コメント
東京の寮が、2月初めで満室のために急遽大阪校に。艱難辛苦を乗り越えて国立医学部に。と全国から浪人生が集まっていましたねー。毎日6:30分に予備校の校歌で起こされ、点呼からパンと牛乳の朝ご飯を済ませ、予備校に。すぐに毎テ=毎日テスト。~75分の授業を夕方迄。お昼は、村上給食。土曜日は、いろんな大学の過去問模試。それから帰宅。お風呂は、週に3日。夕食あとは、1130位迄、復習。1日15時間位勉強してました。が、昨今受験生の人数が、多く前年の私立医学部の偏差値が1年で20も上がっていましたね。1年で国立医学部に合格した方は、大阪でいませんでした。みんな2浪、3浪と河合塾、駿台に行ってやっと私立医学部に入っていました。1年浪人で何十人かは、私立歯学部、または、文系に変更して合格してました。机や黒板の裏に金蔵金返せとよく書かれていました。
当時通ってました
もう30年近く・・前になるかな・・
落ちこぼれだったオレは寮生活に耐えられず退寮・・一人ぐらし・・
そんな日々にまじめに取り組むはずもなく、残念ながら医者にはなりませんでしたが、今はまた違う人生を送っています
寮にいた白須さん、浅野、仲良くしてくれた鹿児島の晋ちゃん、静岡の井出くん、山梨のよしみ、岩手の斉ちゃん、迷惑かけた小岩のエビオ、みんな元気かな・・
紆余曲折ありましたが、なんとか地方国立大学医学部に入学できました。(翌年の入学案内に私の名前と写真が書いてあったよと,入学後の同級生が家庭教師先の高校生が取り寄せた入学案内を持ってきてみせてくれたのを覚えています)大阪校でその学年で一番のひとは大阪市大医学部に合格したとあとで聞きました。旧帝大の合格者はなく、その他は私同様に地方国立大学か、一流ではない私立大学だったようです。
あの学校がなければ医者になれていなかったのかもしれません。となると今の私も、家族もなかったことになります。人生は一期一会ですが。いまでも感謝しています。(長文申し訳ありません)
大阪校は一番よいクラスでCクラスそしてD,Eクラスの全体で3クラス程度だったと思います。
私は苦手な数学がEクラス、それ以上に苦手だった化学がなぜかDクラスでした。Cクラスだったのは英語だけだったかな?どの科目も先生が非常に良くて、すごく成績が伸びました。
どうして、こんなに良い学校がしられていないのかなと驚きました。私の学校からは私以外には在籍者はいませんでした。
(駿台、河合は高校時代に講習会で参加しましたが、まったく置いてけぼりでついて行けませんでした。今思えば単に学力不足だったのでしょうね)
当時地元進学校で入学時上位1/4くらいにいた私ですが、すぐに成績が下落して下位1/5くらいの場所をうろうろ。友達もおらず、暗い毎日を過ごしておりました。有名大学医学部を目指していると自負しておりましたが、勉強の仕方が今思い返すとダメダメで全く成績は振るいませんでした。
案の定浪人となり、予備校のパンフレットを取り寄せて気になっていたのが両国予備校でした。でも、そこまで落ちぶれていないと、駿台、河合の次ぐらいの地元の老舗予備校の2,3番手校の医学部進学クラスの入学(?)試験をうけましたが玉砕。やっぱりここしかないのかと大阪校の入学試験をうけました。結果は上位は無料で奨学金がでた?ような記憶がありますが、無料→30万→60万→120万くらいの成績順の授業料でしたが、ギリギリ60万円に滑り込んだ記憶があります。今思うととんでもない額ですが、両親がOKしてくれたので入学しました。
久しぶりに「両国予備校」のキーワードでぐぐってみたら、ここにたどり着きました。意外に多くのコメントが残されているんですね。
HPではなつかしの単語帳が掲載されており、嬉しくなりました。
コレをみたのは予備校の時以来ですね。すぐに紙カバーは無くなり、繰り返しやりました。合格して捨てるときにはすごく感謝した記憶があります。
私にとっての両国予備校といえば・・・・・
特別分厚い学校案内でしょうか。単語帳と同様の真っ赤な表紙で、A4かB4の横とじという変わった体裁だったとおもいます。まず、合格者の顔写真と出身高校と合格大学名が誇らしく記載されていました。金蔵先生の非常に煽るような文章に高揚したのを覚えています。(続く)
1991年大阪校薬理工学部通学生様
ご出品ありがとうございます!
