年賀状といえば「プリントゴッコ」でした
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「プリントゴッコ」の仕組み
「プリントゴッコ」の仕組み
版画におけるスクリーンとは、布のように細かい網目状の薄いシートの構造をした品を指し、プリントゴッコのマスターのシート部分には、ある一定以上の熱で溶ける特殊な化学薬品が薄く塗ってあり、厚紙のフレーム枠で固定されている。なお、プリントゴッコ本体は、製版および印刷の両機能を備えている。
製版は、フラッシュランプを装着したランプハウスと呼ばれるパーツを用いて発光させるため、単3形乾電池が二個必要である。原稿とマスターが密着するよう本体にセットし、フラッシュランプを光らせると、閃光によって発生した熱により、マスターにはカーボンを含む筆記具で書かれた部分のみが転移して、同時に版面に塗布された化学薬品を溶かすため、細かい網目だけが残る。この溶けた部分にのせたインクが通過して印刷が可能となる。
印刷は、製版でフラッシュバルブの熱で溶けた部分に専用インクをのせたマスターを本体にセットし、上から紙に押し当てる(プレスする)と、インクが網目から染み出るように出てくることで実現するため、ガリ版や他の版画で使用するローラーや、スクリーン印刷で必須のスクイージー(英: squeegee)は不要である。メリットとして、印刷時にマスター面でインクの流動が抑えられるため、一枚のマスターでグラデーションのように多色を並べるなどが可能である。
しかし、多少なりとインクの混合は避けられず、回避策としてインクが通らない部分に、粘着剤がついた薄いスポンジ状のシートを貼って区切ることで混ざらずに多色刷りができる。これに対し、シルクスクリーン印刷はローラーもしくはスクイージーを用いるため、インクの位置がずれていき多色刷りには向かず、一色毎に一枚のスクリーンを使用するのが一般的である。
やさしく使う プリントゴッコ PG-10 基本編 - YouTube
「プリントゴッコ」の普及
世界累計で1,050万台も販売された「プリントゴッコ」
その後、名刺サイズやB5サイズ、布に印刷できる機種が発売され、特に前者はアマチュア無線において交信の証拠として交換するQSLカード作成用や、オリジナルのハンドメイドの便せん、封筒や同人誌制作でも多く使われた。
なお、発売当初は、マスターの仕様により、繊細な表現は不得手とされていたが、後年、改良されて網目が細かくなったハイメッシュマスターとそれに対応したインクが開発され、本格的シルク印刷に近い細かな精度の印刷が可能となった。他にも、専用フォトスクリーンの登場で、イラストのみでなく写真データを原稿に使用できるようになった。
また、インクの色数も増えたことで飛躍的に表現力や応用性が向上し、三原色に分解した網点原稿を3つ重ねて印刷することで擬似的に分版フルカラー印刷を実現するセットや素材集、簡易スタンプ作成キットや、布印刷に対応したキットなども発売された。
最盛期には年賀状印刷の定番となり、年末になるとTVコマーシャルはもちろん文具店や量販店に山積み販売されるほどの人気商品に登りつめ、 1987年(昭和62年)に年間最多の72万台を売上げた。累計売上台数は日本を含めた全世界で1050万台。
パソコンやワープロを使った年賀状作成が台頭
電子メールの普及で、年賀状文化自体が衰退⇒プリントゴッコ事業の終了へ
プリントゴッコも印刷速度やコストではインクジェットプリンターに見劣りするものではなかったが、やがて市場は逆転することになった。 それでもプリンターでは表現出来ないタッチや発色における根強い人気は健在で、金色・銀色・蛍光色などの特殊インクはインクジェットプリンターでは実現不可のためあえて組み合わせたり、エンボスパウダーを用いた特殊効果など、独自の表現をセールスポイントにして販売は続けられた。
しかし、電子メールが普及したことで、日本の年賀状文化そのものの急激な衰退が決定打となり、プリントゴッコの需要の減少傾向は最早コントロール不可となった事で2008年(平成20年)6月末に本体の販売を終了した。なお、インク、フラッシュランプなどの消耗品の販売はその後も継続していたが、2012年(平成24年)12月28日にプリントゴッコに関連する事業の全てを終了した。
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歴代の「プリントゴッコ」をみていきましょう
以降の「プリントゴッコ」製品についてまとめていきます。
アナログ、デジタル及び対応サイズや紙、布等用途に合わせた数機種のラインナップが存在する。
独特のネーミングは、当時の理想科学工業社長である羽山昇により、「子ども達が家庭で印刷ごっこを楽しむ姿を思い描いて」名付けられた。社内で異論もあったが、羽山の「ごっこ遊びこそ知育の源泉」との説得により決定した。