宝塚歌劇団から女優時代
高校卒業後、大学進学を希望していた扇千景さんですが、銀行員の父の意向により進学をあきらめます。
しかし、友人が勝手に願書を送った宝塚音楽学校を受験し、合格します。大学進学をあきらめさせた父への反発もあり、そのまま宝塚音楽学校に進学します。
大学へ進学したかっただけあり、宝塚歌劇団入団時の成績は51人中4位だったそうです。
宝塚歌劇団41期生の扇千景さんは、1954年に「春の踊り」で舞台デビューを果たします。
ですが、宝塚歌劇団の意向で、八千草薫さんと共に新設された映画専科に編入することになります。同年に宝塚映画「快傑鷹 第一篇 蛟竜風雲の巻」で映画デビューし、以降テレビドラマや映画に出演し、1956年「夜霧の女」で盲目の少女ジェニイを演じ、新人演劇賞を受賞しました。
その後、1957年に歌舞伎役者の二代目中村扇雀(後の四代目坂田藤十郎)との結婚のため退団します。結婚後は芸能活動から遠ざかっていましたが、1959年放送日本教育テレビ(現:テレビ朝日)制作のテレビドラマ「君はいま何を見つめている」に出演し、第14回文部省芸術祭個人奨励賞を受賞し、再デビューします。
芸能界に復帰してからは映画やテレビドラマなどに多数出演しました。
再デビュー後の主な出演作品
1965年 NHK連続テレビ小説「たまゆら」
1968年 「大奥」
1971年 藤圭子 わが歌のある限り
1973年 百年目の恋
1974年 池田大助捕物日記
ワイドショー・情報番組
1973年~1974年 3時のあなたの司会
などなど。宝塚歌劇団から現在まで53作品に出演しています。
しかし、友人が勝手に願書を送った宝塚音楽学校を受験し、合格します。大学進学をあきらめさせた父への反発もあり、そのまま宝塚音楽学校に進学します。
大学へ進学したかっただけあり、宝塚歌劇団入団時の成績は51人中4位だったそうです。
宝塚歌劇団41期生の扇千景さんは、1954年に「春の踊り」で舞台デビューを果たします。
ですが、宝塚歌劇団の意向で、八千草薫さんと共に新設された映画専科に編入することになります。同年に宝塚映画「快傑鷹 第一篇 蛟竜風雲の巻」で映画デビューし、以降テレビドラマや映画に出演し、1956年「夜霧の女」で盲目の少女ジェニイを演じ、新人演劇賞を受賞しました。
その後、1957年に歌舞伎役者の二代目中村扇雀(後の四代目坂田藤十郎)との結婚のため退団します。結婚後は芸能活動から遠ざかっていましたが、1959年放送日本教育テレビ(現:テレビ朝日)制作のテレビドラマ「君はいま何を見つめている」に出演し、第14回文部省芸術祭個人奨励賞を受賞し、再デビューします。
芸能界に復帰してからは映画やテレビドラマなどに多数出演しました。
再デビュー後の主な出演作品
1965年 NHK連続テレビ小説「たまゆら」
1968年 「大奥」
1971年 藤圭子 わが歌のある限り
1973年 百年目の恋
1974年 池田大助捕物日記
ワイドショー・情報番組
1973年~1974年 3時のあなたの司会
などなど。宝塚歌劇団から現在まで53作品に出演しています。
フジカシングルエイト1965
via www.youtube.com
「わたしにも写せます」のフレーズが人気を集めた富士フイルムの8ミリカメラのCMです。
初々しいですね。
初々しいですね。
二代目中村扇雀の妻となる
via ja.wikipedia.org
扇千景さんと出会った頃の二代目中村扇雀は大スターでした。その頃は、扇千景さんは新人俳優だったんですね。
初めて出会ったのは、扇千景さんの映画の撮影現場だったそうです。
二代目中村扇雀が見学に来た時、扇千景さんは舞妓さんの格好で映画に出ていたのを見初められます。
扇千景さんは、新人俳優なうえ、アイドル並みの人気の中村扇雀さんのことを全然知らず、話しかけられても「へぇー」ってくらいだったそうなんです。
その後、映画で共演の回数が増えていき、なんと中村扇雀さんから夜ごとの電話でのアタックがスタート。
扇千景さんは、父親の反対がありながらも、時間をみつけてはデートを繰り返していました。
恋愛中にはすでに結婚の条件に、仕事を辞めるように言われていましたが、そうこうしているうちに妊娠。
シングルマザーになり、俳優を続けようと考えていましたが、作家の川口松太郎氏の仲立ちにより結婚へと至りました。
