【訃報】世界的なファッションデザイナー・山本寛斎さん死去。
日本を代表するファッションデザイナーの一人であり、イベントプロデューサーとしても活躍した山本寛斎さんが、7月21日に急性骨髄性白血病で亡くなっていたことが明らかとなりました。76歳でした。
第一報はこちらです!
世界的ファッションデザイナーの山本寛斎さん死去 76歳 デビッド・ボウイさん衣装制作 https://t.co/Vif3UATbjY
— 毎日新聞ニュース (@mainichijpnews) July 27, 2020
山本さんは1944年、神奈川県横浜市生まれ。1960年公開の映画「太陽がいっぱい」のファッションセンスに惹かれたのがきっかけでデザインに携わるようになり、70年代には日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催。1973年にはデビッド・ボウイのステージ衣装を担当し、一躍世界的なファッションデザイナーとして頭角を現していくこととなります。
山本さんデザインの衣装
その後もフランスやイタリアなどに「ブティック寛斎」を出店したり、タレントとしてのメディア露出、書籍の執筆、さらには観光立国懇談会(VISIT JAPAN)といった政府の諮問事業の委員を務めるといったマルチな活動を展開。デザイナーという枠に留まらない活躍ぶりは世界中の人々に強烈な印象を植え付けることとなりました。
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そんな山本さんですが、2020年3月には急性骨髄性白血病の闘病中であることを告白。そしてこのたびの訃報となりました。山本さんが亡くなったことを報告した娘・山本未來は自身のインスタにて、山本さんが家族が見守る中亡くなった旨及び、山本さんが展開していた「KANSAI SUPER STUDIO」を継承する旨を発表しています。
親族からのコメントが続々と!!
山本寛斎さんと言えば、自身はもちろんですが親族にも著名人が多いことで有名です。親族には娘で女優の山本未來、異母弟で俳優・美術家の伊勢谷友介、山本未來の元夫で俳優の椎名桔平などがおり、それぞれが自身のインスタグラムでコメントや写真を投稿しています。山本さんのご冥福を祈るとともに、彼らのそれぞれの思いが込められたメッセージをここで確認しておきましょう!
山本未來
父、山本寛齋は去る7月21日、 私を含め家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました。
私にとって、父はエネルギッシュで明るいことはもとより、穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした。
また人生を通して「時に折れることがあろうと、常に前向きに、果敢に挑戦し続けることが明るい未来に繋がる」ということを教えてくれました。
生前中の父・山本寛齋と関わってくださった関係者の皆さま、医療関係者の皆さま、応援してくださった皆さまへ心より感謝を申し上げます。
今後も女優業を継続する傍ら、
2020年、年初より加わりました山本寛齋率いる「KANSAI SUPER STUDIO」にて父・寛齋の「元気」をスタッフと共に継承していきたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。
2020年7月27日
山本未來
伊勢谷友介
兄、山本寛斎が永眠しました。
写真は僕が大好きな寛斎さんの写真。
寛斎さんも僕も、共に27歳の頃の写真をコラージュしました。
1971年、独立して株式会社「やまもと寛斎」を設立した頃。
僕は2003年、初監督作品「カクト」の公開を終えた頃。
寛斎さんが病床で、最後に僕に聞いた事。「俺の生き方、どうだ?」僕は慌てて「凄いです。世界のファッションに早くから挑戦して、イベントの演出家として大きなショーを現実にしたことも。」と。
寛斎さんは満足気に小さく頷いた。。。
僕が物心ついた頃には、寛斎さんはファッションの分野で世界を相手に正に『歌舞いて』いた。そんな兄の存在は高校生の僕にとってメンターに変わった。NHK「わたしはあきらめない」で山本寛斎は新たな挑戦であったアートイベントの演出家として、諦めない挑戦の姿勢を、僕に強烈に印象づけた。VHSのテープを何度も観た。
『世界基準でやりたい様にやる』
寛斎さんのその姿勢は、当時「二足の草鞋」と揶揄されながらもREBIRTH PROJECTと、俳優業を兼業する当時の僕のメンタリティを支えてくれた。
大学生の頃、僕は『兄になりたかったんだ』と思う。
勿論寛斎さんは知らないし、そんな事を言う気もない。
寛斎さん自身だって、僕と同じ様に、自分に流れる山本家の激しい血筋を社会で沸騰させる事で精一杯だっただろうから。だから、背中を見てた。父と過ごした記憶のない僕には、それが社会を生きる大人の姿だった。
その激しさの反面、寛斎さんは若い頃から家族を持ち、あまりにも優しく、おおらかに家族を支えてくれたと、娘の未来ちゃんが話してくれた。 寛斎さんの弟によると、私達の父は「とんでもない人」だったらしい。その反面教師だったと言っていた。
生前寛斎さんは「葬式は明るく」「墓はいらない」と言っていたらしい。兄弟なんだな、そんなところも僕と同じ考えだ。
やりきる人生、命を使い切る人生。
最後までカッコ良かったです。
寛斎さんの死は、これからの自分に新たに喝を入れられました。
あなたの血は、僕の中に生きてます。『世界基準でやりたい様にやる』あなたに負けず、僕は『すべての人が容易く生きれる社会』を現実にしたいです。
まだまだ僕のインスピレーションの源でいてください。
ありがとうございました。
伊㔟谷友介