オランダの名選手、ヨハン・クライフ氏が死去
オランダ代表などで活躍したヨハン・クライフ氏が死去した。68歳だった。
クライフ氏は昨年10月、肺がんを患ったことを発表していた。だが、本人は闘病に意欲的で、今年2月には「前半2-0でリードしている」と気丈に話していた。
同氏の公式サイトは、同氏が24日に家族に見守られながら、バルセロナで死去したと伝えた。詳細は伝えず、悲しみに沈む遺族のプライバシーを守ってほしいと記している。
※2016年3月24日
ヘンドリック・ヨハン・クライフは、1947年アムステルダムで産まれ、FCバルセロナの監督を務めた後、同フットボールクラブの名誉会長に就任。
クライフはアヤックス・アムステルダムで10シーズンプレーしたのち、1973年にFCバルセロナに移籍、1978年まで在籍した。
バロンドールを1971年、1973年、1974年に受賞。
1984年に現役を退いたのち、アヤックスに監督として就任後、FCバルセロナで監督の任に就いた。
国際サッカー歴史統計連盟では、ヨーロッパで最高の選手、20世紀において2番目に優秀な選手として認識されている。
異名は「フライング・ダッチマン」
リヒャルト・ワーグナーの楽劇「さまよえるオランダ人」に由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」など、様々なニックネームを持つ。
※エル・サルバドール=救世主の理由は、在籍していた市民クラブのFCバルセロナがカタルーニャのシンボルとなっていた民族的な背景があります。
特に中央集権政治である首都マドリードへの対抗意識があり、サッカーでは「エル・クラシコ」と呼ばれるダービーマッチが有名ですね。
チームの中心となっていたクライフは、常にサポーターの期待と注目を浴びていました。
特に中央集権政治である首都マドリードへの対抗意識があり、サッカーでは「エル・クラシコ」と呼ばれるダービーマッチが有名ですね。
チームの中心となっていたクライフは、常にサポーターの期待と注目を浴びていました。
「トータルフットボール」の中心人物
ボール狩り(現代戦術のフォアチェック)、オフサイドトラップを多用し、ポジションに縛られないワイドでスペクタクルなサッカーを展開した1974年W杯のオランダ代表がそれである。
この時のオランダ代表は、1969年からヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)に5年の内4度決勝進出(1971~1973年は優勝)していたアヤックス・アムステルダムと1970年優勝のフェイエノールトの中心選手で構成されており、高い技術、戦術眼を持ち合わせた選手が揃っていた。
特にアヤックスの中心選手であったヨハン・クライフの存在は大きく、彼なしではトータルフットボールは完成しなかったと言っても過言ではない。
伝記「ヨハン・クライフ」の著者ミゲル・アンヘル・サントスはこう例えています。
「オーケストラに例えてみよう。ミケルスが指揮者でクライフがソリスト。その他のプレーヤーはオーケストラを構成するメンバーと言えるのではないだろうか」
一般には、「ポジションに関係なく、全員攻撃、全員守備を行う戦術で、無尽蔵の体力と非常に高いレベルでのポジションの流動性を必要とする。」といった認識でしょうか。
更には、「常にイニシアティブ(主導権)を握る事」や「ディフェンスの攻撃参加よりもオフェンスの守備参加の方が難しく、危険がある事に注意しないといけない。」等、様々な条件がありました。
それらをまるでソリスト(バレエにおいて、一人で踊る主役級の人物の事)のようにこなしていたのが、ヨハン・クライフでした。
更には、「常にイニシアティブ(主導権)を握る事」や「ディフェンスの攻撃参加よりもオフェンスの守備参加の方が難しく、危険がある事に注意しないといけない。」等、様々な条件がありました。
それらをまるでソリスト(バレエにおいて、一人で踊る主役級の人物の事)のようにこなしていたのが、ヨハン・クライフでした。
クライフが解説するトータルフットボール
ワールドカップサッカー 英雄列伝7 ヨハン・クライフ 1/2 - YouTube
via www.youtube.com
指導者としても成功を収めた
アヤックスで指導者のスタート!
クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプやアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。
アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。
この大会で決勝進出を果たすと1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツの1.FCロコモティヴ・ライプツィヒ(英語版)をファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。
FCバルセロナで名将としての地位を確立
クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた。
在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇 (1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94) 、コパ・デル・レイ優勝1回 (1989-90) 、スーペルコパ優勝3回 (1992, 1993, 1995) 、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回 (1991-92) 、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回 (1988-89) を成し遂げた。