先ほど、入札させて頂きました。あまりヤフオクに慣れていないため、
お手を煩わせることの無いよう努めます。宜しくお願い申し上げます。
そんな昔に作成されていたのですね。もし未だ両国予備校が存在していたならば、きっとYoutubeに全曲アップされていたに違いありませんね。実家に置いてある入学パンフレットを探し出し、思い出に浸りたいと思います。
当時の布施は歩道が吸い殻で埋め尽くされ、「テレクラ」と大書きされたビルが周囲に在ったような気がします(笑)それでも「この環境で励んでこそ!」と思ったことを思い出しました。
早速出品しました。
条件は前回と全く同じです。よろしくお願いいたします。
校歌テープは赤い箱に入った白いテープに間違いありません。校舎と寮のいつものイラスト一覧が印刷されています。
同封されている短冊状の歌詞カードには「将来立派な(医師、歯科医師、薬学研究者)になることを決意しあらゆる艱難辛苦に耐えて受験勉強に励む者以外は両国予備校に入学してはならない」とあったことから、大阪校が設置された1982年ごろ製作されたものと思われました。なお我々世代と以降は()部分「医療人または社会人」になっています。
入学前の英単語テスト、東京校の学生もいらしていましたね。(確か入口に学籍番号と名前を書いて入室したような、東京の方は「東京校」)
大阪校のある布施は今は雰囲気が変わってるかも知れませんが、当時は初めてでなくてもインパクトありすぎでしたよ。
近鉄沿線はいかがわしい店が多数あるし、近所に暴力団事務所あるし、朝通学する途中の道にゲロが何カ所かあったり。本当に凄い環境でした。
この中で校舎2箇所と研修室(ビルの一部フロアだけ教室)6箇所が散らばっていましたから。
1991年大阪校薬理工学部通学生様
有難うございます!ご出品のご連絡を楽しみにお待ちしております。
ああ、校歌テープは販売していると伺ったかもしれません。赤い箱に入った白いテープだったと記憶しております。
話は変わりますが、実は入学前の英単語テスト(記事にもある5000語テストです)のために大阪校に3度ほど通いました。月に何度も大阪に訪れるのは初めてで、しかも布施は初めての地だったため、かなりのインパクトを感じた覚えがあります。
1997年度東京校寮生様
早速ですが、ヤフオクで処理というこで、承知いたしました。
私も入手の経緯は似たようなもので、最初友人数人で「何か記念になるものほしくない?」から始まり、校歌のテープの話が出ました。
最初は受付の女性職員に尋ねたところ、テープは数個奥の棚にあり、ダビングできないか依頼したら東京校舎に問い合わせたのか
「定価(2000円)で販売)」
「ダビングはできない」
とのこと。そこで数人と相談になり、私がテープを購入し、友人達に400円払って貰いダビングしたものを渡すという話にまとまり、後日受付に行って購入しようとしたら
「本当に買う気?少し待ってて貰える?」
と2階にいる上長(おそらく生活指導部責任者?T先生)に聞いてきたのか、学籍番号と名前を控えられたうえで譲り受けることができました。
友人達にはダビングしたものをテープ代だけで渡しました。
そうそう、大相撲の横綱に懸賞出してましたね。最初は父が日経新聞に記事になっているのを見て笑ってました。
翌年2浪めを過ごした駿台で両国に無関係の友人に話をしたら大爆笑でした。
1991年大阪校薬理工学部通学生様
ご返信が遅くなり、誠に申し訳ございません。
お譲り頂いたのは東京校の英語科主任のO先生です。
実費での購入を申し出たところ、珍しい趣味をしてるなと苦笑され、
ご自分の机の引き出しから無造作に取り出されて渡して下さったのを
