清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督2 「ULTIMATE CRASH」
2017年2月6日 更新

清宮克幸 早稲田大学ラグビー部監督2 「ULTIMATE CRASH」

2001年度の全国大学選手権決勝で関東学院大学に敗れた清宮ワセダは、「ULTIMATE CRASH(アルティメットクラッシュ)」を掲げ、爆発。 早稲田大学ラグビーが通った後はぺんぺん草も生えないような、究極的な強さを目指し、2002年度の全国大学選手権決勝戦で、関東学院を破って、13シーズンぶりに全国大学選手権で優勝した。 そして早稲田ラグビーフィーバーが始まった。

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山下大悟

山下大悟

山下大悟

2002年1月12日、早稲田大学ラグビー部は全国大学選手権決勝戦で 関東学院大学に敗れた。
清宮克幸早稲田大学ラグビー部監督は、次シーズンのキャプテンに、山下大悟を指名した。
山下大悟は、去年の春、雨でグラウンドコンディションが悪いなか、踏ん張ろうとして左脚の靭帯を伸ばしてしまった。
勝ち気の強い山下はそれでも練習の最後のグラウンド3週走を本気で走った。
彼のその性格のおかげで怪我は悪化し、翌日の病院で受けた診断は全治2ヶ月。
病院は手術をすすめたが、山下は手術せずトレーニングで治していくことにした。
そして患部を治すトレーニング+アジリティ(敏捷性)を向上させるトレーニングをすることを決めた。
具体的にはラダー(ハシゴ型のマス)のマス目をステップして駆け抜けたり、ボールの周りを8の字やXの字に回った。
山下は元来、体格に恵まれていたが、敏捷性獲得に取り組んだことで、復帰したときは細かい動きができ、立ち上がりのスピードやバランス感覚などを向上させた。
この怪我の功名ぶりが並みの選手ではないところである。
また山下は、熱い人間で、試合前日に感情が抑えきれず部員の前でも泣いてしまうような男だった。
ラグビーは試合中に監督が指示を出すことができないので、常にグランドに立てて戦術眼に優れ、リーダーシップを発揮する人間でなければならない。
清宮は、山下に
「練習メニューやスキルの関しては、監督の仕事。
キャプテンの仕事は、多くの部員に背中で進むべき道を示すことだ。」
といった。
そして2002年の目標は「大学日本一(全国大学選手権優勝)だった。

奥克彦

奥克彦(右)

奥克彦(右)

2002年2月、早稲田大学ラグビー部は英国に遠征した。
目標はズバリ、
「オックスフォード大とケンブリッジ大を倒すこと。」
また
「試合だけでなく芸でも勝つ」
とアフターファンクションでの演芸係として、演芸隊長と隊員2名が選出された。
出発日はひたすら移動。
まずは成田からロンドンまで12時間。
ヒースロー空港からダブリンまで1時間半。
そこからコークまでバスで5時間。
ホテルに着いたのは夜中の0時過ぎ。
要した時間は22時間だった。
翌日は朝7時前に起床し、練習だった。
しかしホテルが停電し、6時50分のモーニングコールがかかってこず遅れる選手が続出した。
この遠征では、ギャンブル好きの清宮の発案で、罰金刑があり、遅刻や与えられた役割でミスを犯すと有無をいわさず5ユーロの罰金が集められる。
罰金で積み立てられ、遠征でMVPを獲得した選手へのプレゼントに使われた。
初日の朝から多くのお金が貯まった。
清宮は、オックスフォードのホテルで、早稲田大学ラグビー部の先輩で、ロンドンの日本大使館に赴任したばかりの奥克彦に会った。
清宮は事前に奥にメールである依頼をしていた。
「今年は絶対に大学日本一になるので、全員が一丸となれるスローガンをつくってください。」
2人は5時間くらい、夜中の12時過ぎまでスローガンづくりをした。
奥が次々、スローガンを出す。
清宮は
「難しい。」
「いいにくい。」
「長すぎる。」
などと却下していった
奥は30個くらい出したが、結局このときのスローガンづくりは失敗に終わった。
後日、ケンブリッジのホテルで奥と清宮は2回目に臨んだ。
開始から1時間くらい、
奥が
「UltimateCrash(アルティメットクラッシュ、完膚なき圧勝)。」
といった
「それだ!」
瞬間、清宮が叫んだ。
2人に笑顔が広がった。
これで決まった
部屋を出てホテルのバーで飲んでいたキャプテンの山下大吾にスローガンを伝えた。
「それ、いいっすね!」
山下もすぐに乗った。
遠征後、日本に帰ってから全員にスローガンが伝えられた。
この後、シーズン中、山下はことあるごとに
「アルティメットクラッシュだ。」
と叫んだ。
そしていつの間にか「アルティメットクラッシュ」と聞くだけでチーム全員の気持ちが1つにまとまるようになった。

清宮克幸と奥克彦

2002年3月16日、東伏見で、2002年度ファーストミーティングが行なわれた。
清宮は今シーズンのスローガン、チームコンセプト、課題等を選手に伝えた。
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 理想と目標

  ラグビーを通して世の中に希望と感動を与える
  創造と鍛錬による常勝集団となる
  全国大学選手権優勝

 スローガン

  ULTIMATE CRASH
アルティメットクラッシュ

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今シーズン新たに掲げられたスローガンは『ULTIMATE CRASH』
ULTIMATEとは、こだわり、徹底、究極
昨シーズンの5つのキーワード、『継続』『高速』『精確』『独自性』『激しさ』にこれらの要素を加え
相手を「完膚なきなでに叩きのめす」という意味がこめられている

