ボインから始まる巨乳・爆乳・超乳タレントの歴史
「巨乳」という言葉が登場するまでは、「ボイン」、「デカパイ」という言葉が使われていた(1967年から1980年代まで)
ボイン(巨乳)グラビアアイドルの元祖「アグネス・ラム」(1975年)
1960年代前半頃より成人向け雑誌にてその表現が散見されていたが、一般に広く知られるようになったのは、1967年に大橋巨泉がテレビ番組「11PM」にて、朝丘雪路の乳房の大きさをボインと表現し、転じて朝丘をボインちゃんというあだ名で呼び始めたのがきっかけである。
「ボイン」は「ヒッピー」などと共にその年の流行語となった。また、1969年に月亭可朝が「嘆きのボイン」を発表しヒットしたこともあり、ボインという呼称が定着した。
ボインは 1970年代には小島功の『ヒゲとボイン』のように漫画のタイトルにもなり、1980年代に入っても人気アニメ『まいっちんぐマチコ先生』で「ボインタッチ」の語が使われた。
しかし、「巨乳」という言葉の登場と普及に伴って急速に廃れ、2010年現在ではほぼ死語となっている。
(出典:Wikipedia「巨乳」)
ボインという言葉の生みの親は、『野球は巨人、司会は巨泉』で知られる大橋巨泉といわれている。
当時の人気テレビ番組11PMの撮影中、朝丘雪路が水着でプールに飛び込んだ際に、ビキニが取れてしまい、豊かな乳房が丸出しになってしまったのを見た大橋巨泉が「ボイン」と表現したのが始まりといわれる。
しかし、現代では死語となっており、巨乳という言葉に取って代わられた。
(出典:Wikipedia「嘆きのボイン」)
【動画】初代クラリオンガール「アグネス・ラム」 - YouTube
アグネス・ラム(本名アグネス・ナラニ・ラム、Agnes Nalani Lum 1956年5月21日 - )は、1970年代後半に日本で活躍したハワイ州オアフ島出身の中国系アメリカ人モデルで、渡辺プロダクション所属であった。
ちなみにアグネス・チャンも、同じ事務所(ただし、香港出身のチャンとラムの間には何の姻戚関係もない。当時はよく勘違いされていたが“アグネス”はファーストネーム)。このため、両者のファンは、2人まとめて「両アグネス」と称することもあった。
日本で最初に活躍したグラビアアイドルとされており、グラビアアイドルの先駆者と称されている。
1975年6月に初代クラリオンガールに選ばれ、同年のライオン製品「エメロンミンキー」というトリートメント剤(当時、リンスは定着していたが、トリートメントはまだ普及していなかった)のCM出演が評判となり、たちまち大人気となった。
つぶらな瞳の美少女、日焼けした小麦色の肌、豊かなバスト(当時巨乳という単語はなかった)、愛くるしいルックスの肖像写真は一世を風靡、当時の若者に「アグネス・ラムフィーバ」が起きた。
(出典:Wikipedia「アグネス・ラム」)
元祖ボインちゃん「朝丘雪路」(1967年『11PM』)
朝丘雪路さんは1960年代に人気テレビ番組『11PM』のアシスタントとなって人気を集める。
東京市京橋区(現・東京都中央区)築地生まれ。元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水。夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名も持つ。
山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年同校を卒業し、宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は31人中8位。同期の39期生には女優の真帆志ぶき(元雪組男役トップスター)、東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組に在籍し娘役として活動。 1955年8月31日に宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は月組公演『黄色いマフラー』。
1960年代に人気テレビ番組『11PM』のアシスタントとなって人気を集める。