夫となった二代目中村扇雀さんは、なかなかの女性遍歴の持ち主であり、結婚してからもワイドショーや女性誌の話題となる女性問題を起こしています。
しかし、扇千景さんは、「彼は芸人ですから」と前置き後「女性にモテない夫なんてつまらない」と発言。懐の広さと芸人の妻の覚悟ができている方ですね。
初めて出会ったのは、扇千景さんの映画の撮影現場だったそうです。
二代目中村扇雀が見学に来た時、扇千景さんは舞妓さんの格好で映画に出ていたのを見初められます。
扇千景さんは、新人俳優なうえ、アイドル並みの人気の中村扇雀さんのことを全然知らず、話しかけられても「へぇー」ってくらいだったそうなんです。
その後、映画で共演の回数が増えていき、なんと中村扇雀さんから夜ごとの電話でのアタックがスタート。
扇千景さんは、父親の反対がありながらも、時間をみつけてはデートを繰り返していました。
恋愛中にはすでに結婚の条件に、仕事を辞めるように言われていましたが、そうこうしているうちに妊娠。
シングルマザーになり、俳優を続けようと考えていましたが、作家の川口松太郎氏の仲立ちにより結婚へと至りました。
夫となった二代目中村扇雀さんは、なかなかの女性遍歴の持ち主であり、結婚してからもワイドショーや女性誌の話題となる女性問題を起こしています。
しかし、扇千景さんは、「彼は芸人ですから」と前置き後「女性にモテない夫なんてつまらない」と発言。懐の広さと芸人の妻の覚悟ができている方ですね。
政界への進出
1977年第11回参議院選挙にて、自由民主党総裁福田赳夫や幹事長大平正芳らの要請を受け、公認候補として立候補し初当選しますが、当時タレント候補の一人と評されました。
1994年自民党を離党し、新生党に入党。同年12月新進党結党に参加します。
1995年第17回参議院議員通常選挙比例区で再選し、新進党解党後は小沢一郎率いる自由党結党に参画。自由党が自民党と連立を組んだことで再び与党議員となりました。
2000年与党連立政権を離脱。海部俊樹や野田毅、二階俊博ら25名の議員と保守党を結成し初代党首に就任したのです。
1994年自民党を離党し、新生党に入党。同年12月新進党結党に参加します。
1995年第17回参議院議員通常選挙比例区で再選し、新進党解党後は小沢一郎率いる自由党結党に参画。自由党が自民党と連立を組んだことで再び与党議員となりました。
2000年与党連立政権を離脱。海部俊樹や野田毅、二階俊博ら25名の議員と保守党を結成し初代党首に就任したのです。
via ja.wikipedia.org
2000年~2001年第二次森改造内閣で、建設大臣兼国土庁長官として初入閣し、中央省庁再編に備えて運輸大臣、北海道開発庁長官も兼務しています。初代国土交通大臣です。
via ja.wikipedia.org
扇千景さんは、タレント議員では収まらず、しっかりと大臣としての仕事を果たしています。
内閣支持率が低迷する只中、若築建設事件で接待を受けた建設官僚の名前を公表したり、三宅島噴火時には、全島民避難の指揮をとるなどしました。
扇千景さんは、建設畑は全くの未知でしたが、この機会を活かし、持論の「一閣僚一仕事」を全うしようと努力しました。入札に関する汚職の問題の解決に世界中の入札制度を調査させ、公共工事の入札の透明化を図りました。そして、公共工事入札契約適正化法法案が成立に至ったのです。
2007年次期参院選への不出馬と政界からの引退を表明。引退後、「夫と2人で互助新婚生活をしてみたい」と語ったのでした。
これまでの所属政党
自由民主党→新生党→新進党→自由党→保守党→保守新党→自由民主党
内閣支持率が低迷する只中、若築建設事件で接待を受けた建設官僚の名前を公表したり、三宅島噴火時には、全島民避難の指揮をとるなどしました。
扇千景さんは、建設畑は全くの未知でしたが、この機会を活かし、持論の「一閣僚一仕事」を全うしようと努力しました。入札に関する汚職の問題の解決に世界中の入札制度を調査させ、公共工事の入札の透明化を図りました。そして、公共工事入札契約適正化法法案が成立に至ったのです。
2007年次期参院選への不出馬と政界からの引退を表明。引退後、「夫と2人で互助新婚生活をしてみたい」と語ったのでした。
これまでの所属政党
自由民主党→新生党→新進党→自由党→保守党→保守新党→自由民主党
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