浜田光夫さん
12歳で映画1955年『石合戦』に出演して子役デビューした浜田さん。
この作品のオーディションで主役に選ばれ、新聞に名子役と紹介されますが、当時通っていた玉川学園の先生と『石合戦』の監督の若杉光夫監督と話し合って、学業に専念させるために、中学2、3年の頃に劇団四季の『永遠の処女』の初演のときに、どうしてもと頼まれて、セバスチャン役を演じた以外は、学校の演劇部で演技を続けます。
当時、玉川学園の演劇部は日本青年館での公演が恒例で、NHK教育テレビの中継が来ていたそうです。これは、『ぼくらが子役だったとき』の中山千夏さんとの対談で、浜田さんが語っています。
この作品のオーディションで主役に選ばれ、新聞に名子役と紹介されますが、当時通っていた玉川学園の先生と『石合戦』の監督の若杉光夫監督と話し合って、学業に専念させるために、中学2、3年の頃に劇団四季の『永遠の処女』の初演のときに、どうしてもと頼まれて、セバスチャン役を演じた以外は、学校の演劇部で演技を続けます。
当時、玉川学園の演劇部は日本青年館での公演が恒例で、NHK教育テレビの中継が来ていたそうです。これは、『ぼくらが子役だったとき』の中山千夏さんとの対談で、浜田さんが語っています。
via www.amazon.co.jp
1960年、高校2年生で『ガラスの中の少女』で吉永小百合さんの相手役として本格デビューします。この時、推薦をしてくれたのが、『石合戦』の若杉監督です。
浜田さんは、吉永小百合さんとのコンビで日活純愛路線で活躍し、1962年『キューポラのある街』で人気を博します。飲み屋で絡まれ殴られて、失明の危機がありましたが、それを乗り越えテレビの世界に活躍の場を移します。
1970年、佐々木守さん脚本の朝日放送製作(TBS系列)テレビドラマ『お荷物小荷物』で二枚目半の役を演じたのが転機となり、その後、浜田さんは、佐々木守さんが全話を担当した1972年のTBSで放送された宣弘社製作『アイアンキング』で、アイアンキングに変身する霧島五郎役を演じます。
『アイアンキング』の主役は、石橋正次さん演ずる弦の字こと静弦太郎で、浜田さんが演じた五郎はその相棒。三枚目でお人よしな五郎ですが、アイアンキングに変身する時の眼光の鋭さはカッコイイ。
浜田さんは、吉永小百合さんとのコンビで日活純愛路線で活躍し、1962年『キューポラのある街』で人気を博します。飲み屋で絡まれ殴られて、失明の危機がありましたが、それを乗り越えテレビの世界に活躍の場を移します。
1970年、佐々木守さん脚本の朝日放送製作(TBS系列)テレビドラマ『お荷物小荷物』で二枚目半の役を演じたのが転機となり、その後、浜田さんは、佐々木守さんが全話を担当した1972年のTBSで放送された宣弘社製作『アイアンキング』で、アイアンキングに変身する霧島五郎役を演じます。
『アイアンキング』の主役は、石橋正次さん演ずる弦の字こと静弦太郎で、浜田さんが演じた五郎はその相棒。三枚目でお人よしな五郎ですが、アイアンキングに変身する時の眼光の鋭さはカッコイイ。
via www.amazon.co.jp
浜田さんは失明の危機になった時に、俳優にとって一番大事な部分が駄目になったことにショックを受けたといいます。
これは、中山千夏さんの『ぼくらが子役だったとき』の対談本で語っています。
これは、中山千夏さんの『ぼくらが子役だったとき』の対談本で語っています。
中山)六四年には『愛と死をみつめて』が大ヒットしたんだけど、翌年、飲みに行った先でのアクシデントで眼球を三二針縫う大けがをしたよね。失明かって言われていた。
浜田)目は、「眼技」という言葉もあるくらいで、俳優にとって一番大事な部分。もう声優しかないかなって思っていたけど、「禍転じて福となす」をしんじてやらなきゃしょうがない。(後略)
子役、日活の青春スター、失明の危機を乗り越え、アイアンキングに変身する霧島五郎役を演じた浜田さん。
その高い演技力と力で今も輝いているスターの一人です。
その高い演技力と力で今も輝いているスターの一人です。
真田広之さん
via www.amazon.co.jp
5歳で劇団ひまわりに所属し、1966年に子役デビューします。
中学生でジャパンアクションクラブに入りますが、高校入学後学業に専念して一旦芸能界を離れ、1978年に映画『柳生一族の陰謀』で再デビュー。
1978年『宇宙からのメッセージ・銀河大戦』で映画版と同じ役、主演ゲン・ハヤトを演じ、宇宙忍者まぼろしに変身します。1984年には、『超電子バイオマン』に初代イエローフォーを演じていた矢島由紀さんの突然の失踪、降板によって、13話に特別ゲスト出演されています。