1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうける。1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取る)。1973年津川雅彦と再婚。1974年真由子を出産。
その後も女優として活躍。お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターと常識外れな発言で人気を集め、バラエティ番組に多数出演している。
現在では深水流家元として、青二塾で日舞の講師を勤めている。
1981年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
2003年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
2011年、旭日小綬章受章。
(出典:Wikipedia「朝丘雪路」)
「朝丘雪路」の番組エピソード
1967年『11PM』で大橋巨泉が胸の大きい朝丘を指して「ボイン」と呼び、'80年代まで長く使われる流行語になったという経緯がある。巨乳タレントのはしりといえる。
日本初の深夜のワイドショー『11PM』 「野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉」と「朝がまるで弱い朝丘雪路です」
正式名称は『WIDE SHOW 11PM』(ワイド・ショー - )、略称は「イレブン」。「イレピー」とも。開始当初は午後のことを「PM」(Post Meridiem)と呼ぶ概念がまだ薄かった時代であり、新聞のテレビ欄に「11P・M」と記載されていた。
それまで視聴率不毛の時間帯と言われた深夜の時間帯の開拓に乗り出し、『モーニングショー』(NET、現・テレビ朝日)同様、アメリカの夜の情報番組をヒントに企画された。
現在では"お色気番組の元祖"的なイメージが持たれるが、初期は週刊読売編集長だった山崎英祐が司会を務め、時事問題についての考察を述べる日本テレビ報道局制作の硬派番組だった。
しかし、視聴率が全く獲れなかったことから方針を転換、放送開始からわずか半年で報道局が総撤退して制作局に当番組の制作を移管するというテコ入れを施した結果視聴率も上昇し、深夜の時間が定着する。
毎週月曜・水曜・金曜は日本テレビが、火曜・木曜は読売テレビが制作。日本テレビでは大橋巨泉、愛川欽也、読売テレビは藤本義一(作家)が主に司会を担当し、お色気から硬派な社会問題まで幅広く取り上げた。中でも木曜は系列各局を回りながら、その土地の名物や風俗を探訪する企画を、また金曜には週末情報の色合いを強め、釣りや麻雀のコーナーを放送していた。
(出典:Wikipedia「11PM」)
深夜番組「11PM」OP 各曜日のアイキャッチ集 - YouTube
昭和を代表するコミックソング「嘆きのボイン」(1969年12月10日発売)の大ヒットで「ボイン」という言葉が定着
落語家・漫談家である月亭可朝作詞・作曲の歌笑曲「嘆きのボイン」は80万枚の大ヒットで昭和を代表するコミックソングになる
冒頭から「ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」の衝撃的な歌詞で始まるこの曲を、自らチョビヒゲ、メガネ、カンカン帽といういでたちとギターの弾き語りと癖のある独特の節回しで語りかけるように歌い、一世を風靡。
曲想はそのコミカルな歌詞と歌い口とは相反するかのごとく、しみじみと物悲しくエレジー調であり、「これがほんまのチチ帰るやおまへんか~、こらほんまやでぇ~」の終結部では多くの聴衆に言いようのない感動すらもたらせることに成功した。 元は、外回りの営業の時に洒落でやっていたのがウケて、続きを作れと言われて出来た曲だと本人が語っていたことがある。
(出典:Wikipedia「嘆きのボイン」)
【動画】落語家・漫談家である月亭可朝作詞・作曲の歌笑曲「嘆きのボイン」 - YouTube
1970年代後期、「榊原郁恵」が巨乳アイドル(巨乳タレント)の先駆けになる
巨乳アイドル(巨乳タレント)」の先駆けとなった「榊原郁恵」さん
(出典:Wikipedia「巨乳」)
