4人組ガールズグループ「セイントフォー」
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「セイントフォー」ヒストリー
1984年11月「不思議Tokyoシンデレラ」でデビュー。
同期デビューに浅香唯、石野陽子、大西結花、工藤夕貴、斉藤由貴、佐野量子、中山美穂、橋本美加子、本田美奈子、松本典子、南野陽子、森口博子、芳本美代子などなど、そうそうたるメンバーが揃っていました。
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同時に主演映画『ザ・オーディション』が公開される。
「セイントフォー」のデビュープロジェクトには40億円かかったといわれ、当時かなり話題となりました!
まあ、これは誇大宣伝で、実際は数億だったとかいう話ですが、それでも莫大な額ではありますね。
映画自体は、アイドル映画にありがちな十代の客層に向けたファンタジーではなく、年末のテレビ歌謡祭の内幕を暴露するなど、芸能界の暗部を真剣に糾弾した実録風の内幕映画でした。
まあ、これは誇大宣伝で、実際は数億だったとかいう話ですが、それでも莫大な額ではありますね。
映画自体は、アイドル映画にありがちな十代の客層に向けたファンタジーではなく、年末のテレビ歌謡祭の内幕を暴露するなど、芸能界の暗部を真剣に糾弾した実録風の内幕映画でした。
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SAINT FOUR - Fushigi Tokyo Cinderella - YouTube
デビュー曲の「不思議Tokyoシンデレラ」。
今見てもカッコいい☆キレッキレのパフォーマンス!
今見てもカッコいい☆キレッキレのパフォーマンス!
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セイントフォー / 太陽を抱きしめろ - YouTube
2ndシングル「太陽を抱きしめろ」(1985年3月21日発売)
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トラブルとメンバー交代
しかし、3rdシングルをリリースする際に、所属事務所(日芸プロジェクト)とレコード会社(リバスター音産・橋幸夫副社長)の間でプロデュース方針の違いによるトラブルが発生。それまでの派手なパフォーマンス路線を続けたい事務所側に対して、正統派アイドル路線に方針を切り替えたいレコード会社側が対立。結局、セイントフォー以外に知名度のあるタレントが所属していない弱小プロダクションである日芸がリバスター側の圧力に負け、路線変更した3rdシングル「ハイッ!先生」を発売。この曲は売り上げが伸びず、わずか2ヶ月後に(当時としては異例)元の路線に戻した4thシングル「ハートジャックWAR」をリリースする。またこの頃、印税の未払い問題でも日芸とリバスターがもめ、後に裁判沙汰になる。さらにリバスターがセイントフォーの引き抜きを画策していたことも発覚。その後、日芸とリバスターの間の問題は、リバスターが引き抜き問題の責任者を解雇し、契約解除を了承することで一旦は和解することになる。
再スタートにむけて新曲や全国ツアーの日程を発表し活動を再開するが、リバスター側が事態を再燃させ、契約解除を拒否。当然ながら、契約を続けたからといってリバスター側が新曲の発売を了承したわけではないから、新曲は宙に浮き、ツアーも中止という事態に・・・そして、メディアへの露出も減り、人気も一気に下降していった。(当時のアイドルは歌番組以外の番組に出る機会が少なく、事務所に力があるか、レギュラー番組でもないかぎりは、新曲をリリースすることでメディアへの出演の機会を得て、人気を維持していた。)
この当時セイントフォーのメンバーは、ライブなどの活動を行っているが、元々経営状態の良くない事務所は、さらに状況を悪化させ、社員の給料も遅れがちになる。
このような実情を事務所のスタッフから聞かされていた一部のメンバー(沙織と裕三子)のうち、一番人気の裕三子が(当時、世間では範子の方が評判は高かったが、ファンクラブの会員の間では裕三子ファンが圧倒的に多かった)、そんな状況に見切りをつけ、「学業に専念し進学する」という理由でセイントフォーを脱退し事務所を去る。しかし、その後すぐ「元セイントフォー」という看板を掲げて別事務所からグラビアデビューし、引き抜きが発覚する。この事態にメンバーや事務所のスタッフに大きな衝撃が走る。マスコミへの露出がない中で裕三子が「元・・・」の看板で世間に出るということは、セイントフォーの存在自体を誤解されることにもなりかねないし、それ以上に、信頼していた仲間に裏切られた形になったメンバーのショックは相当なものだった。
