「STAR LIGHT」
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光GENJIのデビューは1987年。1987年2月に、まずGENJIというユニットを結成。ローラースケートの練習を始めました。4月の時点でオリジナル曲もありました。最初は諸星克己さん、佐藤寛之さん、佐藤敦啓さん、そして田代秀高さんの4人で結成されました。その後、山本淳一さん、赤坂晃さんが加入。田代さんが脱退して5人になります。
6月に元イーグルスだった内海光司さん、大沢樹生さんによる「光」というグループと合体し、「光GENJI」となりました。「光」の2人は年上のイメージがありましたがデビュー時で18歳と19歳ですね。最年少の赤坂さんと淳啓さんは14歳だったのでかなり若いグループだったんですね。
そして1987年8月に「STAR LIGHT」でデビューします。キャッチフレーズは「超新星からのメッセージ。」作詞:飛鳥涼さん 作曲:チャゲ&飛鳥
からの提供で、初登場でオリコン1位を獲得します。「ザ・ベストテン」では6週連続1位を獲得していますよ。
全員がローラースケートを履いて踊り、バク転なども行うパフォーマンスは衝撃的でしたよね。すぐに人気に火が付き、トップアイドルの仲間入りをしました。「最後のスーパーアイドル」とも呼ばれました。
6月に元イーグルスだった内海光司さん、大沢樹生さんによる「光」というグループと合体し、「光GENJI」となりました。「光」の2人は年上のイメージがありましたがデビュー時で18歳と19歳ですね。最年少の赤坂さんと淳啓さんは14歳だったのでかなり若いグループだったんですね。
そして1987年8月に「STAR LIGHT」でデビューします。キャッチフレーズは「超新星からのメッセージ。」作詞:飛鳥涼さん 作曲:チャゲ&飛鳥
からの提供で、初登場でオリコン1位を獲得します。「ザ・ベストテン」では6週連続1位を獲得していますよ。
全員がローラースケートを履いて踊り、バク転なども行うパフォーマンスは衝撃的でしたよね。すぐに人気に火が付き、トップアイドルの仲間入りをしました。「最後のスーパーアイドル」とも呼ばれました。
ガラスの十代
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同じ1987年の11月に2枚目のシングル「ガラスの十代」をリリース。シングル発売日はメンバー全員が10代だったんですよ。(リリースの2か月後に内海さんは20歳になっています)
こちらは作詞作曲飛鳥涼さん。印象的な歌詞で今でも歌詞を見なくてもすべて歌えそうです。
曲の後半ではメンバーが服を脱ぎ棄て、最後は短いGパンだけになって歌っている姿も懐かしいです。また、全員バク転をする振りがあったのですが、最初はできないメンバーもいたそうです。最後にはできるようになっているのですからさすがですよね。
こちらもオリコン1位を獲得。「ザ・ベストテン」では8週連続1位を獲得しています。
カップリングはチャゲさん作曲の「Graduation」。卒業を歌った曲でジャニーズJr.のコンサートや実際に卒業式で歌われたこともあるそうです。
1995年に光GENJI SUPER5がミュージックステーション最後の出演となった時はこの曲を最後に歌い、ステージにローラースケートを置くという演出がありました。
こちらは作詞作曲飛鳥涼さん。印象的な歌詞で今でも歌詞を見なくてもすべて歌えそうです。
曲の後半ではメンバーが服を脱ぎ棄て、最後は短いGパンだけになって歌っている姿も懐かしいです。また、全員バク転をする振りがあったのですが、最初はできないメンバーもいたそうです。最後にはできるようになっているのですからさすがですよね。
こちらもオリコン1位を獲得。「ザ・ベストテン」では8週連続1位を獲得しています。
カップリングはチャゲさん作曲の「Graduation」。卒業を歌った曲でジャニーズJr.のコンサートや実際に卒業式で歌われたこともあるそうです。
1995年に光GENJI SUPER5がミュージックステーション最後の出演となった時はこの曲を最後に歌い、ステージにローラースケートを置くという演出がありました。
パラダイス銀河
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1988年には「パラダイス銀河」を発売。あまりの人気で発売と同時に売り切れる店が続出したそうです。オリコン最高位は1位で5週連続1位を獲得。1988年の年間オリコンチャート1位の楽曲でもあります。この年は年間オリコンチャートトップ3を光GENJIが独占しています。第30回日本レコード大賞も受賞しました。