昨日のことのように覚えております。
気になって調べたこともあるのですが、作曲者も歌唱者もかなりの
大物を起用していたようですね。さすが国技館に懸賞を出してただけは
ある、と変な関心をした覚えがあります。
手段につきましてはヤフオクで大丈夫です。
本日より毎日こちらを確認いたしますので、ご都合の良いタイミングで
ご連絡を頂ければと思います。お手数をお掛けし大変恐縮ですが、
何卒宜しくお願い申し上げます。
1997年度東京校寮生 様
初めまして。反響があり嬉しく思います。
講師の方も歌えるようにということで配布されていたのでしょうか。
今から考えると1人で6曲も作詞し、作曲もその専門の作曲家に依頼しているのか、よく出来ていると思います。社会人生活のどっかで思い出し、その度に聞くことがありますが、凹んだとき等は元気を貰うこともありました。どっかのカラオケ店で歌えるようになればと思います。
焼いたCDをお譲りするのは可能ですが、前の「歌が聴きたい」様同様、ヤフオクで送料等諸費用相当の実費、商品名は「第91同仁寮」にしましょうか?
他の方法の提案などがございましたら教えていただけますでしょうか。
1991年大阪校薬理工学部通学生様
初めまして、1997年度に東京校第91同仁寮に所属しておりましたものです。過去のコメント欄を拝見し、コメントさせて頂きました。
卒業時に校歌集のカセット(赤箱入り)を講師の先生から譲り受けていたのですが、引っ越しの際に取り紛れ行方不明になってしまいました。つきましては、何とかCDをお譲り頂けませんでしょうか。何卒ご検討のほどよろしくお願い申し上げます。
大阪校は入学式の前後で行うクラス分けテストの3科合計で上位グループ(通称オモテ)と下位グループ(通称ウラ)に分けられ、その同一グループ内(7クラスが同じ時間割)で教科ごとに能力別クラス分けされていました。
数学を例にすると、ウラ→L、M、T、U、Z、特D、特G。オモテ→D、F、H、N 、P、W、特Bという具合?
両国予備校のレベルは?
少数ながら学力のある学生もいましたが、全体の6割以上はどっかの私立落ちたぞなんてレベルではありません。
学区制の公立高校(偏差値50少々?)で理系90人中下から3番以内である私の学力でウラの上から2番~中の下を考えると、レベルは察しがつくでしょう。全体の半数以上が旺文社や進研模試で偏差値45に満たない学生ばかり。本当に勉強しなかった、荒れているなどで勉強できる環境に恵まれなかった学生と思えました。
特がついた特別基礎クラスでは中学校で習う問題から始めており「there is~」が分からない学生もいました。
しかしウラの学生でも中堅の大学に受かる学生もおり、真面目に頑張った学生たちは飛躍的に学力アップしていました。
【実際は4クラス程度しかない~両国式学習システム 能力別少人数(5~35名位)クラス...】
おそらく、4クラスは末期ではないかと思います。
33クラスあるような書きぶりはありますが、ピーク時の東京校でもそこまでは…。後述しますが、大阪の2グループに対し東京では3グループあったので薬理工系だけで18クラス以上(必須のためほぼ全員出席の英語等)はあったと思います。
1991年現在は大阪校だけで医歯系→14クラス、薬理工系→14クラス、文系12クラス。スーパー1クラス(クラス名C)ありました。
クラス名D~Z、特A~特Gまでに振り分けられ、薬理工系で話をすると、英語、数1、代幾、基解等全員必須のものは14クラス、化学は12クラス、物理8クラス、生物4クラス、微積8クラス、確率4クラスといった
具合で受講者数で増減されてました。
1教室あたり25~40人くらい?