2人に教わったのは、勝利を追及する気持ちの大切さ

グラハム・ヘンリー

グラハム・ヘンリー

2002年6月9日、ウェールズから2人の臨時コーチが指導のために来日した。
元ブリティッシュライオンズ(英国選抜)監督で、現オールブラックス(ニュージーランド代表)監督であるグラハム・ヘンリーとウェールズ代表キャップ51を誇るデビッド・ヤングである。
グラハム・ヘンリーは、清宮が主将だったとき(1989年)にも早稲田大学ラグビー部をコーチをしたことがあった。
彼らは広島でチームと合流し、全広島(マツダと中国電力の合同チーム)に101対5で早稲田大学が圧勝する試合をみた。
「13年前に来たときよりいいチームだよ。
私には教えることなど何もない。
もうウェールズに帰るよ。」
東京に帰ってから、ヘンリーはバックスのサインプレー、ヤングはフォワードの強いスクラムの組み方を指導した。
彼らは数多くの技術的サポートを行ったが、何よりも早稲田の選手に明確に戦う目的、戦う意識を与えた。
 (1810514)

ヤングは、「フロントローの選手が肉体的にも精神的にもチームで1番強くなくてはならない」という持論の持ち主で、それを徹底的に教えた。
スクラムはフォワード8人で押して押しまくるもので、技術は2の次だった。
8人がまず「スクラムでは押してやる」という気持ちを明確に意識しなければならない。
小型のフォワードは、スクラムで押される前に素早くボールをバックスに回して展開しようとする。
早稲田のフォワードも「絶対押す、負けない」という根本的な負けじ根性がなかった。
「俺たちは強い」「絶対に押されない」という確固たるイメージを抱いてスクラムを組むのと、相手の力をうまく受け流して上手に勝負しようと考えながら組むのでは、練習の成果に大きな差がある。
ヤングはその負けじ根性を植えつけた。
「カモン!」
そういって円陣を組んで
「俺たちは負けないんだ。」
と常に言い続けた。
そして技術的には、足のポジション、手の位置、コーリング(声出し)を教えた。
試合後のビデオチェックでヤングが1番はじめに指摘したのは、ファーストスクラムに駆け寄るフロントローの選手たちの姿勢だった。
彼は
「さあ俺たちの出番だ。
ファーストスクラムだ。」
と満を持して身体全体からオーラが出るくらい強い気持ちで挑まないといけないという。
黙ってうつむいて集まったところでよいスクラムが組めるわけがない。
「さあ組むぞ。
やってやるぞ。」
という気持ちがすべて。
足の位置がどうのこうのというのはずっと後の問題だというのだ。
練習から常に俺たちが1番だという気持ちでやらないと強くならないのである。

2002年6月の最終日曜日。
調布の味の素スタジアムの併設施設:アミノバイタルフィールドで、早稲田Aチームは関東学院と練習試合を行い、35対34で勝利した。
しかしノーサイドの瞬間、笑顔をみせるものは一人もいなかった。
トライ数は5本対6本。
アタックは少なく、多くの時間をディフェンスに強いられた。
序盤こそ先行したが、前半34分に逆転されると、後半20分までの間に3つのトライをとられ20点も差をつけられた。
関東学院のフォワードが後半途中で退くと、早稲田は後半26分、30分、32分と意地の3連続トライ。
最終的には得点でも上回ったが内容的には負けたも同然だった。
1ヶ月ほど早稲田で指導したグラハム・ヘンリーとデビッド・ヤングは最後にこんな言葉を残していった。
「あのチームには勝てないという苦手意識を持つことが1番いけないことなんだ。
6月の勝利で早稲田には関東学院には勝てないという意識がなくなったはずだ。
これこそ何物にも代えられないものすごい財産になるんだ。」

さよなら東伏見グラウンド

2002年7月7日、東伏見グラウンドさよならイベントが開催された。
74年間、早稲田大学ラグビー部が親しんだ東伏見グラウンドが2002年限りで閉鎖され、上井草の新グラウンドに移ることになった。
第2次大戦中、早稲田のラグビー部員も招集されたが、そのとき彼らはジャージやボールなどを地中に埋めたという。
戦争が終わり、生きて帰って来れた者はそれを掘り起こしてラグビー道具を出し練習をはじめた。
仲間は減り、食料もなく、希望もない中でどんな気持ちで練習したのだろうか?
そういう人々の汗と気持ちが早稲田ラグビーの礎となった
もちろんそれ以前、それ以後、いくつもの世代のドラマが、このグラウンドでは埋まっている。
清宮は3月からイベントを企画しはじめた。
年末の1万人の第九をヒントにOBを1万人を呼んで北風を歌う「1万人の北風」
近くのサントリーアイスアリーナで早稲田大学ラグビー蹴球部85年展。
この地に早稲田ラグビーがあったことを示す記念碑設立。
大西鐡之祐展。
オークション。
ゲーム。
レクリエーション。
現役とOBの対抗戦。
記念限定版グッズの販売。
東伏見の限定した写真集。
サントリーモルツ早稲田ラグビーオリジナル缶。
東伏見グラウンドの土で焼いたマグカップ。
オリジナルTシャツ。
キャップ。
西武鉄道は
新上井草グランドのために土地を提供した経緯もあり、このイベントを車内吊ポスターで宣伝した。
当日9:30分、客が詰め掛け出し、10時に開場し、11時には1万人を突破。
司会はNHKの斉藤洋一郎アナとフジテレビの菊間千之アナ。
(斉藤も菊間も早稲田OB、OG)
参加したOBやファンは東伏見を満喫した。
スピーチが長過ぎるとひんしゅくを買った清宮は親子リレーで息子と走った。
記念試合に出るOBもいた。
イベントは大成功だった。
しかし1つだけ失敗した。
清宮の皮算用で収支が大赤字になった。
「記念品の販売でトントンになるはずだったのだが・・・・」
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