翌年には第61回選抜高等学校野球大会の選抜高等学校野球大会入場行進曲に選ばれ、「ガラスの十代」と共に今でも甲子園の応援局の定番ソングになっています。すごい人気ですよね。
こちらも作詞作曲飛鳥涼さんなのですが、チャゲ&飛鳥からの楽曲提供はこの3曲でストップします。ジャニーズ事務所とチャゲ&飛鳥の所属事務所であったヤマハ音楽振興会との間で版権をめぐる対立があったのだとか。大人の事情ってやつですね。
翌年には第61回選抜高等学校野球大会の選抜高等学校野球大会入場行進曲に選ばれ、「ガラスの十代」と共に今でも甲子園の応援局の定番ソングになっています。すごい人気ですよね。
こちらも作詞作曲飛鳥涼さんなのですが、チャゲ&飛鳥からの楽曲提供はこの3曲でストップします。ジャニーズ事務所とチャゲ&飛鳥の所属事務所であったヤマハ音楽振興会との間で版権をめぐる対立があったのだとか。大人の事情ってやつですね。
剣の舞
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1988年10月には5枚目のシングル「剣の舞」をリリース。作詞は康珍化さん。作曲は馬飼野康二さんです。
大沢樹生さん、内海光司さんが出演していたドラマ『ワイルドで行こう! BORN TO BE WILD』という狼男をテーマにしたドラマの主題歌でした。
こちらも週間オリコンチャート1位で年間チャートでも7位でした。
ちなみに、1988年から光GENJIは「ミュージックステーション」にレギュラー出演していました。総出演数は234回で誰も抜くことのできない数字になっています。最後にみんながわちゃわ茶していた姿を覚えています。
大沢樹生さん、内海光司さんが出演していたドラマ『ワイルドで行こう! BORN TO BE WILD』という狼男をテーマにしたドラマの主題歌でした。
こちらも週間オリコンチャート1位で年間チャートでも7位でした。
ちなみに、1988年から光GENJIは「ミュージックステーション」にレギュラー出演していました。総出演数は234回で誰も抜くことのできない数字になっています。最後にみんながわちゃわ茶していた姿を覚えています。
太陽がいっぱい
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1989年7月にリリースされたのは「太陽がいっぱい」。この頃はもう、最初のころのような勢いは亡くなっていた印象だったのですが週間オリコンチャートは5週連続で1位。1989年の年間チャートでも4位でした。
作詞作曲は大江千里さん。大江さん自身もこの曲をセルフカバーしています。
ちなみにこの頃はSMAPがバックダンサーを務めていました。赤坂さんと敦啓さんはまだ若かったため、20時以降の歌番組生放送の出演はできず、代わりに中居正広さんと木村拓哉さんが出演していた時期もあったんですよ。
作詞作曲は大江千里さん。大江さん自身もこの曲をセルフカバーしています。
ちなみにこの頃はSMAPがバックダンサーを務めていました。赤坂さんと敦啓さんはまだ若かったため、20時以降の歌番組生放送の出演はできず、代わりに中居正広さんと木村拓哉さんが出演していた時期もあったんですよ。
リラの咲くころバルセロナへ
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その後、9枚目のシングル「Little Birthday」ではオリコン1位を取ることができず2位に。それから順位を落とすこともありました。
1992年にリリースされた17枚目のシングル「リラの咲くころバルセロナへ」は久しぶりに全国民が耳にした光GENJIの楽曲という感じでしたね。
タイトルからも分かる通り、「1992年バルセロナオリンピック」のテーマソングでした。光GENJIも『オリンピック広報アドバイザー』を務めたんですよ。
いまだにバルセロナというとこの曲を思い出します。
ちなみにこの曲はオリコン最高位2位でした。作詞:康珍化さん 作曲:後藤次利さんです。
1992年にリリースされた17枚目のシングル「リラの咲くころバルセロナへ」は久しぶりに全国民が耳にした光GENJIの楽曲という感じでしたね。
タイトルからも分かる通り、「1992年バルセロナオリンピック」のテーマソングでした。光GENJIも『オリンピック広報アドバイザー』を務めたんですよ。
いまだにバルセロナというとこの曲を思い出します。
ちなみにこの曲はオリコン最高位2位でした。作詞:康珍化さん 作曲:後藤次利さんです。
勇気100%
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ちろ 2022/11/20 11:47
光GENJI!当時、私は14歳で大好きでした。かーくんが好きでしたね。ベストテンや歌番組は必ず観ていました。