このHPに記載してある内容を解説させていただくと。
【浪人生が生活していた学生同仁寮!生活を厳しく管理されていました】
<学生心得>
(1)午前8時30分までに登校し~
→これは学生証の裏に記載してある内容です。
説明してある通り、寮生は帰宅時間が決められており、休日午後2時間のフリータイム以外はほぼ自由はないそうです。その時間で先を争い洗濯機を使っていたとか。食事、歯磨き、入浴、就寝以外はほぼ自習で寮監が抜き打ちで見回りがあり横になっていると怒られる(悪いと反省書)し、登校中部屋に不要物がないか整頓されてるかチェックされていたそうです。風呂は夏季は毎日、他は1日おきで時間指定、電話、テレビ、漫画、音楽CDなどは持ち込み禁止で見つかったら没収。ラジオは許可されていたと聞きました。新聞は寮監通じて取れたとか。
寮は大阪校だけで1991年現在で約25箇所(うち女子6箇所)、大半は元社員寮などボロい物件で入り組んだ場所。予備校から歩ける場所もありましたが中には尼崎など県外へ電車を使い1時間以上かかる場所のこともあり不平等かも。
歌が聴きたい様
ヤフオク、他の方が入札するといけないので締めました。
質問に返信すると公表されてしまうため、終了させてから返信しようとしたら、落札者が先にコメントするとは知らずスミマセン。
証明ハンコ、ありましたね。消えるボールペンは分かりませんでしたが、偽造できるなら皆やりますね。
不特定多数が見る場所ですので説明、寮生は毎日の生活が監視されており、平日は寮で朝食後、予備校へ直行、授業終了後決められた帰寮時間(1本少々電車に乗り過ごす余裕しかないようです)に帰宅しなければなりませんでした。勿論授業は出席簿による点呼があり欠席すると寮監、寮母に報告の流れみたいです。寮生の時間割は把握していました。自習室使用、講師に質問、通常授業以外のゼミへ受講する場合は終了後、証明ハンコのある証明書を発行してもらい、寮監、寮母へ提出しなければなりませんでした。
既に説明があるとおり、自習時間数が決められており、寮生は休日午後の2時間与えられるフリータイム以外に自由な時間は殆どないため、点呼の代返、自習室に荷物を置き外出(貴重なリフレッシュ)する人が多かったです。
歌が聴きたい様
本日ヤフオクで登録しました。定形外郵送料他関係費用相当になっています。
先日お話した題名になっていますので、よろしくお願いいたします。
お弁当は、7種類しかなかまったみたいで、5月なかばには外食多数でした。
人気は王将、立ち食いそば屋、近所のスナックランチあたりでしょうか。
弁当は会場の各教室で勝手に取る仕組みのため、寮生以外の利用は3寮合同(150人以上いた)の会場である本校舎6階講堂が狙われてました。
1度数が足りなくなり他の階から持ってきたり、寮生以外は食べないよう館内放送があったことも。お盆で普段の業者が休業中は有名弁当屋でよかったそうです。
翌年から2業者交替になっていたそうです。
1993年末から始まった米不足はすべてのスーパーから米が消え、独り暮らし1年生の私にも影響がありました。たまたまIYで毎週2回、2キロ袋入りを1名様1点限りで購入できることを聞きつけ、10時開店の数時間前に長蛇の列に並んだのを思い出します。
かつて一世を風靡した進学塾「両国予備校」の伝説を振り返る!!
受験戦争が激しかった80年代から90年代、当時多数のCMを打っていた「両国予備校」を覚えていますか?この記事では当時の受験戦争を振り返りつつ、両国予備校について書きたいと思います。