日本を代表する女性芸術家・草間彌生さん
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草間彌生さんの経歴
長野県松本市で種苗業を営んでいる両親の元に生まれ、裕福な環境で育った草間彌生さん。しかし、父親は放蕩し、母親はヒステリックで虐待を受けていたそうです。こうした家庭環境は幼い草間彌生さんを追い詰め、統合失調症という精神の病を患ってしまいました。満足な愛情を受けられなかった草間彌生さんは閉鎖的になり、その苦しみを絵に表現するようになります。
1945年、地元の高校を卒業すると、京都市立美術工芸学校の4年生最終課程に編入。ここで日本画を学びますが、形式・伝統にこだわる閉塞的な日本画壇には失望したと言います。翌年には、課程を終了して卒業した草間彌生さん。地元の長野県松本市に戻ると、寝る間を惜しんで絵を描くことに没頭しました。
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1952年、地元の松本市公民館にて2度の個展を開き、東京進出への足掛かりを作ります。
1954年には東京でも4回の個展を開くと、渡米する糸口を掴み、1957年には活動の場をニューヨークに移しました。このときに生涯の親友であり、後のパートナーとなるジョゼフ・コーネルさんと出会っています。
1954年には東京でも4回の個展を開くと、渡米する糸口を掴み、1957年には活動の場をニューヨークに移しました。このときに生涯の親友であり、後のパートナーとなるジョゼフ・コーネルさんと出会っています。
ニューヨークでは、絵画だけではなく、男性の性器をモチーフにしたオブジェの制作をしたり、”ハプニング”といわれる全裸にペイントアートを施したスタイルでのパフォーマンスを積極的に行なって知名度を高めていきました。
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1966年にはイタリアのヴェネチアで開催されている現代美術の国際博覧会ヴェネツィア・ビエンナーレに参加すると、『前衛の女王』の異名で知られるようになり、平和・反戦運動にも積極的に取り組みます。
1973年、親友であり、パートナーだったジョセフ・コーネルさんが死去。精神的ダメージから立ち直れず、体調を崩して、日本で入院生活を送るようになりました。
1973年、親友であり、パートナーだったジョセフ・コーネルさんが死去。精神的ダメージから立ち直れず、体調を崩して、日本で入院生活を送るようになりました。
1978年からは小説を書くようになり、著書『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表します。
その後、1983年には『クリストファー男娼窟』、1984年には『聖マルクス教会炎上』などのタイトルを発表して、小説家としても数々の作品を生み出しました。
その後、1983年には『クリストファー男娼窟』、1984年には『聖マルクス教会炎上』などのタイトルを発表して、小説家としても数々の作品を生み出しました。
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1990年代に入ると、草間彌生さんは芸術家として活発さを取り戻し、日本代表として再びヴェネツィア・ビエンナーレに参加。これによって草間彌生さんは再び注目されるようになり、世界的なアーティストとして確固たる地位を獲得しました。ファッションブランドとの共同コレクションも手掛けるようになり、現在は商業といった分野でも積極的に活動しています。
草間彌生さんのアートの特徴
水たまが意味するもの
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しかし、彼女にとって、水たまが意味するものは一般的なイメージとは異なります。
不遇な幼少期を過ごしてきた草間彌生さんにとって、絵を書くことは、統合失調症による幻覚・幻聴から身を守るといった効果があったそうです。すなわち、水たまは、魔除けの模様といった意味をもっているのです。
不遇な幼少期を過ごしてきた草間彌生さんにとって、絵を書くことは、統合失調症による幻覚・幻聴から身を守るといった効果があったそうです。すなわち、水たまは、魔除けの模様といった意味をもっているのです。
カボチャが意味するもの
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性的表現に込められた想い
ニューヨークで活動していた頃、”ハプニング”と呼ばれる全裸にペイントアートを施したスタイルで注目を集めた草間彌生さん。当時は、芸術として認めてくれる階層はいたものの、奇をてらったパフォーマンスだと多くのバッシングを受けました。
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それでも彼女は自分自身のスタイルを貫いています。その理由は、男女差別や、金儲けが優先される資本主義の否定といった想いが込められていたようです。
私たちも日本人にも、下ネタとして、性的表現を避ける文化があります。しかし、生物としての本能を抑圧するかのような文化は、争いを生み出す遠因になっているということを主張したかったのですね。
私たちも日本人にも、下ネタとして、性的表現を避ける文化があります。しかし、生物としての本能を抑圧するかのような文化は、争いを生み出す遠因になっているということを主張したかったのですね。
出生地 :長野県松本市
職業 :芸術家
活動期間:1952年~