
三宅進は、戦後の焼け野原で稽古する大山倍達、待田京介らと出会った。
大山倍達に興味を持って、その後も稽古を見学しに行ったが入門は断り続けた。
47歳のときに仕事の得意先の友人から道着をプレゼントされ極真会館へ入門。
血気盛んな若者が中心の道場で異色の存在だった。
黒帯を取ったとき
「私は、極真の中で一番弱い黒帯です」
といい、52歳のとき合宿で行われたマラソン大会で250人中16位になった。
婦人之友社の社長となったときに大山倍達に
「君の雑誌に私の特集記事を出してもらえんかね?」
と聞かれ道場では
「押忍(Yes)」
としかいわなかったが
「ダメです」
とキッパリ断った。
以降、大山倍達からの相談事が多くなり、昇段審査会では隣の席に座った。
3人の呼びかけに、高木薫ら遺族派と松井章圭たち松井派は、細かい部分で不満や修正点を挙げつつも和解には賛成。
三瓶啓二ら支部長協議会派は和解に反対した。
その後、3人は3派を和解させるべく動いたが、活動の過程で各派を以下のように分析した。

遺族派
有力な支部長がおらず、松井派支部長協議会派との連携も、遺族からの支持もなく、極真を引っ張っていく力量も継承する根拠もない。

松井派
有力紙部長に支持され、一致団結して取り組んでいる。

協議会派
1/3以下の強硬派、残る2/3が良識、穏健派に分かれている。

そして最終的に以下のように全国の支部長に通知した。
「我々長老有志は、松井館長支持を決定しました。
松井派は極真再建のために新支部開設プランがありますが、和解のときは中止になりますので早急に和解行動されますよう・・・」
 (2233499)

K-1、UFC、総合格闘技、世は空前の格闘技ブームだった。
「極真も地上波で放映しなければ時代に乗り遅れてしまう」
松井章圭は、各テレビ局や新聞各社を駆け回り、テレビ朝日と日刊スポーツと提携を確定していた。
第6回世界大会まで日刊スポーツがシリーズで記事を掲載し、大会はテレビ朝日が特番で放映される予定だっだ。
しかし分裂騒動によって契約直前で白紙化。
そこでフジテレビのプロデューサーであり極真の門下生でもある立川善久の働きで、急遽、フジテレビの地上波での放映が決まった。
その後、立川善久は「フジテレビ格闘技委員会」というプロジェクトを立ち上げ、その会長になったのが、専務で、「ライヴUFO」というK-1の第1回目放送を企画した出間廸男だった。
後に出間廸男は松井章圭に極真のK-1参戦を要請することになる。
1995年11月3、4、5日、東京体育館で第6回世界大会が開催され、
「極真」
と書道家:野呂雅峰が書いた20畳の大きさの布が東京体育館の天井に吊り下げられた。
世界大会は、
4年に1度、3日間かけて行われるビックトーナメントだった。
開会式には168名の選手が勢ぞろい。
優勝するには8回勝たないといけない。
「八巻、格好つけるなよ。
世界大会だと必要以上に気負って自意識過剰になりやすい。
それで実力を出し切れず負けてしまう選手が多いんだ。
俺もそうだったよ」
廣重毅は第2回世界大会で足刀の試割で失敗し3回戦で判定負けした経験から弟子のおごりと油断を戒めた。
そして城南支部のメンバーは選手をガードし、飲み物や食べ物への薬物混入を防ぐために管理した。
2日目、フランシスコ・フィリョが試合場に初登場。
183cm、108kg、上腕は丸太のように太い。
スティーブン・クラーン(イギリス)はしゃにむに突っ掛けていった。
フランシスコ・フィリョは冷静に相手を捌き、数発の中段回し蹴りで圧倒し3-0で判定勝ち。
4年前の世界大会より体が厚みを増し、組み手もドッシリと腰が落ちて安定感を増してた。
2日目を終えて、空手母国の威信にかけて王者を死守せんとする日本人選手が2人が敗れた。
3日目、東京体育館は10時の開場と共に12000人で満員になった。
試合前、32人の選手にドーピング検査が行われた。
松井章圭は、氷柱を裏拳で割る演武を行った。
4回戦で外国人特有のパワーや多彩な技に日本人選手の敗退が続出した。
瀬戸口雅昭はポーランドのユーゲウス・ダデズダフに判定負け。
高尾正紀はブラジルのルシアーノ・バジレに判定負け。
成嶋竜はオーストラリアのギャリー・オニールに判定負け。
中量級王者の青木英憲は大きなフランシスコ・フィリョに前蹴り1発で場外のカメラマン席まで吹っ飛ばされた。
フランシスコ・フィリョと同じブラジル支部のグラウベ・フェイトーザもシュナーベルトを膝蹴りで一蹴した。
5回戦、八巻建志は、杉村多一郎が左目の上を13針縫う大ケガを負って棄権したため不戦勝。
田村悦宏がブラジルのルシアーノ・バジレに破れ、岩崎達也はギャリー・オニールに破れ、池田政人はフランシスコ・フィリョの重い突きを叩き込まれ右下段回し蹴りで1本負け。
高久昌義はニコラス・ペタスに技ありを取られて負け、市村直樹はグラウベ・フェイトーザに顎に高角度の蹴りを何発も食らい判定負け。
5回戦を終えベスト8が決まった。
日本人選手が3人。
ブラジル選手が3人。
日本代表は16名が出場していたが、ブラジルは代表枠4人中3人が生き残っていた。

