【遠藤一彦】彼こそは1980年代横浜大洋ホエールズのスーパーエース
2021年3月5日 更新

【遠藤一彦】彼こそは1980年代横浜大洋ホエールズのスーパーエース

スラリと伸びた長い足をすっと上げると、力強いオーバースローで150キロに近い直球、そして伝家の宝刀フォークボールを投げ込んでは三振を奪っていく。遠藤一彦は紛れもなく1980年代の横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)を牽引したスター選手でした。今回、遠藤一彦について詳しくみていきたいと思います。

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最多勝争いに毎年絡むスーパーエース

遠藤一彦は決して強いチームとは言えなかった横浜大洋ホエールズにありながら、長きにわたり常に最多勝争いに加わり、チームを精一杯引っ張り続けました。
1979年に12勝を挙げると、抑え、先発と自分の与えられたポジションでしっかり実績を残し、1982年から1986年までは毎年200イニング以上を投げ、1983年、1984年は2年連続で最多勝・最多奪三振王となり、他の年も毎年15勝近く挙げて最多勝争いに絡む活躍を見せ続けました。
また遠藤といえばファッションモデルのようなスタイルのよさ、俳優さながらの甘いマスク、そして知性とガッツを併せ持った雰囲気も印象的でした。
遠藤が繰り出す伸びのある直球、そして打者の眼前で消えるように落下する140キロ近いフォークボール。三振を次々と奪っていっては颯爽とマウンドを引き上げる様子。そんな遠藤の姿には横浜大洋ファンだけでなく多くのプロ野球ファンがしびれたのです。
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右アキレス腱を断裂してしまう

すでに14勝を挙げ、中日の小松や巨人の桑田との最多勝争いを繰り広げていた1987年10月3日巨人戦のことでした。味方のヒットで一塁から一気に三塁をおといしれようと二塁ベースを踏み、三塁へ向かった際、遠藤は右アキレス腱を断裂、左足で跳ねながら三塁ベースに倒れこみ、何とかセーフになったものの、そのまま動けず担架で運ばれました。このシーンはリアルタイムで全国放送され、多くのプロ野球ファンに衝撃を与えました。

ストッパーとして新境地を開く

アキレス腱断裂後、遠藤は手術を行い、懸命にリハビリに励みました。再登板は果たせたものの、以前のような力強い投球ができず1988年、1989年は5勝、2勝といった成績に終わりました。
1990年、先発投手としてはこれまでのような活躍はできないと判断された遠藤はストッパーを任されることになります。
「フォークボールというウイニングショットがあること」、「短いイニングなら自分の力をフルに出しきれること」、「強い精神力があること」、これらの条件を兼ね備えた遠藤はストッパーとして見事に活躍。この年21セーブ、防御率2.17という好成績を収め、カムバック賞を受賞しました。

苦難を乗り越えた復活

遠藤一彦の復活までの道のりが簡潔にまとめられいます(2:08ごろ)。

結局、アキレス腱断裂で選手寿命を縮めたが……

その後、遠藤は思うような成績を残せず、カムバック賞受賞の2年後の1992年に引退を表明します。
結果だけを見れば、遠藤は1987年のアキレス腱断裂が響き、引退時期が早まった格好となりましたが、懸命にリハビリを重ね、自分の活躍できるポジションを見出し、そこで粘り強く努力する姿を見せ続けてくれました。その姿は多くの人に勇気を与えたことはまちがいありません。

引退後の遠藤一彦

1992年引退後、遠藤は1993~1996年までTBSテレビの野球解説者を務め、1997年から2003年まで横浜ベイスターズで投手コーチを務めました。
現在はテレビでの野球解説の他にも、中小企業の営業職と野球塾のインストラクターを兼務しています。
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その投球スタイルから生き様まで、多くのプロ野球ファンを魅了した遠藤一彦。今は野球の指導・普及啓発のみならずビジネスの世界でも現役プレイヤーとして活躍。相変わらず輝いています。
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