ミス・ユニバース日本代表・飯野矢住代の生い立ち
飯野矢住代は、1950年3月9日東京都文京区駒込に生まれる。母は、未婚で妾。矢住代は父の居ない私生児だが、幼い頃は裕福だった。しかし、9歳のとき父の会社の事業が悪化して、転居を繰り返した。1960年からは渋谷区円山町で育ち、母は芸者に復帰した。
美貌を武器に、芸能界に進出
1965年、中学校を卒業した矢住代は高校には進学せず、ファッションモデルのアルバイトで家計を助けた。15歳で夜遊びを覚え、六本木や赤坂などの夜の街に出かけるようになる。飯倉にあった芸能人御用達のイタリアンレストラン「キャンティ」で業界関係者と知り合う機会に恵まれ、1966年には初代ジャニーズ(真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦)の付き人になった。
『初代ジャニーズ』ジャニーズの歴史、第一号のグループ!グループ・サウンズ時代にデビューしたメンバーたち
『初代ジャニーズ』は、ジャニーズ事務所第1号のアイドルグループです。郷ひろみやフォーリーブスがデビューする前、60年代に4人のメンバーでデビューしています。
飯野矢住代は中学の終わり頃から作詞を始めているが、わずか1年余りで、オリベゆり名義で作詞した作品が、1966年7月1日にリリースされたザ・スパイダースの6枚目のシングル『サマー・ガール』のB面『なればいい』に採用される。16歳の矢住代はモデルで作詞家の肩書き手に入れた。
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恋人は、ザ・タイガースの加橋かつみ
1968年2月頃にザ・タイガースの加橋かつみ(愛称:トッポ)と交際をはじめる。矢住代と恋人の加橋かつみを連れ夜遊びを続けた。その結果、加橋の行動が原因でタイガース内に軋轢が生じ始めた。加橋は、1969年3月にザ・タイガース脱退した。
ザ・タイガース
1968年5月15日リリース『世界はボクらを待っている』
右下:加橋かつみ
中央:沢田研二
ザ・タイガース 世界はボクらを待っている
2007/10/26 [DVD]発売
ザ・タイガース(沢田研二 (出演), 加橋かつみ (出演), 和田嘉訓 (監督) 形式: DVD
右下:加橋かつみ
中央:沢田研二
ザ・タイガース 世界はボクらを待っている
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ザ・タイガース(沢田研二 (出演), 加橋かつみ (出演), 和田嘉訓 (監督) 形式: DVD
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ミス・ユニバース日本代表に
飯野矢住代の身長169cm、体重:51kg、B:84cm、W:60cm、H:90cm、当時の日本人にしては、長身だった。1968年(昭和43年)日本人離れしたプロポーションを活かしミスコンに応募、全国2800人の応募者の中からミス・ユニバース日本代表に選ばれる。
当選した時の挨拶で「私は二号さんの娘です」と私生児である生い立ちを語りはじめ、物議を醸した。日本代表にふさわしくない「妾の子」とバッシングを受けた。また、加橋かつみとの交際も問題視された。ミス・ユニバース日本委員会から渡航費を負担しないと告げられ、出場辞退を迫られる。矢住代は渡航費を工面するために奔走するが、結局は無駄だった。そんな時、銀座で銀座で最高級クラブ「姫」を経営する作詞家の山口洋子が、矢住代を二百万円の契約金でホステスとしてスカウトした。
「ミス・ユニバース1968」世界王者
1968年7月13日にアメリカのマイアミビーチで行われたミスユニバース世界大会。
64人の候補者の中から栄冠を獲得したマーサ・バスコンセロス、1948年6月18日 ブラジル出身。
64人の候補者の中から栄冠を獲得したマーサ・バスコンセロス、1948年6月18日 ブラジル出身。
同年7月、飯野矢住代は、母と二人でフロリダ州・マイアミビーチで行われたミス・ユニバース1968に出場。特別賞『ミス・アミティ(親善)』を受賞している。
ミス・ユニバースが、ジャニーズ事務所に入所
ミス・ユニバース世界大会から帰国後、ジャニーズ事務所に女性所属タレント第1号として所属した。「ミス・ユニバース」の肩書でモデルの仕事が入り、グラビアに登場する機会も増え、順調だった。テレビドラマ『プレイガール』の第18話や、映画『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』に出演した。昼は芸能活動をし、夜は銀座でホステスとして働いた。
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ホテル街に隣接した花街の外れには、昭和レトロな木造アパートがある。