榊原 郁恵(さかきばら いくえ、1959年5月8日 - )は、日本の元アイドルで歌手、女優、タレント。本名、渡辺 郁恵(わたなべ いくえ)。旧姓、榊原。身長155cm。スリーサイズはB85W63H88。
高校2年の時にホリプロが主催する「第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン」で優勝[3]、芸能界入りを機に上京し芸能活動コースがあった堀越高等学校へ転校している。 歌手デビューは翌年の1977年(昭和52年)1月1日だが、CMや映画への出演は1976年(昭和51年)からである。
同期デビューの女性人気歌手だった高田みづえ、清水由貴子と共に当時「フレッシュ三人娘」と言われた。共に最も仲が良かった歌手仲間の2人だが、新人賞を争う存在でもあった。
デビュー以降、アイドルとして『ナッキーはつむじ風』をはじめ、数多くのドラマやCMで人気を獲得。『明星』『平凡』『近代映画』などの表紙を度々飾り、またタレント歴代5位となるプロマイド月間売上1位獲得17回という実績を持つ。
1970年代後半にはミッキーマウスの吹き替えの声優にキャスティングされ、ディズニーの特番にレギュラーで出ていた。 前述の「ナッキー〜」はシリーズ2作品で2年間、同じくTBS系の木曜19時台バラエティドラマ枠5作品で2年半、連続して主演を務めている。
歌手としては7枚目のシングル「夏のお嬢さん」が自身最大のヒットであるものの、オリコンチャートでは最高11位にとどまり、これが自身の最高位となった。『NHK紅白歌合戦』には1978年から6回連続出場し、紅組トップバッターを2回務めた。シングル盤のリリースは1986年(昭和61年)まで続けていた。現在は歌手としての活動はほとんどなく、単発的に舞台やイベント、テレビの懐メロ系の番組で歌う程度である。
(出典:Wikipedia「榊原郁恵」)
水色のビキニ姿で「夏のお嬢さん」を熱唱する姿がアイドル時代の郁恵を象徴する映像として有名だが、本人の弁によると「若い頃は恥ずかしくて、テレビで流れるたびに嫌な気分になった」と述べている。なおそのフィルムの権利はテレビ局側にあり、何度となく封印して欲しいと要望したが聞き入れられなかったという。
上記の映像や一部の写真集で着用している水色のビキニはアメリカ製であることが知られているが、郁恵本人は「私に合うサイズのビキニがなかなか見つからず、やっと見つかったまともに着られるものが偶然アメリカ製だっただけ」と解説しており、「当時の感覚でもオバさん臭くてダサい」と評している。
どれくらいの大きさの乳房を巨乳と感じるかは、主観的なものが大きく、使用者によってまちまちな部分が多い。しかし、集合的にはどのレベルから巨乳と感じるかどうかを捉えることは可能である。
マイナビウーマンの調べでは男女ともDカップ以上から巨乳だと思う人が多い。
同じく、マイナビウーマンの調べで巨乳だと感じるブラジャーのカップはEカップ以上と答えた人が多かった。
巨乳フェチ作家の鏡裕之は、ブラジャーで言うとE70以上が巨乳、G75以上が爆乳、M70以上が超乳と定義している。
巨乳の類語として、一般女性と比べ極端に大きい乳房を爆乳(ばくにゅう)や超乳(ちょうにゅう)や魔乳(まにゅう)、形の美しい乳房を美乳(びにゅう)、小さい乳房を貧乳(ひんにゅう)や微乳(びにゅう)や無乳(むにゅう、ないちち)と呼ぶ場合がある。
極乳という表現もAVなどで使われたが、あまり定着していない。鏡裕之の小説では弾乳や砲乳という表現が使われている。
また主に女性タレントやグラビアアイドルの巨乳を形容するのに、スイカップ(古瀬絵里)などといった語が用いられることもある。ちなみに、スイカにあたる英語watermelonは、俗語で爆乳のことである。
巨乳でよかったことや得したこととしてモテる・水着に自信が持てる・彼氏に喜ばれるなどがあげられ、一方で巨乳で嫌だったことや損したこととして男性の視線・太って見える・オシャレが楽しめない・重いなどがあげられている。
巨乳になったらやってみたいこととして「谷間を見下ろす」「机に乗せる」「谷間にボールペン」などがある。
(出典:Wikipedia「巨乳」)