これは、当時、同じジャパンアクションクラブに所属されていた矢島さんの失踪による事務所側の制作会社東映に対してのお詫びの意味がありました。
その後、大河ドラマ、海外ドラマ、大ヒットした1993年にTBSで放送されたドラマ『高校教師』など数多くの映画、ドラマに出演され活躍していきました。
中学生でジャパンアクションクラブに入りますが、高校入学後学業に専念して一旦芸能界を離れ、1978年に映画『柳生一族の陰謀』で再デビュー。
1978年『宇宙からのメッセージ・銀河大戦』で映画版と同じ役、主演ゲン・ハヤトを演じ、宇宙忍者まぼろしに変身します。1984年には、『超電子バイオマン』に初代イエローフォーを演じていた矢島由紀さんの突然の失踪、降板によって、13話に特別ゲスト出演されています。
これは、当時、同じジャパンアクションクラブに所属されていた矢島さんの失踪による事務所側の制作会社東映に対してのお詫びの意味がありました。
その後、大河ドラマ、海外ドラマ、大ヒットした1993年にTBSで放送されたドラマ『高校教師』など数多くの映画、ドラマに出演され活躍していきました。
三ツ木清隆さん
via www.amazon.co.jp
1966年中学1年生で劇団日本児童に入団した三ツ木さんは、劇団日本児童所属時に1967年『光速エスパー』の主演オーディションを受けて合格します。
光速エスパーは、7つの力を持つ強化服を着て変身後も素顔がはっきりと見えるヒーローでした。
『光速エスパー』は東芝の依頼を受けて、漫画家あさのりじ先生がデザインをし、月刊『少年』に1966年より、雑誌が休刊されるまで連載されました。
『光速エスパー』が特撮番組として日本テレビで放送が始まったのは、1967年8月から。当時14歳。(三ツ木さんは1953年5月30日生まれ)1968年に再放送されると、松本零士先生によって、『少年ブック』『週刊少年ジャンプ』で漫画となりました。
光速エスパーは、7つの力を持つ強化服を着て変身後も素顔がはっきりと見えるヒーローでした。
『光速エスパー』は東芝の依頼を受けて、漫画家あさのりじ先生がデザインをし、月刊『少年』に1966年より、雑誌が休刊されるまで連載されました。
『光速エスパー』が特撮番組として日本テレビで放送が始まったのは、1967年8月から。当時14歳。(三ツ木さんは1953年5月30日生まれ)1968年に再放送されると、松本零士先生によって、『少年ブック』『週刊少年ジャンプ』で漫画となりました。
via www.amazon.co.jp
三ツ木さんは、その後も1973年『ウルトラマンタロウ』ZATの西田隊員、大河ドラマ1973年『国盗り物語』1977年『花神』1979年『草燃える』1988年『武田信玄』に出演、1974年『だいこんの花』、舞台では1976年『岸辺の母』などの数多くの特撮、時代劇、ホームドラマ、刑事ドラマ、舞台、映画で活躍していきました。
2010年11月には、遠藤実先生作詞・作曲の『季節の中で』のCDを出していて、歌手としても活躍されています。『季節の中で』は、国民栄誉賞を受賞された遠藤実先生の遺作となりました。
三ツ木さんは、今もなお、俳優、司会、歌手と幅広い活躍を続けています。
2010年11月には、遠藤実先生作詞・作曲の『季節の中で』のCDを出していて、歌手としても活躍されています。『季節の中で』は、国民栄誉賞を受賞された遠藤実先生の遺作となりました。
三ツ木さんは、今もなお、俳優、司会、歌手と幅広い活躍を続けています。
佐藤賢司さん
via www.suruga-ya.jp
1973年東宝で製作された『流星人間ゾーン』で、防人三兄弟の末っ子、防人明を演じて、ゾーンジュニアに変身した佐藤賢司さん。『流星人間ゾーン』に出演していた時は、10歳の小学生。
1967年にTBSで放送された刑事ドラマの草分け『七人の刑事』(1961年~1967年)「ひとはデカと呼ぶ」にゲスト出演。
1972年『ウルトラマンA』34話「海の虹に超獣が踊る」にユウジ少年役でゲスト出演しています。
他にも、時代劇などに出演し活躍されました。
1967年にTBSで放送された刑事ドラマの草分け『七人の刑事』(1961年~1967年)「ひとはデカと呼ぶ」にゲスト出演。
1972年『ウルトラマンA』34話「海の虹に超獣が踊る」にユウジ少年役でゲスト出演しています。
他にも、時代劇などに出演し活躍されました。
監督: 浦山桐郎