この緊急事態に事務所は、当時セイントフォーのメンバーの後輩で、ソロデビューに向けてレッスンしていた、いわお潤(現・岩男潤子)を急遽メンバーに加え、新たなセイントフォーとして活動を再開する。がしかし、このころの日芸とリバスターの関係は泥沼化し、裁判沙汰にまで発展していた。レコード(CD)は出せない、マスコミでの話題は裁判のことばかり(メンバー交代のことですら、取り上げられることがほとんどなかった)、こうした逆境の中、メンバーの4人は、全国ツアーなどの活動を精力的に行っていた。(この当時のコンサートを見に行ったが、残念ながら客席には空席が多かった)こんな状況で事務所は、大きな賭けに出る。レコード会社移籍成立後のプロモーションの目玉商品として映画「やるときゃやるぜ!~COME BACK HERO~」の製作である。しかし結局、裁判に決着がつかず、上映のめどが立たなかった。そんな中でまたしてもトラブルが発生する。ある事情で潤が事務所を去り、事実上脱退してしまう。(事務所側は公表せず)
板谷祐三子(左)がセイントフォーを脱退
レコードは出ないものの、ライブハウス等で精力的に活動を続けていたセイントフォー(彼女たちに残された活動の場はもうライブしかなかった)に事件が起きました。メンバー中、一番若く人気もあった板谷祐三子が他事務所に引き抜かれてしまったのです。
そのため急遽、“セイントフォーの妹分”としてソロデビューする予定だったいわお潤をメンバーに加え、新生セイントフォーが誕生します。
そのため急遽、“セイントフォーの妹分”としてソロデビューする予定だったいわお潤をメンバーに加え、新生セイントフォーが誕生します。
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いわお潤(左)の加入した“新生セイントフォー”
■いわお潤
本名、岩男潤子。1970年2月18日生まれ。血液型AB型。大分県出身。
※板谷脱退後に加入し、またグループ解散声明前に脱退。
(出典:wikipedia)
本名、岩男潤子。1970年2月18日生まれ。血液型AB型。大分県出身。
※板谷脱退後に加入し、またグループ解散声明前に脱退。
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そして、解散…「セイントフォーは不滅です!」
しかし板谷祐三子の抜けた穴は大きく、またレコードを出せない状況にも変わりはなく、人気は一気に下降線へ。テレビにもほとんど出なくなってしまう…。
そしてついに1986年12月のライブで解散宣言。翌87年1月18日、日仏会館での解散ライブ。このライブは異様な雰囲気でした。第一部の開場が電気系統の故障で1時間以上遅れたのですが、誰一人その場を後にせず、抗議をすることさえせずに、みんなじっと並んでました。会場は満席、最初から全開モードで2時間半歌いっぱなし、MCさえほとんどなかったです。3人しかいませんでしたが、彼女たちとファンが一体になった最高のライブでした。この日を最後にセイントフォーとしての活動はピリオドをうちますが、この年に東宝が救済に立ち「やるときゃやるぜ!~COME BACK HERO~」の上映が実現し、ビデオも発売されました。
1987年、東宝が救済にたって、再出発に向けて準備をしていた映画『やるときゃやるぜ!!〜COME BACK HERO〜』の公開、テレビ放映、ビデオ発売を表明し実現した。このことを受けて岩間は「セイントフォーは不滅です!」と、涙ながらに語った。
■板谷祐三子
1968年3月5日生まれ。血液型A型。神奈川県出身。コーラス&バックダンス担当。技はバック転(のちに前方倒立回転に変更)。イメージカラーは赤。称号:パッショネート・ユミコ
■浜田範子
1965年2月22日生まれ。血液型A型。埼玉県出身。リードボーカル担当。技は後方宙返り。イメージカラーはピンク。称号:ドラマティック・ノリコ
■鈴木幸恵
1966年5月15日生まれ。血液型A型。神奈川県出身。リードボーカル担当。技はピルエット。イメージカラーは青。称号:エキサイティング・ユキエ
※二代目リーダー。デビューから解散まで務めた。
■岩間沙織
1964年7月7日生まれ。血液型O型。神奈川県出身。コーラス&バックダンス担当。技は側宙。イメージカラーは緑。称号:ファッショナブル・サオリ
※初代リーダー。グループ結成時からデビューするまでの2年間を務めた。
(出典:wikipedia)