メジャー映画会社初のピンク映画
本作以前にも大手映画会社は古くからエロティックな映画や成人映画を作ってはいたがこれらの映画は基本的に会社の専属女優によるエロティックな場面が一部含まれるだけで、女優のヌードやセックスシーンがたくさん登場するということではなかった。
ところが1960年代に入り大蔵映画、国映などの独立プロがこうした性描写をメインとするエロ映画を量産し、これをピンク映画と呼ぶようになったが、大手五社がこのピンク映画に手を染めることは大きな抵抗感があった。
しかし東映の岡田茂プロデューサーは恥も外部もなく一線を越える。本作が大手映画会社初のピンク映画と呼ばれる理由は、東映専属の女優以外にピンク映画の女優を大量投入したことである(少数出演した映画はこれ以前にも数本ある)。大手映画会社専属の女優は簡単には脱いでくれなかった。岡田はこれらを当初「刺激性路線」とネーミングしていた。
これだけ女性の裸が満載の映画はこれ以前には無く、センセーショナルを呼んだ。
このため「女性を侮辱している」と婦人団体や評論家からバッシングを受けた。しかし結果的に話題にもなり奇跡の大ヒットを記録、3000万円の製作費でたちまち一億円以上稼いだといわれる。
岡田の所見は「予想よりおとなしい作品になった」という見方であったがこれはのどかな序の口に過ぎなかった。
石井は岡田の意図を大胆に表現、本作以降、ヌード、セックスだけでなく、サドマゾ、拷問、処刑等、グロテスクな描写を取り入れ、"異常性愛路線"をエスカレートさせていく。
『徳川女系図』と『徳川女刑罰史』の大ヒットを見てこの年、常務取締役企画製作本部長に就任した岡田茂は、1970年代半ばの実録映画の隆盛まで、任侠映画、実録映画とエロ映画の二本立て、三本立て興行の路線を敷く。
石井輝男監督の映画「徳川女刑罰史」(1968年公開)
(出典:Wikipedia「徳川女刑罰史」)
『徳川女系図』の大ヒット以降、大手他社も追随し、日本映画界にセックス旋風が吹き荒れた
他社への波及
大手映画会社である東映が成人映画に参入したことで、大映、松竹、日活も追随した。
『徳川女系図』の大ヒットの後、日活がまずお色気時代劇『女浮世風呂』(井田探監督)を制作し大ヒット、続けて『秘帳 女浮世草紙』(井田探監督)を制作。
大映は1968年の『秘録おんな牢』(井上昭監督)から始まる残酷エロチシズムを売り物にした「おんな牢もの」を連作した。
また当時の洋画ポルノ攻勢の影響も相まって、大映『ある女子高校医の記録 妊娠』(1968年、弓削太郎監督)、大映『浮世絵残酷物語』(1968年、武智鉄二監督)などのエロ映画が量産され、日本映画界にセックス旋風が吹き荒れた。
特に日活は一般映画の製作を中止し1971年11月から、ポルノ映画の制作のみとし「日活ロマンポルノ」を開始した。最初の作品は『団地妻 昼下りの情事』と、『色暦大奥秘話』で、「日活ロマンポルノ」は"大奥もの"と"団地妻もの"の両方をシリーズ化している。
日活は1971年11月から「日活ロマンポルノ」を開始
日活ロマンポルノとは、1971年から1988年にかけて日活(1978年に社名変更し、にっかつ)で製作された成人映画のこと。
1950年代後半、様々な悪条件下で映画製作を再開した日活は多くのヒット映画を送り出し、日本映画の黄金時代を支えた。
ところが、1960年代後半から次第に映画の観客数減少や経営者のワンマン体質などで経営難に陥り、映画製作が困難になった。
そこで、ダイニチ映配時代の中心作風だった「エロ路線」を前面に押し出し、かつ採算面から低予算で利益が上がるジャンルの作品として、成人映画を主体に変え、「日活ロマンポルノ」が誕生した。
当時の関係者の証言によれば、それまでの日活で製作した一般向映画よりも、収録期間や製作費などは半分以下であったという(実際、路線が発足したばかりの頃、社内ではロマンポルノは「小型映画」と仮称されていた)。
『団地妻 昼下りの情事』(白川和子主演)と、『色暦大奥秘話』(小川節子主演)が日活ロマンポルノの第1作
"ロマンポルノ"という言葉は、1971年7月に公開された東映ポルノ『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)で日本で初めて使われた"ポルノ"という言葉を拝借して作ったもの。
興行は通常は3本立て2週間興行の体制を基本とし、2本が自社製作、1本が買付け作品であったが、正月映画およびお盆映画は大作2本立てによるロングラン興行が行われた。
上映館は旧ダイニチ映配の崩壊後に日活系として残った旧来の「日活系」が主であり、これには日活の直営館だけでなく、傍系の太陽企業の経営による「日活系」映画館も含まれた。なお日活では、ロマンポルノの発足を機に、成人映画の上映に適した「ミニ劇場」の新設を全国で推進し始めた。
日活ロマンポルノのトップ女優「白川和子」
日活ロマンポルノのトップ女優「白川和子」の引退記念映画「実録白川和子 裸の履歴書」予告編(1973年) - YouTube
1971年に日活にスカウトされて移籍。「団地妻」シリーズで人気を得、日活ロマンポルノのトップ女優になった。
1973年 2月21日、自身の体験に基づいた引退記念映画『実録白川和子・裸の履歴書』(曽根中生監督、田中陽造脚色)が公開される。この作品は当時のロマンポルノオールキャスト作品として話題を呼んだ。
(出典:Wikipedia「白川和子」)