プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編
2020年11月9日 更新

プロレス総選挙2017順位結果発表!&マツド・デラックス的プロレス総選挙!その1日本人ヘビー級編

WBCの延長で放送時間がゴールデンから一気に深夜番組となってしまった「プロレス総選挙2017」!!こんな結果だったと言うお知らせとマツド・デラックス的にあたしの独断でそれぞれの部門のベスト10を作ってみたわ!これはひとそれぞれ好きな人が違うから皆ににも投稿してもらいたいわよ!

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岩手県立黒沢尻工業高等学校卒業後、サラリーマンや板前を経て、1972年に23歳で新日本プロレスに入門。デビュー戦は10日後の同年11月12日、和歌山県白浜町坂田会館の藤波辰巳戦。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかしアントニオ猪木のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。1975年、第二回カール・ゴッチ杯で木村たかし(現・健悟)を破り優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会で、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃し“テロリスト”として一躍脚光を浴びる。長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる[1]。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃からワールドプロレスリング(テレビ朝日)では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次UWFに参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱(1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。1993年、1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。1996年、ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。1997年にはWARに出場し、天龍源一郎やアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。その技術を見込まれ、男女問わず(特に神取忍は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。ZERO-ONE(現ZERO1)時代はフリーとしての参戦ながら橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。現在も不定期ながらリアルジャパンプロレス、ドラディション、全日本プロレスなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。近年では新日本プロレスのレッスルキングダムにおけるニュージャパンランボーに2年連続で出場している。

5位 ジャイアント馬場

ジャイアント馬場

ジャイアント馬場

「東洋の巨人」
via imgur.com
馬場さんを5位とはとお怒りの方がいるかと思われるけど、あたしにとって馬場さんは凄いプロレスラーであると同時に「社長」なのよね。レスラーとしても偉大なんだけどやっぱり「葉巻」をくわえて椅子にドカッと座ってる馬場さんが好きなんであえてこの5位にランクインさせてもらったわ。

ジャイアント馬場のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1960年9月30日、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)ら、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、試合内容を評価した力道山により初渡米武者修行を命ぜられ、同年7月アメリカに遠征する。1962年6月、シカゴにおいて、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに勝利し、一旦、NWA世界ヘビー級王者のベルトを腰に巻き、その後の連戦で防衛を果たすも、第4戦目で観客がリングに乱入する騒ぎが起こり、結局このときは正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった。1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。翌1964年には、アメリカで、NWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦したが、世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、当時の馬場のレスラーとしての実力がいかに卓越していたかを示す証明である。1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、日本プロレスのエースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターナショナル・ヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。1967年5月からアントニオ猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にインターナショナル・タッグ王座を獲得した際にBI砲という呼称が定着した。1972年10月に日本テレビの後押しで全日本プロ・レスリング株式会社(全日本プロレス)(以下、全日本)を旗揚げした。馬場は、全日本旗揚げに際して、日本プロレス時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始、合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。創立1年強の1974年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得、名実ともに世界のジャイアント馬場となった。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインターナショナル・タッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にて、アントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たし、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。1984年4月、ハンセン&ブロディのハイジャック・パイルドライバーで首を痛め、次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップした。1985年7月、スタン・ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で明るく楽しいプロレスを展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日までリングに上がり続けた。生涯で通算5769試合を行った。

4位 天龍源一郎

天龍源一郎

天龍源一郎

「風雲昇り竜」
「ミスタープロレス」
via imgur.com
やはり水平チョップと言えば真っ先に浮かんで来るのは天龍よね。「小橋健太」も全日時代に散々天龍との戦いで身に付けたのがあのチョップだったんだと思うわ。それにしても日本で「パワーボム」を定着させてのも天龍かも知れないわね。

天龍源一郎のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1976年11月13日にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューし、帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う。日本デビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館におけるジャイアント馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る。MACWで1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、NWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。タイトル初戴冠を果たした。帰国後の同年7月30日、ディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っているように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。このインター・タッグ戦からライバル団体である新日本プロレスのアントニオ猪木に遠慮して全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田と共に「鶴龍コンビ」を結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア組戦では馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲を受けている。この年、プロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。さらに長州率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグで長州・谷津組と抗争を繰り広げ、人気も得た。1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。その後天龍同盟を結成(原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。特に鶴田との鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾る。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。1990年横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱しSWSに移籍した。1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッションと対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した。1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年に全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王者に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。2004年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦し、中西学とシングルで対決し、結果は天龍の敗北。2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。2015年8月15日対オカダ・カヅチカ戦で引退。

3位 ジャンボ鶴田

ジャンボ鶴田

ジャンボ鶴田

「完全無欠のエース」
via imgur.com
ジャンボ鶴田と言えばやはり「バックドロップ」。「ルー・テーズ」の後継者とまで言われたわ。でもそれだけじゃないのよね鶴田は。「膝」の技が強烈だったの!勿論代名詞の「ジャンピング・ニーパット」も凄いんだけど、長州との抗争で見せた「キッチンシンク」は本当に凄い切れ味だったの。もし、見れるならもう一度あの切れ味を見てみたいわ!

ジャンボ鶴田のキャリア(Wikipediaより抜粋)

1972年10月31日、全日本プロレスへの入団後ほどなくして、テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとへ修行に行き、スタン・ハンセンやボブ・バックランドとも邂逅。1973年3月24日、テキサス州アマリロにてエル・タピアを相手にプロデビュー。凱旋帰国後の同年10月6日、後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビュー(フォール勝ち)。3日後の10月9日、蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。60分3本勝負の1本目ではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ(結果は1-1の引き分け)、すぐに馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位につく。ファンからの公募により、1973年10月27日にリングネームをジャンボ鶴田と改名。1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破り初めてのシングルタイトルを獲得し、喧嘩番長ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝など、徐々に実績を上げていく。この時期の鶴田の代名詞は、UNヘビー級王座と背後に星を刻んだレスリングタイツ。必殺技は4種類のスープレックス、特にジャーマン・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキックを大一番で用いている。1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を心がけた。8月31日の蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。AWA王座獲得後、同王座をリック・マーテルに敗れるまで16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙であった。新日本プロレスのエースであり、1984年末から全日に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わったが、試合後はスタミナ切れのためロッカールームで全く動けなかった長州に対し、鶴田はシャワーを浴びて若手レスラーたちと大阪市内へ飲みに出かけたといった伝説を作る。鶴田が怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との一連の抗争、そして天龍離脱後の超世代軍(のちの全日本プロレス四天王)との戦いであった。1988年6月には、谷津嘉章との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、初代世界タッグ王者に就いた。1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となる。これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会では敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツルタ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていた。天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった。1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。最後のタイトルマッチとなったのは、1992年10月7日の世界タッグ選手権だった。田上と組み、殺人魚雷コンビことゴディ&ウィリアムス組の挑戦を受けた。1992年11月にB型肝炎を発症したことを告白、長期入院を余儀なくされた。1993年の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。そして1999年1月31日の馬場が死去した直後に引退・全日本取締役辞任会見をキャピトル東急ホテルで行う。2000年5月13日、永眠。

2位 長州力

長州力

長州力

「革命戦士」
via imgur.com

長州力のキャリア(Wikipediaより抜粋)

長州力は無骨で華がない選手と言われていたの。でも、「かませ犬」発言から一気に「革命戦士」となって行く様をリアルタイムに見ていたあたしにとってはやはり想いが強いレスラーだったわ!「安生洋二」との戦い後のインタビューでの「切れてないですよ」もインパクトあったわ!
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