はじめに
特撮監督という役職が生まれたのは、1940年頃、円谷英二が特撮カットの多い映画を撮影する際に1つの映画を2人の監督が演出する方法をとったことからでした。
この特撮監督は東宝や円谷プロで多く用いられ、現在も受け継がれています。
さて、そんな特撮監督と代表作を見て行きたいと思います。
この特撮監督は東宝や円谷プロで多く用いられ、現在も受け継がれています。
さて、そんな特撮監督と代表作を見て行きたいと思います。
円谷英二と「ゴジラ」
円谷英二(つぶらや えいじ)1901年7月生まれ。
特殊撮影技術の第一人者であり、特撮映画界に多大な功績を残したことから「特撮の神様」とも呼ばれています。円谷プロダクション初代社長でもあります。
特殊撮影技術の第一人者であり、特撮映画界に多大な功績を残したことから「特撮の神様」とも呼ばれています。円谷プロダクション初代社長でもあります。
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1954年公開のシリーズ第1作「ゴジラ」でのクレジットは「特殊技術 圓谷英二」となっており、初めて特技監督としてクレジットされたのは「ゴジラの逆襲」です。
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有川貞昌と「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」
有川貞昌(ありかわ さだまさ)1925年6月生まれ。
円谷英二の愛弟子です。
1945年東宝で女優を務めていたいとこを介して東宝に入社。技術部音響技術課(録音課)に配属されました。しかし東宝撮影所は政治闘争の場となっていて、映画撮影どころではなくなっていたのでした。そんな時、戦時中に見て感動した「電撃隊出動」の撮影者である円谷英二を訪ね、意気投合。1948年に東宝を退社し、円谷に誘われ特殊技術研究所の撮影助手となりました。
円谷英二の愛弟子です。
1945年東宝で女優を務めていたいとこを介して東宝に入社。技術部音響技術課(録音課)に配属されました。しかし東宝撮影所は政治闘争の場となっていて、映画撮影どころではなくなっていたのでした。そんな時、戦時中に見て感動した「電撃隊出動」の撮影者である円谷英二を訪ね、意気投合。1948年に東宝を退社し、円谷に誘われ特殊技術研究所の撮影助手となりました。
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1953年「太平洋の鷲」で特撮パートのカメラマンを務めてから、「ゴジラ」などカメラマンとして数々の特撮作品を手がけました。1965年の「ウルトラQ」2話目で特技監督としてデビューしました。1966年には「ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘」で円谷に代わって特撮演出のほとんどを務め、翌年の「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」で正式に特技監督の役職を得ることとなったのです。
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矢島信男と「宇宙からのメッセージ」
矢島 信男(やじま のぶお)1928年7月生まれ。特撮研究所創業者です。
ジョン・フォード監督の「ハリケーン」を観たことから特殊技術に興味を持ち、松竹の特殊技術課で撮影監督を務めていた川上景司へ師事。1959年東映へ移籍し、1965年には新しい技術を研究するため、特撮研究所を設立しました。
1978年の「宇宙からのメッセージ」は本編監督が深作欣二で、特撮監督に矢島信男を単独クレジットとした作品です。1970年代後半からの東映テレビ特撮作品は特撮班が常駐せず、初期の数話や番組の節目にあたる重要な回や劇場版のみ矢島が特撮の演出をするシステムになり、クレジットも特撮研究所の名前と主要スタッフ数名となっていて、演出担当の矢島の名前がクレジットされていない作品が多くあります。
ジョン・フォード監督の「ハリケーン」を観たことから特殊技術に興味を持ち、松竹の特殊技術課で撮影監督を務めていた川上景司へ師事。1959年東映へ移籍し、1965年には新しい技術を研究するため、特撮研究所を設立しました。
1978年の「宇宙からのメッセージ」は本編監督が深作欣二で、特撮監督に矢島信男を単独クレジットとした作品です。1970年代後半からの東映テレビ特撮作品は特撮班が常駐せず、初期の数話や番組の節目にあたる重要な回や劇場版のみ矢島が特撮の演出をするシステムになり、クレジットも特撮研究所の名前と主要スタッフ数名となっていて、演出担当の矢島の名前がクレジットされていない作品が多くあります。
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中野昭慶と「日本沈没」
中野 昭慶(なかの てるよし)、1935年10月生まれ。
1959年、東宝に入社し、助監督部で本多猪四郎の下についていましたが、1962年、円谷英二の指名を受け「妖星ゴラス」から東宝特殊撮影技術班の助監督となり、「キングコング対ゴジラ」より本格的に特撮撮影参加します。
1970年代以降の東宝製作の特撮映画の特撮監督として活躍し、1971年に東宝の特技監督に就任します。「ゴジラシリーズ」などのSF・怪獣映画や「日本沈没」などのパニック物、「連合艦隊」、「大日本帝国」などの戦争物、「火の鳥」をはじめとするファンタジー映画など、様々なジャンルを演出しました。
1973年に「日本沈没」で特技監督として初めてクレジットされ、同作品はアジア映画祭の特殊技術賞を受賞し、「東京湾炎上」「ノストラダムスの大予言」「地震列島」などで東宝パニック映画というジャンルを築きあげました。
1959年、東宝に入社し、助監督部で本多猪四郎の下についていましたが、1962年、円谷英二の指名を受け「妖星ゴラス」から東宝特殊撮影技術班の助監督となり、「キングコング対ゴジラ」より本格的に特撮撮影参加します。
1970年代以降の東宝製作の特撮映画の特撮監督として活躍し、1971年に東宝の特技監督に就任します。「ゴジラシリーズ」などのSF・怪獣映画や「日本沈没」などのパニック物、「連合艦隊」、「大日本帝国」などの戦争物、「火の鳥」をはじめとするファンタジー映画など、様々なジャンルを演出しました。
1973年に「日本沈没」で特技監督として初めてクレジットされ、同作品はアジア映画祭の特殊技術賞を受賞し、「東京湾炎上」「ノストラダムスの大予言」「地震列島」などで東宝パニック映画というジャンルを築きあげました。
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高野宏一と「ウルトラマン」
高野 宏一(たかの こういち)1935年8月生まれ。
1954年に東宝へ入社。翌年から円谷組の特撮班のカメラマン助手を務めましたが、1960年にフリーの撮影助手となります。1963年に「円谷特技プロダクション」設立に伴い、撮影技師として入社。
1964年の日活映画「太平洋ひとりぼっち」で特撮カメラマンとしてデビューしました。1966年「ウルトラマン」製作第4話で特技監督としてデビューしました。
1954年に東宝へ入社。翌年から円谷組の特撮班のカメラマン助手を務めましたが、1960年にフリーの撮影助手となります。1963年に「円谷特技プロダクション」設立に伴い、撮影技師として入社。
1964年の日活映画「太平洋ひとりぼっち」で特撮カメラマンとしてデビューしました。1966年「ウルトラマン」製作第4話で特技監督としてデビューしました。