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スキルス性胃癌のため23歳の若さで死去
1988年の始め頃から腹痛や食欲不振などの体調不良を訴える。同年4月8日に東京都内の病院に診察後、翌4月9日に緊急入院(当初の病名は「卵巣のう腫」と発表された)。しかし入院時には、既にスキルス性胃癌が卵巣にまで転移、さらに6Lもの腹水が溜まって癌性腹膜炎も併発、末期がんの状態で手の付けられない状態だったという。
その後一旦は病状が回復し、名古屋市の中京病院に転院したが、1988年9月13日午前4時28分、スキルス性胃癌のため23歳の若さで死去した。戒名は「麗光貞忍大姉」。一部週刊誌が重病説を報道していたものの、所属事務所の野田義治社長や家族の意向もあり、堀江本人には本当の病名は最後まで告知はしなかった。
生前は礼儀正しい人柄と性格の良さにおいても評判が高かったと言われていたそうです。夭折は堀江個人の関係者やファンだけでなく芸能界全体にも多大な衝撃を与えた。
堀江とは大の親友同士でもあったマリアンは彼女の死に大号泣し、生前の堀江と親子のように交流を持ち、堀江の他界直前に実姉をガンで亡くしていた横山ノックも≪色んな事柄が遭ったりもうこの世の方では無く向こうに逝かれています。≫参列した葬儀の席で「ガンが憎い」と悲嘆していたと言われていました。
野田義治の言葉
■最初の堀江しのぶは、胸のでかさで選んでない
私がイエローキャブを立ち上げたのは1980年、34歳のとき。最初にスカウトしたのが、堀江しのぶでした。ファンだった人も多いと思いますが、今の若い人は知らないかな。
当時、彼女はまだ高校生でしたが、クラリオンガールの審査員をしていた黒沢久男氏から「落ちたコの中にいいコがいるんだよ」という話をもらって。写真を見たとき、ピンとくるものがあってね。会ってみたら、あどけない素顔がかわいくて、性格もよかったので、よし、このコ、うちでやろう!って決めたんです。
堀江しのぶはその後、高校2年生でデビュー。夏休みを利用してハワイやサイパンロケに行き、グラビア展開からスタートしました。あとで、彼女を選んだのは「胸のでかさだ」とみんなに言われましたが、最初は胸のでかさでなんか選んでないんですよ(笑)。
スカウトしたときは、そんなこと気づかなかった。なにせ制服着てましたから(笑)。それが水着になってみたらその胸のでかさに、私がいちばん驚きました。グラビアに出したらものすごく反響があって、次から次へグラビアの仕事依頼が舞い込んできて。私は、これならビジネスとしてイケる!って確信したんですよ。
だからこそ、堀江しのぶには、タレントとしての心構えをきちんと教えました。いしだあゆみさんに教わった三原則、目上の人への口の聞き方、礼儀、時間を守ること。どの世界でもそうですが、長い目できちんとした仕事をするなら、その基本はぜったい大事ですから…。
それと彼女の場合、性格のよさが人気に拍車をかけたと思います。
(出典:野田義治社長の巨乳ビジネス概論)
私がイエローキャブを立ち上げたのは1980年、34歳のとき。最初にスカウトしたのが、堀江しのぶでした。ファンだった人も多いと思いますが、今の若い人は知らないかな。
当時、彼女はまだ高校生でしたが、クラリオンガールの審査員をしていた黒沢久男氏から「落ちたコの中にいいコがいるんだよ」という話をもらって。写真を見たとき、ピンとくるものがあってね。会ってみたら、あどけない素顔がかわいくて、性格もよかったので、よし、このコ、うちでやろう!って決めたんです。
堀江しのぶはその後、高校2年生でデビュー。夏休みを利用してハワイやサイパンロケに行き、グラビア展開からスタートしました。あとで、彼女を選んだのは「胸のでかさだ」とみんなに言われましたが、最初は胸のでかさでなんか選んでないんですよ(笑)。
スカウトしたときは、そんなこと気づかなかった。なにせ制服着てましたから(笑)。それが水着になってみたらその胸のでかさに、私がいちばん驚きました。グラビアに出したらものすごく反響があって、次から次へグラビアの仕事依頼が舞い込んできて。私は、これならビジネスとしてイケる!って確信したんですよ。
だからこそ、堀江しのぶには、タレントとしての心構えをきちんと教えました。いしだあゆみさんに教わった三原則、目上の人への口の聞き方、礼儀、時間を守ること。どの世界でもそうですが、長い目できちんとした仕事をするなら、その基本はぜったい大事ですから…。
それと彼女の場合、性格のよさが人気に拍車をかけたと思います。
(出典:野田義治社長の巨乳ビジネス概論)
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