極真空手 黒澤浩樹vs八巻建志 フルバージョン 第5回世界大会

準々決勝で八巻建志と黒澤浩樹が対戦した。
松井章圭と同年齢の黒澤浩樹は、準々決勝までの4試合を延長戦は1つもなく本戦で決め、技ありを2つとっての1本勝ちが2つあった。
八巻建志の前蹴りと黒澤浩樹の下段回し蹴り、両者一歩も引かず打ち合い、本戦を終え、延長かとも思われたが旗が3本上がり判定で八巻建志が勝った。
2人は歩み寄って握手を交わした。
「次も頑張ってください」
「ありがとうございます」
試合場を下りた後、花道を引き上げながら格闘マシンは泣いた。
最後の戦いと決意し挑んだ世界大会。
しかしその結果は中途半端で不完全燃焼なものだった。
本来は延長戦だったが、黒澤浩樹より若く、より優勝が期待できる八巻建志をできるだけ少ないダメージで勝たせたいという意向があったのかもしれない。
空手母国の威信を守るために日本人同士の潰し合いはマイナスだったのかもしれない。
しかし他の国からみれば、それはアンフェアでダーティーな行為であり、なによりも黒澤浩樹にとっては人生を破壊されるような行為だった。
やはり決着がつくまでやるべきだった。
次に数見肇が「雷帝」グラウベ・フェイトーザと対戦。
遠い間合いで勝ち目のない数見は、城南支部独特の練り足で腰を落としたまま滑らかに入って突きと下段回し蹴りを狙った。
グラウベ・フェイトーザは高角度の膝蹴りを突き上げ、数見肇がかわすと突きをラッシュし渾身の中段回し蹴り。
「ドカンッ」
凄まじい音が響いた。
前半は雷帝が台風のような猛攻で圧倒したが、後半に入って数見肇がコツコツ当てていた下段回し蹴りが効き始め、195cmの巨体がみるみる失速し左右に揺れだした。
数見肇は確実に攻撃をヒットさせていった。
グラウベはベタ足になりながらも懸命に攻撃。
本戦では決着がつかず延長に入り、明らかにダメージがあるグラウベ・フェイトーザの脚を数見肇は外科医のように情け容赦なく蹴った。
グラウベ・フェイトーザは必死に踏ん張り1発逆転を狙った左膝を突き上げる。
数見肇は見切り軸である右足を蹴った。
グラウベ・フェイトーザの意志を断ち切ろうと数見肇は左下段回蹴りを連打。
グラウベ・フェイトーザはマットに両手をついた。
「技あり!」
立ち上がり脚を引きずるグラウベ・フェイトーザに数見肇はとどめのラッシュ。
グラウベ・フェイトーザは敵に背中を向けてしまった。
「一本」
 (2233492)

準決勝第1試合は、八巻建志 vs ギャリー・オニール。
変幻自在なステップワークからスピーディーで大胆な攻撃を仕掛ける「鳥人」と一撃必殺の破壊力を持つ「不沈艦」の対決だったが、踵落としを出したギャリー・オニールの顔面に八巻建志が上段前蹴りを突き刺した。
そして下段回し蹴りで脚を潰し、ボディをパンチで突き上げ、さらに左右の下段回し蹴りを入れた。
2分間の延長戦の末、5-0で八巻建志が勝った。
ギャリー・オニールは苦笑いを浮かべ握手を求め、2人はがっちりと握手した。
八巻建志が通路を引き上げていくと前から数見肇が歩いてきた。
「数見、決勝で待っているぞ」
「押忍」
準決勝第2試合、フランシスコ・フィリョ vs 数見肇。
数見肇の左下段回し蹴りを左脚の内側に受けたフランシスコ・フィリョはムッとした表情で猛烈な正拳ラッシュから膝蹴りで数見肇を場外まで押し出した。
フランシスコ・フィリョは巨大なハリケーンのように並外れたパワーで蹴りを上段と中段に繰り出した。
数見肇は、それを紙一重、ドンピシャのタイミングでい下段回し蹴りで迎え撃った。
フランシスコ・フィリョは左脚をひきずりながら攻撃。
数見肇は下段回し蹴りと突きを情け容赦なく叩き込んだが、再延長戦も終了。
熱狂していた会場が静まり固唾を呑んで判定を待った。
審判の旗が3本以上、上がれば勝者が決まる。
しかし数見肇に2本上がるも引き分け。
体重判定も、フランシスコ・フィリョが103.5kg、数見肇が97.5kgで有効となる10Kg以上の差はなく引き分け。
決着は試し割り判定に持ち込まれた。
「フランシスコ・フィリオ選手22枚
数見 肇 選手24枚」
場内アナウンスが告げられると会場は再び大歓声に包まれた。
わずか2枚の杉板が明暗を分けた。
城南支部の控え室では、決勝戦まで体を休めるために先輩後輩が並んで寝ていた。
いつもならコメントを競って求めるマスコミ陣も、異様な光景をみているだけだった。
「ビリビリしたカミソリが飛び交うような緊張感が漂っていてとてもコメントなんか取れません。
同門の2人がこれから世界大会の決勝戦を戦うのに同じ控え室でしかも並んで横になっている。
あんな異様な雰囲気は初めてでした」
八巻建志はケガが慢性化している両足首をアイシングしてテーピングしたかったが、数見肇がいるため、素知らぬ顔でま寝ていた。
そんな控え室に廣重毅が入ってきた。
柔らかな笑顔で
「これは168名のファイナルマッチなんだ。
彼らの代表と思って戦って欲しい。
先輩後輩の意識は捨てて・・・・
そうだね。
悔いのない戦い、みる者を感動させる戦いを期待しています。
試合が終わったらいつもの2人に戻るんだから・・・
頑張ってください」
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